第三幕 荒野の剣⑥
第六章 砂塵の戦線
帝国の南方は、北方のそれとは全く異なる牙を持っていた。
北の冬が「凍てつく沈黙」であるとするなら、南の冬は「喉を焼く渇き」と「骨を刺す冷気」が交互に襲いかかる、狂ったような二重奏だった。
雪は降らない。しかし、地平線の彼方から吹き抜ける砂混じりの風は、皮膚をやすりで削るように容赦なく打ち付ける。夜になれば気温は氷点下まで急降下し、戦士たちの体温を無慈悲に奪うが、太陽が昇れば一転、乾いた熱気が岩肌を焼き、陽炎を揺らした。
この極端な寒暖差は、兵士たちの体力を奪うだけでなく、精神の平穏を確実に蝕んでいった。北の出身者は日中の焦熱に意識を朦朧とさせ、南の出身者は深夜の底冷えに歯の根を合わぬほど震わせる。B中隊という多様な背景を持つ千人の集団は、この地において、あらゆる弱点を露呈する脆い器となっていた。
ロートはその脆さを、合理という名の鉄槌で叩き直した。
彼女は着任早々、これまでの伝統的な軍務を廃し、新たな「体温管理マニュアル」を部隊に徹底させた。
まず、日中の過酷な時間帯に行われていた屋外訓練を廃止。訓練は、日が高くなる前の早朝と、太陽が西に傾き始める夕刻の二分割とした。もっとも熱い真昼の数時間は、装備の手入れや個々の休息、そしてロート自らが講師を務める戦術講義に充てられた。
さらに夜営では、百人長たちに当番制の「火守」を命じ、兵士たちが体を冷やしたまま眠りに落ちることがないよう、徹底した見回りを義務付けたのである。
「細かすぎる。あんた、戦いに来てるのか、介護に来てるのかどっちだ」
不貞腐れたように吐き捨てたのは、百人長のラサールだった。以前のような剥き出しの敵意こそ薄れたものの、その言葉には、古参兵としての困惑が混じっていた。
「細かくして困ることより、怠って困ることの方が多い。それだけのことだ、ラサール」
ロートは執務机に広げた古びた日誌から目を上げず、淡々と、しかし拒絶を許さぬ口調で続けた。
「過去、この南方戦線において、夜営中に兵士が体温を奪われ、翌日の戦闘能力が著しく低下したと記録されている事例が十七件ある。そのうち九件では、本来防げたはずの奇襲によって中隊規模の損害が出ている。ラサール、お前は自分の部下を、戦う前に奪われたいか?」
「……記録だと? そんな昔の失敗談まで、一々目を通しているのか」
「赴任前にグレイドル将軍の書庫で、過去三十年分の南方戦線に関する戦時文書を読んだ。成功例は参考程度にしかならないが、失敗の理由は驚くほど共通している。……それに、ラサール」
ロートはそこで初めて顔を上げ、ラサールの目を真っ直ぐに見据えた。紺碧のマントの下で、彼女の瞳が静かに、しかし力強く揺れる。
「昼間は涼しい場所で学び、夜は暖かな火のそばで眠る。その方が、兵士たちの『機嫌』も良くなるだろう。違うか?」
ラサールは一瞬、呆気に取られたように口を半開きにしたが、やがて太い腕を組んで鼻を鳴らした。
「……ちっ。理屈じゃ勝てねえな。分かった、徹底させる。俺の大事な部下どもに風邪を引かせてたまるかってんだ」
彼が去った後、傍らに控えていたアランが呆れたように、しかしどこか感銘を受けた様子で呟いた。
「隊長。あんた、さっきサラッと言ったが……三十年分の資料だと? それを全部読んだのか?」
「赴任が決まってから三週間、時間はあった。グレイドル閣下の書庫は整理されていたからな。もっと時間があれば、百年分は遡りたかったのだが」
「三週間で三十年分だと……? 正気かよ。一日は二十四時間しかないんだぞ」
「速読と要約は得意だ。士官学校の教官からは『情報を食らう獣』と揶揄されたこともある」
ロートが少しだけ自嘲気味に口角を上げると、アランは深い溜息をついた。
