第三幕 荒野の剣⑧
第八章 サンドワーム
ロートリット・テンペストがB中隊の隊長として、南方戦線での二年目の夏を迎えた頃。
その年の焦熱は、過去のいかなる記録をも上回る熾烈なものだった。連日の旱魃は、砂漠の深部に潜む古き生態系さえも狂わせ、ついに「それ」を帝国の版図へと引き摺り出した。
――サンドワームの出現。
帝国の公式文書において、それは「砂漠の民が語り継ぐ伝説上の怪異」として分類され、学術的な実在を否定されていた。しかし、砂礫と共に生きる南方の古老たちにとって、それは百年に一度、地獄の蓋が開くが如く現れる「動く災厄」そのものだった。全長三十メートル。地中を泳ぎ、大地の振動を獲物の鼓動として捉え、石造りの砦さえも内側から突き破る巨大な捕食者。
最初の被害報告が砦に届いた時、執務室には凍り付くような沈黙が流れた。
「……国境沿いの農村が、一夜にして地図から消えた? 地中から突き上げられたように崩壊しただと?」
副長のアランが、報告書を握り潰さんばかりの力で問い返した。その瞳には、戦士としての本能的な警戒と、未知の存在への疑念が混じり合っていた。
「隊長、正気かよ。全長三十メートルのミミズの化け物なんて、お伽噺だろ? 地震か何かの間違いじゃないのか」
「現場を見てから判断する。アラン、偵察隊十名を招集しろ。……もし、これが本当に伝説通りの代物なら、既存の戦術は一切通用しない」
ロートの声は、酷暑の中でも冷徹なまでの透明度を保っていた。
現場に到着した彼女たちが目にしたのは、無惨な光景だった。農村の跡地は、まるで巨大な杵で内側から叩き壊されたように粉砕され、石造りの家々の基礎が、鋭利に割れて天を指していた。その中心には、直径二メートルを超える円形の大穴が、暗黒の口を開けていた。
アランが穴の縁に膝をつき、砂に残された這い跡を指でなぞる。
「……こいつは、冗談じゃねえな。この抉り取られたような跡、岩盤ごと噛み砕いてやがる」
「伝説は、往々にして誇張された真実だ。アラン、この『災厄』を調べる。生かしてはおけない」
ロートはその夜、近隣の村で「生ける辞書」と呼ばれる八十歳の古老を訪ねた。老人は震える指で砂の上に図を描き、百年前の悲劇を口伝として語った。
「あれは『耳』を持たぬが、大地の震えを敏感に嗅ぎ取る。足を踏み鳴らすな、馬を走らせるな、鐘を鳴らすな。振動が大きければ大きいほど、奴はそれを『肥えた獲物』だと認識し、地底から食らいついてくる」
「弱点はあるのか?鋼の剣は通るのか?」
ロートの問いに、老人は首を振った。
「外皮は岩より硬い。だが、内側は……口を開けたその奥だけは、柔らかい身が剥き出しだ。百年前、勇気ある若者が松明の束を抱えてその口に飛び込み、内側から焼き尽くしたという話がある。あれは光を、そして強い熱を何よりも嫌うのだ」
砦に戻る道すがら、アランは押し黙っていた。ロートの隣を歩く彼の表情は険しい。
「……聞いたか。松明を抱えて口に飛び込むだと? そんなの、自殺志願者のやることだ」
「囮が要る。それも、奴を確実に引き寄せるほどの大きな振動を立てる囮が」
「囮は太鼓を打ち鳴らし、サンドワームが自分を飲み込もうとするその瞬間まで、地面にへばりついてなきゃいけねえ。……そんな真似、誰がやるってんだ」
「死なせはしない。逃げ道を作るのが私の役割だ」
翌朝、ロートは作戦の骨子を中隊に告げた。
決戦の場は、砂漠と帝国領の境界に近い、見通しの良い平原。
前日までに、工兵部隊が二箇所の巨大な落とし穴を掘削した。直径三メートル、深さ四メートル。穴の底には油を染み込ませた木材を敷き詰め、上部は薄い木材と砂で巧妙に偽装した。
さらに、穴の周囲には人間一人だけが走り抜けられる細い「溝」を巡らせた。サンドワームの巨大な体躯では入り込めない、防空壕のような退避路だ。
「囮役が必要だ。この任務は強制しない。……志願者を」
ロートが告げると、重苦しい沈黙の後、十二人の兵士が前に出た。
その中には、若き新兵のジャンの姿もあった。
「ジャン。お前には故郷に老いた両親がいるな。今回は外れろ」
「隊長! 俺だってB中隊の兵士です! 役立たずだと思われたくありません!」
「役立たずなどと言っていない。これは合理的な判断だ。お前は予備兵力として、後方での火矢の斉射に回れ。……家族がいる者に、無用な博打は打たせない」
ロートの冷徹だが情け深い声音に、ジャンは唇を噛んで引き下がった。彼女の優しさは、いつもこのように「合理」という冷たいオブラートに包まれていた。
三日後。陽炎が揺れる砂地に、不気味な太鼓の音が鳴り響いた。
ドンドンドンドン――。
囮役の十二人が、心臓の鼓動をなぞるように地面を叩く。
砂が、微かに踊り始めた。最初は雨粒が跳ねるような繊細な動きだったが、次第にそれは、地底で何かが巨大な歯車を回しているような重低音へと変わっていった。
「……来た。全員、溝に飛び込め!」
