第三幕 荒野の剣⑤
第五章 テンペストのマント
南方の辺境都市、ガルタに赴任してから半年という月日が流れた。
荒野を渡る風は日ごとに勢いを増し、石造りの宿舎の隙間から入り込む熱風は、騎士団崩れの傭兵たちの心を少しずつ削り取っていく。そんな、うだるような夏の気配が漂い始めたある日の午後、グレイドルの直轄地である帝都近郊から、一つの木箱が届いた。
頑丈な樫の木で作られたその箱は、南方へ運ばれる物資としてはあまりに丁重に梱包されていた。ロートは執務室の机にそれを置き、短剣の先で封を解いた。
蓋を開けると、まず鼻をくすぐったのは、荒涼としたこの地には似つかわしくない、洗練された香草の香りだった。虫除けとともに詰められた香りは、かつて彼女が幼少期を過ごした、帝都の記憶を呼び覚ます。
中には、厚手の布が幾重にも折り畳まれて収められていた。
ロートがそれを取り出し、大きく広げると、執務室のわずかな灯火が、布地に反射して静かに揺れた。
それは、深い海の底を思わせる紺碧の地に、まばゆいばかりの金糸で刺繍が施されたマントだった。刺繍の意匠は、鋭い雷光をその鉤爪に抱き、天を仰ぐ鷲。かつて帝国において、勇猛と忠義の象徴として恐れられ、そして同時に愛された――テンペスト家の家紋であった。
箱の底には、一枚の手紙が添えられていた。
武人らしい、無骨で力強いグレイドルの筆跡がそこにある。
『ロートよ。変わりはないか。
そのマントは、お前の父――ゼイラムが最後に纏っていたものと、全く同じ意匠、同じ織りで作らせた。
本来ならば、この意匠を公の場で纏うことは、今の帝国では禁忌に近い。だが、わしは知っている。お前がどこにいようと、どのような境遇にあろうと、テンペストの名に恥じぬ気高い生き方をしていることを。
かつての英雄であるゼイラムに、今の娘の姿を見せてやりたい。わしはそう願っている。
これを纏い、自らの出自を誇りとするか。あるいは、過去を封じ込めるか。
纏うかどうかは、お前自身が決めなさい。
グレイドル』
ロートはそのマントを、しばらくの間、手の中で握りしめたまま立ち尽くしていた。
金糸の刺繍が手のひらに冷たく、しかし確かな重みを持って触れる。
十五年前のあの日、雪の舞う刑場で見た、父の背中。その背に翻っていたのが、まさにこの紋章だった。それは誇りであり、呪いであり、そして彼女が人生をかけて向き合わなければならない「重圧」そのものだった。
窓の外では、夕闇が荒野を飲み込もうとしていた。
ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト。今は「グランシール」という偽りの名で、身分を隠して傭兵中隊を率いている。
彼女は深く息を吐き、静かにマントを机に置いた。
翌朝。
砂漠の夜は寒い。夜明け前の南方とは思えない冷え切った空気の中、第一中隊の点呼が行われた。
並び立つ千人の兵士たちの前に現れたロートの姿に、誰もが息を呑んだ。
彼女が身につけているのは、いつもの機能的な革鎧。しかしその肩には、昨夜届いたばかりの、紺碧のマントが劇的な色彩を添えて翻っていた。黄金の鷲が、朝の薄光を浴びて静かに目を光らせている。
兵士たちは困惑し、互いに顔を見合わせた。
あれほどの質の良いマント、そして何よりその不遜なほどに勇壮な家紋。ほとんどの者には見たこともない紋章だが、そこに込められた格式と威厳は、無骨な傭兵たちの肌にもひしひしと伝わってきた。
だが、点呼の間、誰もそのことに触れることはなかった。ロートもまた、いつも通り淡々と軍紀を説き、訓練の指示を出すだけであった。
点呼が終わり、解散が告げられた後。
副長のアランが、雪を踏みしめる音を立ててロートの傍らに歩み寄った。彼は腕を組み、ロートの肩にある黄金の鷲をじっと見つめた。
「隊長。……そのマント、良いな。この乾いた荒野には、少しばかり上質すぎるが」
ロートは、広場で訓練を開始した兵士たちの背を見つめたまま答えた。
「グレイドル将軍から頂いた。私にとっての……贈り物だ」
「テンペストの家紋か」
アランの低い声が響いた。ロートは驚き、アランの顔を見た。
「知っていたのか」
「俺も長くこの世界にいる。帝国の双璧、グランシールの『赤炎の獅子』テンペストの『雷光の鷲』を知らんはずがない」
アランは少し視線を落とし、顎をさすりながら考え込む仕草を見せた。
「……隊長。一つ、忠告させてくれ。あんた、そろそろ隊員たちにちゃんと話してやった方がいい」
ロートは眉をひそめた。
「何をだ」
「あんたがここに来た理由。そして、そのマントに刻まれた名前だ。」アランは、低くゆっくりと続けた。「ここに来る連中は、はぐれ者だ。誰もが事情を抱えている。だからこそ、隊長がどこか高貴な家の出で、何かしらの事情でここに流れてきたことは、なんとなく全員が察している。だが、それはあくまで推測でしかない。正体の知れない『お貴族様』が自分たちを率いているという事実は、時として、決定的な瞬間に不信という毒になる」
「……話すことで同情を乞うつもりはない。私は実力でこの中隊をまとめ上げると決めている」
ロートの拒絶に、アランは首を振った。
「同情じゃない。文脈の共有だ。あんたがどういう人間で、何を持って、何を背負ってこの灼熱の地に立っているのか。それを知ることと知らないことでは、戦場での信頼の質がまるで違う。あんたが命を預けると言い、俺たちが命を預けると言うのなら、あんたは『偽りの名』を捨てて、俺たちの前に立つべきだ。……そうだろう?」