「……俺は本なんてのは、火種か枕にするもんだと思ってたが。……少し考えを改めるよ。その『獣』の智慧、戦場で頼りにさせてもらうぜ」
季節が春へと移り変わる頃、B中隊に初めての「実戦」の火蓋が切られた。
任務は、南部国境沿いの街道を脅かす「反乱分子」の掃討。帝国側はそう呼称するが、その正体は統一以前からこの地に根を下ろしていた、砂漠の部族連合の生き残りである。彼らは地の利を活かし、砂塵に紛れて商隊や兵站部隊を繰り返し襲撃していた。
敵の規模は約八百から千。B中隊とほぼ同数だが、連中は起伏の激しい丘陵地帯に潜み、夜闇に紛れて死を運んでくる。帝国の正規軍は、広大すぎるこの乾燥地帯に兵を出すコストを嫌い、この案件を「傭兵上がり」のB中隊に丸投げしたのであった。
砦の作戦会議室。ロートは地図を指し示した。
「正面からは当たらない。砂漠の民と、彼らの庭で力比べをするのは愚行だ」
「じゃあ、奇襲か?」
アランが身を乗り出す。だが、ロートは首を振った。
「いや。――彼らの『喉』を塞ぐ」
その言葉に、集まった百人長たちの間に緊張が走った。
「敵の拠点は水も食料も自給できない不毛の丘にある。彼らを支えているのは、さらに南にある二つの村落だ。表向きは中立だが、実際には脅され、あるいは共鳴して、裏道を使って物資を提供している。この二つの村落から丘へと続く『血脈』を完全に断つ」
「……兵糧攻めか」
ラサールが眉をひそめる。
「だが隊長、それには時間がかかる。じっとしていたら、相手から仕掛けてくるぞ」
「三週間だ。三週間、じっと待つ」
ロートの声には、絶対的な確信があった。
「物資を運ぶ三本の道を完全に遮断する。一本に百五十、二本目に二百、三本目に百。そして残り五百五十を私の直轄部隊とし、どの方面へも即座に展開できる中央位置で待機させる。……いいか、三週間だ。こちらは万全の体制で食事を摂り、訓練を続けながら英気を養う。一方で相手は、日に日に水と食料が尽き、渇きと飢えの中で焦燥を募らせていく。どちらが有利に戦えるか、言うまでもないだろう」
アランは地図を食い入るように見つめ、やがて小さく、しかし重みのある声を漏らした。
「理にかなっている。……相手が飢えたネズミになった瞬間を、俺たちが仕留めるってわけだ。やってみる価値はあるぜ」
作戦は、想定よりも五日早く終わりを迎えた。
南方の春は、かつての記録よりも遥かに過酷な熱波を運んできたのである。
遮断作戦開始から十八日目。
丘陵地帯の隠れ家に潜んでいた部族連合は、ついに限界に達した。彼らにとって水のない毎日は、帝国の刃よりも恐ろしい死神だった。彼らは残った全戦力を結集し、物資遮断の薄い地点を力尽くで突破しようと、砂塵を巻き上げて丘を下りてきた。
だが、そこにはすでに、ロート率いる五百五十名の主力部隊が、盾を並べて待ち構えていた。
「焦るな! 敵は喉を焼かれ、視界も霞んでいるはずだ! 一人一人の剣は重くない! 組織として迎え撃て!」
ロートの号令が、熱気に震える戦場に響き渡る。
部族連合の突撃は、最初こそ捨て身の勢いがあったものの、万全の状態を保っていたB中隊の重厚な盾の壁を崩すには至らなかった。渇きで疲弊した彼らの剣筋は弱々しく、対照的に、日中の訓練と適切な休息を得ていたB中隊の兵士たちの斬撃は、容赦なく敵をなぎ倒していった。
戦闘はわずか三時間で決した。
相手の第一陣が崩壊し、後続が我先にと撤退を始める。
「深追いは厳禁だ。丘へ引き込まれれば、再び彼らの土俵になる。境界線を維持せよ」
ロートは冷静に撤収を命じた。
戦果は、反乱分子の戦力半減と、街道の安全の完全確保。対するB中隊の損害は、死者四名、負傷者十一。この規模の衝突としては、奇跡的なまでの軽微な損害だった。
勝利の夜、野営地では兵士たちの歓声が上がっていたが、ロートは一人、夜風に吹かれながら星を見ていた。