ロートの号令と同時に、砂漠の彼方から「波」が押し寄せた。地面が生き物のようにうねり、砂を豪快に跳ね上げながら、黄褐色の環状の節に覆われた巨体が姿を現した。
サンドワーム。
その全長は二十メートルを超え、太陽の光を浴びて鈍く輝く鱗のような外皮は、まさに動く岩石の塔だった。目を持たないその怪異は、正確に太鼓の振動を捉え、砂を割りながら突進してくる。
「溝へ! 急げ!」
囮たちが太鼓を捨て、側面の溝へと身を投げ出す。
サンドワームはその質量を制御しきれず、振動の発生源であった落とし穴の真上を通過した。
バキバキと音を立てて偽装の木材が砕け散り、巨体の三分の一が穴へと脱落する。地響きと共に砂が舞い上がり、サンドワームは自重で動きを封じられた。
「今だ! 火矢を放て!」
ロートの剣が閃く。
待機していた百名の弓兵から、同時に火矢が放たれた。黄金の雨が穴へと降り注ぎ、底に敷き詰められた油に引火する。
サンドワームが、これまでに聞いたこともないような甲高い、金属を擦り合わせるような咆哮を上げた。苦痛に身をよじり、巨大な口腔が真っ赤に開かれる。
その直径は二メートルを超え、内側には同心円状に並んだ無数の鋭利な牙が、肉を磨り潰すために待ち構えていた。
「内側だ! 今しか狙えない!」
アランが、咆哮の最中に走り出した。
その背中には大剣、そして左手には、油をたっぷりと染み込ませた特製の松明束を抱えている。
「アラン、待て!」
「待てるかよ! 隊長こそ、そこで見てな!」
アランは穴の縁、ギリギリの位置まで駆け抜けると、身を翻して口腔へと飛び込む姿勢を取った。彼はサンドワームが吐き出す熱風と粘液の飛沫を浴びながら、力一杯に松明束を放り投げようとした。
だが、彼の視界の端に、もう一つの影が並んだ。
紺碧のマントを翻し、同じように松明の束を抱えたロートだった。
「隊長!? あんたまで何してやがる!」
「一人には任せないと言ったはずだ! アラン、投下しろ!」
二人は空中で火の粉を散らす松明の束を、同時にサンドワームの喉奥へと叩き込んだ。
内側の柔らかい粘膜に、猛烈な熱と炎が接触する。サンドワームは狂乱し、全身を激しく打ち付け、周囲の地面を粉砕した。
ロートとアランは、爆風に煽られるようにして地面を転がった。
砂塗れになりながらも、二人は即座に起き上がり、死に物狂いで安全圏へと脱出する。
十分後。
内部から焼き尽くされた巨大な死骸は、黒煙を上げながら沈黙した。大地の震えは、ようやく止まった。
砦への帰還後、中隊が勝利に沸く中で、ロートとアランは本部棟の回廊で対峙していた。
アランは顔の汚れも拭わず、苛立ちを隠せない様子で大剣を壁に立て掛けた。
「……反省会だ。隊長、俺が勝手に動いたのは謝る。だが、あんたがあそこまで突っ込んでくるのは計画になかったはずだぜ」
「謝罪は不要だ、副長。お前が動かなければ、結局は私が動いていた。……あの状況で、最も生存率が高く、かつ確実に仕留める方法は、二人で同時に投下することだと判断した」
「生存率だと? 二人して食われかけたのが『生存率』かよ!」
アランが詰め寄る。その瞳には、彼女を失いかけたことへの怒りと、底知れぬ恐怖が渦巻いていた。
「……お前が口腔に飛び込もうとするのを見て、私は理解した。お前を一人で行かせれば、お前は自らの命を囮にするだろう。だが、私が共にいれば、お前は『二人で生き残る』ために全力を尽くす。……違うか?」
ロートの冷徹な分析に、アランは言葉を失った。図星だった。彼は死ぬ気だった。しかし、彼女が横に来た瞬間、彼は死んでも彼女を助けなければならないという、強烈な生への執着に切り替わったのだ。
「……あんた、本当に。……最悪の指揮官だな」
「お前に止められると分かっていたから、事前の相談はしなかった。……それだけだ」
アランは呆れたように大きな溜息をつき、頭を乱暴に掻いた。
「……分かったよ。理屈じゃあんたには一生勝てねえ。だがな、隊長。一つだけ、これだけは譲らねえ約束をさせてくれ」
「何だ」
「次に今回みたいな、死神の鼻先を掠めるような真似をする時は……必ず先に言え。俺に止める時間をよこせ。……それでも行くって言うんなら、俺も行く。地獄の底まで付き合ってやる」
ロートはアランの瞳をじっと見つめた。そこには、副長としての忠誠を超えた、魂の契約のような響きがあった。
「……分かった。相談すると約束しよう。お前が止めても、私が行くと決めた時には、共に来るがいい」
「……よし。それでいい」
アランは満足げに、そして不敵に笑った。
南方の夜空は、今日も密度を増した星々が輝いている。
巨大な化け物を討ち倒した英雄たちは、砂塵にまみれた体で、共に向かうべき次の戦場へと視線を向けた。
ロートの肩で、紺碧のマントが夜風を孕んではためく。その紋章の鷲は、まるで大地の震えを鎮めた戦果を誇るかのように、静かに黄金の光を湛えていた。




