第四幕 ハール城の攻防①
第一章 東へ
ロートリット・テンペストが南方戦線に降り立ってから、三度目の秋が巡ってきた。
かつて砂塵と絶望に覆われていた南方は、今やB中隊の徹底した「合理」による統治と戦果によって、奇跡的な平穏を保っていた。地平線を焼く陽炎は相変わらずだが、兵士たちの瞳から卑屈な陰は消え、彼らは「戦場のプロフェッショナル」としての誇りをその身に纏っていた。
運命の歯車が軋んだのは、駐屯地に秋の乾いた風が吹き抜け、枯れ草が石畳の上を踊るように転がっていた日の午後だった。
現れた使者は、いつもの南方軍管区の者ではなかった。その軍服の意匠、そして馬の鞍に刻まれた紋章は、帝都の心臓部――「帝国参謀本部」直属であることを示していた。
届けられた命令書には、参謀本部の重厚な黒い封蝋が施されていた。
ロートは、その封を解く瞬間に指先が微かに冷たくなるのを感じた。一傭兵団にすぎないB中隊に、軍の中枢が直接命令を下す。それは、この任務が単なる「戦力補強」ではないことを意味していた。
「……東部戦線、ハール城攻略支援任務」
ロートが低い声で読み上げると、横で地図を広げていたアランが、弾かれたように顔を上げた。
「東部だと? ……冗談だろう。ここから東部までは、どれだけの距離があると思っている。それに、なぜ南方の『掃除屋』である俺たちに、隣国との最前線へ行けなんてお鉢が回ってくる」
「出発は十日後。命令の末尾には、詳細は現地司令官から、とある。情報の遮断……というより、意図的な隠蔽を感じるな」
「東部ハール城。丸一年、戦線が膠着している、鉄壁の要塞だ。あの第三騎士団が総力を挙げて包囲しても、城門の欠片すら壊せていないと聞くぜ。そんな死地へ、わざわざ移動に時間のかかる傭兵団を呼び出す……」
アランは吐き捨てるように言い、ロートの青い瞳をじっと見つめた。
「隊長、あんたはどう見る。この命令の『裏』を」
「合理的な理由が見当たらない。それ自体が答えだ。正規軍で落とせない城に傭兵を投入するのは、戦術的な期待ではない。――正規の騎士団にはさせられない『汚れ仕事』か、あるいは、B中隊という存在そのものを消し去るための『墓場』か。どちらかだ」
沈黙が流れた。執務室の窓から差し込む夕陽が、紺碧のマントの金糸を赤く染める。
「捨て駒か」
アランの短い言葉には、怒りよりも深い諦念と覚悟が混じっていた。
「その可能性は極めて高い。……だが、命令だ。拒否権はない」
ロートは命令書を握りしめ、前を見据えた。
「ただし、全員を生かして帰す。その前提が崩れるのであれば、私は現地で独断専行も厭わない。私の部下を、意味のない死へ送り出すつもりはないからな」
「……その言葉、信じさせてもらうぜ。あんたなら、地獄の入口で死神とでも交渉しそうだからな」
その日の夕刻。砦の広場に集まった千人の傭兵たちを前に、ロートは一切の虚飾を排して事実を告げた。
ハール城が丸一年にわたって帝国軍を跳ね除け続けている難攻不落の要塞であること。B中隊が呼ばれた理由が極めて不透明であり、自分たちが「捨て駒」にされる可能性が濃厚であること。
兵士たちの間に、ざわめきではなく、石を投げ込まれた水面のような静かな動揺が広がった。
「隊長。一つ聞かせてください」
最前列でジャンが、震える手を上げて問いかけた。
「俺たちは、死ぬために東へ行くんですか。……俺たちがここで積み上げてきた三年間は、使い捨てられるための助走だったんですか」
ロートは、ジャンの目を逸らさずに答えた。
「軍部はそう思っているかもしれない。……だが、各自が決めることだ。諸君は傭兵だ。契約を破棄し、ここで軍籍を捨てる権利もある。私はそれを止めない。……自分の命の使い道は、自分で選べ」
「……隊長はどうするんだ」
古参のラサールが、腕を組んで凄みのある声で問いかけた。
「あんたは『テンペスト』の名を持つ。成功してもその功績はかき消され、失敗して東部の泥沼でその名が消えれば、帝都の連中はさぞかし祝杯を挙げるだろうよ。一番都合よく消される立場なのは、あんたなんだぞ」
「そうだな。私の名は帝国にとって、今も喉に刺さった棘だ。抜けるものなら抜きたいだろう」
ロートは静かに、しかし鋼のような硬さを持って言い切った。
「だが、私はB中隊の隊長だ。隊長が逃げ出すような部隊に、生き残る資格はない。私は行く。諸君と共に、東部の泥濘を越え、その城を落とし、そして全員でこの南方の太陽の下へ帰ってくるためにだ」
静寂が広場を支配した。
最初に動いたのはアランだった。彼はロートの横へ一歩踏み出し、大剣を地面に突き立てた。
「……俺は行くぞ。真実が知りたくなってきたからな」
「俺も行く!」
ジャンが叫び、続いてラサールが「当たり前だ、俺を置いていくな」と怒鳴った。
連鎖は一瞬で千人に伝播した。去る者は一人もいなかった。彼らはもはや、金で動く兵士ではなかった。ロートという一人の女性が掲げる「誇り」という名の旗の下に集った、鋼の軍団となっていた。
東部への移動は、十二日間に及ぶ過酷な行軍となった。
南方の喉を焼く熱風は、進むにつれて湿り気を帯びた重苦しい風へと変わり、景色は鮮やかな緑と深い霧に包まれた。土の色は赤から黒へ、そしてぬかるんだ泥へと姿を変える。
その道中、ロートは馬上の人となりながらも、常に一冊の記録を読み耽っていた。グレイドル将軍の伝手で手に入れた、ハール城の設計図の写しである。
出発前夜に届いたグレイドルからの手紙には、ただ一言、こう記されていた。
『気をつけろ。命令の裏を読み取ることだ。――ゼイラムの娘ならば、それができるはずだ』
ロートは設計図を穴が開くほど見つめ、その城の「絶望」を理解しようとした。
ハール城は、山そのものを要塞化した三重の山城である。
第一壁、第二壁、第三壁……内側へ進むほど標高が高くなり、攻め手は常に頭上から死の雨を浴びることになる。正面攻撃は自殺行為だ。だが、唯一の補給路である裏側の険峻な山道は、大軍を展開させる余地のない天然の断崖絶壁となっていた。
第三騎士団が丸一年かけて落とせなかった理由。それは、彼らが「正規軍」として正攻法に固執しすぎたからだ。
ロートの指先が、設計図の裏側、断崖絶壁に描かれた微かな等高線をなぞる。
「……大軍が通れぬなら、少数ならどうか。……いや、人間ではない『影』ならばどうか」
彼女の脳裏に、一つの無謀な戦術が火花のように散った。
東部の冷たい霧が、B中隊の紺碧のマントを湿らせていく。
ハール城の攻略、それはロートリット・テンペストにとって、帝国の闇と正面から対峙する最初の試練となろうとしていた。