背後から、革鎧を軋ませてアランが近づいてきた。その手には、二つの水袋が握られている。
「……見事なもんだな。兵法書ってのは、伊達に重いだけじゃないらしい」
アランは水袋の一つをロートに手渡した。
「補給を断つ、か。あんた、あんな残酷で確実な戦い方、どこで学んだ?」
「……三百年前の将軍、イスペリヤのバルカスが遺した『攻城論』という本だ。彼はその一節で言っている。――『城壁を破るより、城壁の中に至る水を断て。勇気は渇きに勝てず、忠義は空腹に屈する』と。……場所が城でなかろうと、人の生理は変わらない」
「本か……。本に書いてあったことを、そのままやったのか?」
「違うな。本には『型』が書いてあるが、現場には『血』が流れている。本から得た智慧と、この三週間で自分の足で歩き、肌で感じたこの地の乾きを合わせただけだ。どちらか一方が欠けていても、今日の勝利はなかっただろう」
アランは一口水を飲むと、ため息混じりに夜空を仰いだ。
「……俺は、字を読むのが遅くてな。本なんてのは賢い奴らが暇つぶしに眺めるもんだと思ってたが。……あんたを見てると、少し、いや、相当に羨ましくなるぜ」
「読む速さは関係ない、アラン。大切なのは、そこに書かれた意図を理解しようとする意志だ」
ロートはアランに向き直り、静かな声で言った。
「私が教えられることがあれば、いつでも教える。その代わり、私がお前たちから教わっていることも多い。……交換だ、アラン」
「……交換、だと?」
「そうだ。私は知識を貸し、お前たちは現場の勘と、この地で生き抜く強さを私に貸してくれる。……対等でなければ、意味がない。人として対等でなければ、本当の力など引き出せないからな」
アランは目を丸くし、それから喉を鳴らして笑った。
「……ははっ! 対等、か。あんたは中隊長で、俺はただの副長だ。給料も権限も天と地ほどの差があるってのに、よく言うぜ」
「肩書きは役割だ。命令を下す者と、それを完遂させる者。どちらが欠けても中隊は死ぬ。……アラン、お前は私の副長だが、それ以上に、私の背中を預けられる数少ない『対等な相棒』だと思っている」
アランは答えなかった。
ただ、少しだけ照れくさそうに顔を背け、再び夜空を見上げた。
南方の夜空は、北よりも遥かに星の数が多い。密度を増して輝く星々は、どこか狂気を感じさせるほどに眩い。
「……ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト、だったか」
不意に、アランが彼女の本名を呼んだ。その声は低く、どこか湿り気を帯びていた。
「あんたは……これだけの才を持って、最終的にどこへ行くつもりだ。こんな砂埃の舞う辺境で、野盗紛いの連中を相手に一生を終える器じゃないことくらい、俺にだって分かるぜ」
ロートもまた、星を見上げた。
視界の端、低い位置に北極星が見える。この南の空からでも、あの方角にはかつての故郷、そして自分を待っている親友がいるはずだった。
「……まだ、分からない」
「本当に分からないのか。それとも、今は言いたくないだけか?」
「……どちらでもあるな。まだ、自分の中にある言葉になっていないんだ」
アランはそれ以上、踏み込んでこなかった。それが彼の美徳であり、二人の間に通じる暗黙の信頼だった。踏み込むべき時と、そっとしておくべき時。彼は戦場での間合いと同じように、言葉の間合いを知っていた。
「ま、いいさ。あんたがどこへ行くにしてもだ。……そのマントが翻るうちは、俺もこの剣を預け続けてやるよ」
二人の頭上で、南方の星々が不気味なほどに静かに、しかし力強く輝き続けていた。
砂塵の戦線はまだ始まったばかりだが、ロートは、自分が踏みしめている大地が少しずつ、しかし確実に「自分たちの居場所」へと変わりつつあることを感じていた。




