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第三幕 荒野の剣⑦




第七章 砂漠の民




 B中隊の名が、帝国の南端において「ただの傭兵崩れではない」という確信を持って広まり始めたのは、空気が白く沸き立つような盛夏のことだった。


 南方の夏の熱気は、北方のそれとは本質的に異なっていた。地平線は陽炎に歪み、見渡す限りの砂岩と枯れ草が、まるで呼吸を止めたかのような静寂の中で熱を蓄えている。その静寂を破るようにして、国境線を越える影たちが現れた。


「砂漠の民」と呼ばれる者たちだった。


 彼らは国境線の外側、果てしなく広がる大砂漠に部族単位で暮らす漂泊の民である。これまでは帝国領内の反乱分子とは距離を置き、独自の秩序で生きてきた。だが、その年は何かが違っていた。砂漠の深部で三年越しの旱魃かんばつが起き、彼らの命の綱であるオアシスが次々と干上がったのだ。


 最初、彼らは十数人の小規模な集団で現れ、国境付近の井戸を求めて彷徨っていた。だが、夏が深まるにつれ、その数は数百、数千へと膨れ上がった。飢えと渇きに追い詰められた彼らは、生きるために略奪という手段を選ばざるを得なかった。農村は荒らされ、家畜が強奪され、抗う農民たちが傷ついた。しかし、報告書には奇妙な共通点があった。「死者が極端に少ない」のである。


 砦の執務室、熱風を遮るために厚いカーテンを下ろした薄暗がりの中で、ロートは届いたばかりの急報を広げていた。


「アラン、至急調べてほしいことがある。戦術的な情報ではない」


 傍らで地図の重しを調整していたアランが、意外そうに顔を上げた。


「砂漠の民の襲撃パターンか? それとも武器の出処か」


「違う。――彼らが置かれている『事情』だ。砂漠深部の旱魃の正確な規模、流入している総人数。そして何より、過去五十年の間に、同様の事態が発生した際の帝国の対応事例。記録の断片をかき集めてくれ」


 アランは一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。


「……対応事例、だと? そりゃまた、戦う前にずいぶんと気の長い調査だな。連中は現に国境の村を襲ってるんだ。排除を急ぐべきじゃないのか?」


「動く前に知れることはすべて知る。それが私の流儀だと言ったはずだ、アラン」


 ロートの声には、冷徹なまでの静けさがあった。


「彼らの目的が『帝国への宣戦』なのか、『生存のための悲鳴』なのか。それを見極めなければ、無益な血が流れることになる。私の仕事は、中隊の損失を最小限に抑え、任務を遂行することだ。感情ではなく、合理で動きたい」


 アランは溜息をつきながらも、その瞳には信頼の色を浮かべていた。


「……分かったよ。書庫の幽霊になってくる。あんたの言う通り、智慧は剣より重いってことを、俺も学んだからな」




 三日後。アランが砂塵にまみれた古い羊皮紙の束を抱えて戻ってきた。


 彼の調査によれば、砂漠の民の食料備蓄はすでに底を突き、このままでは一族が根絶やしになる寸前であること。そして五十年前の同様の旱魃の際、帝国軍は武力による徹底排除を試みたが、死兵と化した民の激しい抵抗に遭い、双方に数千の犠牲者を出したという忌まわしき記録が掘り起こされた。その際、最終的には「小麦の現物支給」という、帝国側が大幅に譲歩する形で折衝が成立していた。


「五十年前の教訓、か」


 ロートはアランが持ってきた資料に指先を這わせた。


「結果として、帝国は大量の血を流し、さらに食料まで手放した。当時の指揮官は合理性を欠いていたと言わざるを得ない」


「だが、隊長。今の帝国の上層部はその教訓を忘れているか、あるいは軽んじている」


 アランが渋い顔で付け加えた。


「命令書は昨日届いたぞ。『不法侵入者を速やかに排除せよ。慈悲は無用なり』と。つまり、皆殺しにして追い払えってことだ」


「分かっている。だが、排除の方法までは指定されていない」


「……また、何か企んでるな?」


「最小限の損害で、目的を果たす。彼らは死にたいわけではなく、生きたいだけだ。殺し合う必要のない相手と、消耗戦を演じるほど中隊は暇ではない」


 ロートの立案した作戦は、極めて独特な「威圧」だった。


 砂漠の民の集団は三つに分かれていた。ロート、アランとラサールにそれぞれ三百の兵を与え、二つの集団に対して「圧倒的な戦力差」を見せつけさせる配置を命じた。


 戦うのではなく、相手の逃げ道を「国境の外」へ向かって一点だけ開け、それ以外の全方位を鋼の壁で塞ぐ。逃げれば追わない、留まれば叩く。その意思表示を、武器の響きだけで伝える高度な機動演習であった。


 だが、問題は三つ目の集団だった。彼らはすでに一つの農村を占拠し、住人を人質にするような形で立てこもっていた。住人への被害を出さずに排除するには、武力行使はリスクが大きすぎた。


「私が一人で出る。村の入口まで馬を進める」


 その言葉に、砦の広場で出撃準備を整えていたアランが叫んだ。


「正気か? 相手は飢えて興奮している連中だ。使者の礼儀なんて知ったことか、と殺されたらどうする」


「一人で行くから意味があるのだ、アラン。こちらに戦う意志がないことを示すには、丸腰の使者がもっとも効率的だ。それに、今の彼らに帝国との全面戦争を選ぶ余裕はない。使者を殺せば、帝国正規軍の本気の報復を招く。彼らの指導者が賢明であれば、それは最悪の選択だと理解しているはずだ」


「理屈はいい! だが、あんたに万が一があったら、この中隊はどうなるんだ!」


「その時はお前が指揮を執れ。……アラン、これは命令だ。私が戻るまで、絶対に動くな」


 ロートは紺碧のマントを翻し、白馬の腹を蹴った。


 背後でアランが「くそっ、あの頑固者が!」と叫ぶ声が聞こえたが、彼女は振り返らなかった。



 農村の入口。砂埃が舞う広場には、砂漠の民の見張りが三名、槍を構えて立っていた。


 ロートは馬を歩かせ、彼らの槍先が喉元に届く距離で止めた。腰の剣には手をかけず、両掌を広げて空であることを示す。


「話をしたい。南方の共通語は分かるか。……私は戦いに来たのではない」


 見張りの一人が、ロートの纏うテンペスト家のマントを凝視した。その威厳に気圧されたのか、彼は黙って奥へと走った。


 しばらくして、村の影から一人の男が現れた。


 男は壮年で、褐色の肌に砂漠の民特有の青い染料で複雑な紋様を描いていた。その瞳は飢えで鋭くなっていたが、同時に深い理知を湛えている。


「帝国の騎士が、たった一人で我らの前に立つとは。命が惜しくないのか、それとも、我らを見くびっているのか」


 男の声は、乾いた風のように掠れていた。ロートは馬から降り、男の正面に立った。


「どちらでもない。……私はただ、無駄な仕事を嫌うだけだ」


「無駄な仕事だと?」


「砂漠で旱魃が三年続き、貴方たちのオアシスが枯れ、家畜が死に絶えたことも知っている。貴方たちは略奪者になりたいわけではなく、ただ明日を繋ぐパンが必要なだけだ。……違うか?」


 男の目が僅かに見開かれた。


「……調べていたのか。帝国の軍人など、我らを害虫のように踏み潰すことしか考えぬものだと思っていたが」


「私は帝国の正規軍ではない。ただの、合理を愛する傭兵隊長だ。……貴方たちの指導者か」


「私はアズラク。この氏族の長だ」


「アズラク、条件を提示する。今すぐこの村を明け渡し、住民に掠め取った食料の半分を返せ。残りの半分は、貴方たちの明日への糧として見逃してやる」


「……笑わせるな。村を出て、砂漠に戻れと言うのか? そこには死しかない。追い返されるくらいなら、ここで戦って死ぬまでだ」


 ロートはアズラクの瞳をじっと見つめた。その視線は憐れみではなく、対等な取引相手に向ける鋭いものだった。


「国境沿いに、放棄された廃村が三つある。帝国の公式な管理下にあるが、不毛の地ゆえに何年も放置されている場所だが、水源はある。そこを一時的な滞留地として提供しよう。その代わり、帝国領の深部へは一歩も踏み込むな。深部に入れば私は容赦なく貴方たちを討つ。その国境沿いの廃村に留まる限り、私は貴方たちの存在を『見落とす』ことを約束しよう」


 アズラクは沈黙した。周囲の戦士たちがどよめく。それは、帝国の指揮官が口にして良い言葉ではなかった。明らかな独断、もっと言えば反逆に近い。


「……お前は、帝国の軍人なのだろう? そんな勝手な真似をして、処罰されるとは思わぬのか」


「それは私の問題だ。アズラク、私は自分の隊の兵を一人も失いたくない。そして、貴方たちのような誇り高い戦士を、飢えという醜い理由で屠ることも望まない。……どちらが合理的か、言うまでもないだろう?」


 アズラクは長い沈黙の後、ゆっくりと槍を置いた。


「……合理的、か。貴様は本当に奇妙な騎士だな。その碧いマントは、偽りではないようだ」


 交渉はその日のうちに妥結した。


 砂漠の民は村を去り、住民に謝罪の言葉を残した。奪われた食料の半分が返還され、農民たちは怯えながらも、血が流れなかったことに安堵の溜息を漏らした。





 砦への帰還後、ロートは報告書を作成していた。


 背後で、アランが腕を組んで彼女の書くペン先を眺めていた。


「……で、廃村の件はどう書くつもりだ? 『難民に住居を提供した』なんて書いたら、今度はあんたが処刑台行きだぜ」


「報告『は』する。ただし、事実の羅列だ。『不法侵入した民族を最小限の交戦で排除し、国境線まで後退させた。以後、国境付近の廃村における断続的な潜伏を黙認し、緩衝地帯として監視下に置く』……これでいい」


「『黙認』、か。ずいぶんと都合の良い言葉だな」


「帝国の上層部は、南部で死人が出ず、街道の安全が確保されていることさえ確認できれば、廃村の瓦礫の下に誰が住んでいようと興味はない。彼らが求めているのは『平和』ではなく『管理』だからだ」


 ロートはペンを置き、インクを乾かした。


「……あんたは、時々恐ろしい賭けをする。父親譲りなのか?」


 アランの問いに、ロートは少しだけ視線を北へ向けた。


「いや。父なら、もっと美しく、騎士道に則った解決をしただろうな。……私はただ、泥にまみれても勝利という結果を拾いたいだけだ。それが、今の私のテンペストの名を守るための戦い方だ」


 アランはそれ以上何も言わなかった。





 数日後、帝国の南方担当官から受理の連絡が入った。そこには、B中隊の「効率的かつ迅速な排除」を高く評価する旨が記されていた。


 その夜、ロートは一人、砦の屋上で風に吹かれていた。


 遠く、国境付近の廃村のあたりに、微かな焚き火の光がいくつも揺れているのが見えた。


 それは、合理によって救われた命の灯火だった。


「……見ていてください、御屋形様。私は、私のやり方でこの剣を振るい続けます」


 テンペストのマントが、夜風を孕んで大きくはためいた。


 黄金の鷲は、砂漠の闇を見据えたまま、その鉤爪をさらに深く、この地に食い込ませようとしているようだった。




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