ロートは言葉を失った。アランの言葉は、鋭い刃のように彼女の心の奥底にある「臆病さ」を突き刺していた。自分を守るために使い続けていた偽名は、同時に、部下たちとの間に越えがたい壁を作っていたのだ。
「……わかった。次の全体集会で、時間を取ろう」
「ああ。それがいいだろう」
アランは満足げに頷くと、ロートの肩を軽く叩き、去っていった。
七日後。
中隊の千人が、砦の広場に整列した。
曇天から微かな雪が舞い落ちる中、ロートは一段高い演台の上に立った。風が吹き抜け、紺碧のマントが大きく音を立ててはためく。黄金の鷲が、翼を広げたように揺れた。
ロートは集まった兵士たちの一人ひとりの顔を見渡した。
若く血気盛んな新兵。老獪なベテランたち。皆、自分を見つめている。
彼女は一つ、深く息を吸い、肺腑の底から声を絞り出した。
「諸君。今日は、今まで秘めてきたことを話さねばならない。……私の真の出自についてだ」
広場が、さざ波のようなざわめきに包まれた。ロートはそれを制するように右手を上げ、毅然とした態度を保った。
「私の本名は、ロート・グランシールではない。本名は、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペストという。十五年前、帝国に対する反乱の首謀者として処刑され、断絶した一族――テンペスト家の末裔だ」
瞬間、広場は静まり返った。凍りついたような沈黙が支配する。
テンペスト。その名は、年配の者にとっては帝国最大の反逆者の一族の名であり、若者にとっては歴史の教科書の中に葬られた忌まわしき名前だった。
「察しの通り、士官学校を出た私が、正規の騎士団に入れず、この南方境界守備隊に……傭兵隊B中隊に送られたのは、その血筋が理由だ。帝国にとって、私は存在してはならない幽霊のようなものだ。行く場所など、どこにもなかった」
ロートの声は、熱砂の中を遠くまでよく通った。
「私の家系に好感を持てない者もいるだろう。逆賊の娘に率いられることを屈辱と思う者がいても、私はそれを否定しない。」彼女はもう一度、B中隊の隊員を見渡した。
「だが、一つだけ約束する。私は、ここにいる間、このマントに恥じぬ戦いをすると誓う。この中隊の全員の命を、可能な限り守り抜き、一人でも多くを故郷に帰す。そのために、私は私の剣の全てを捧げる。……私が信じて欲しいのは、私の血筋ではなく、今ここで剣を握っている私という一人の人間だ」
沈黙は続いた。
ロートの頬を、熱をはらんだ砂ぼこりが掠めていく。
すると、最前列にいた若い新兵のひとりがおずおずと手を上げた。
「隊長……お父上は、どういう方だったんですか。子供のころに聞いた話だと、帝国に反旗を翻した逆賊だ、と言われていました」
ロートは一瞬、言葉を詰まらせた。そして、記憶の片隅にある父の、厳格だが温かな眼差しを思い出した。
「年配の者は知っていると思うが、父は第五騎士団の団長だった。『雷迅』と謳われ、部下からは絶対的な信頼を寄せられた男だったと聞いている。……だが、私の記憶はほとんどない。六歳の時、兄が民を守るために帝国へ反乱を起こした。その後、その兄を討った父は、逆賊の連座として処刑された」
「それは……あまりに、無情な」
新兵が絶句する。
「しかし、私は兄も、父も恨んではいない」
ロートの言葉に、兵士たちがハッとしたように顔を上げた。
「父も、そして民の為に戦った兄も、それぞれが信じる正義に従って生きた結果だ。私もまた、同じように自分の正義に従う。誰かのために、あるいは自らの誇りのために、信じる道を進む。……私から言えることは、以上だ」
言い終えると、ロートは演台を降りようとした。
だが、その瞬間。
ジャンが、精一杯の力で手を叩き始めた。
パチ、パチ、という乾いた音が、静寂の広場に響く。
それは瞬く間に伝播した。最初は数人、やがて数十人。そして最終的には、完全な千人の合唱とは言えないまでも、広場のあちこちから、地鳴りのような拍手が沸き起こった。
それは同情でも、義務的な賞賛でもなかった。一人の不器用な指揮官が、ついに自分たちに「真実」を明かしてくれたことに対する、傭兵なりの誠実な返答であった。
アランが台の横で腕を組み、口角をわずかに上げて広場を見渡していた。彼の視線がロートとぶつかり、小さく頷く。
「……悪くない演説だったな、テンペスト隊長」
「……買いかぶりすぎだ、アラン」
ロートは照れ隠しにマントの端を引き、拍手の中を足早に去った。
その夜。
ロートリットは一人、本部棟の屋上に立っていた。
昼間の灼熱の空気は嘘のように去り、肌を刺すような冷えた夜の空気。、空は抜けるように晴れ渡っている。南の地特有の、鋭く輝く星々が頭上に広がっていた。
彼女はマントの胸元を締め直し、かつて親友であったシェルファが別れ際に言った言葉を思い出していた。
『その名前、捨てないで。今は言えないけど……いつかそれが、あなたに必要な名前になると思うから』
捨ててはいない。
今日、私は千人の前で、自らの名を名乗った。
かつては重荷でしかなかったテンペストという名が、今は不思議と、彼女の背中を支える確かな背骨のように感じられた。
これから先、この中隊を待ち受けている運命は過酷なものだろう。
辺境での小競り合いが、いつ帝国全土を巻き込む戦乱へと発展するかは分からない。自分がどこまで、この「雷光の鷲」の名を汚さずに戦い抜けるかも未知数だ。
だが、今この瞬間、彼女の足元には乾ききった大地が確かにあり、隣には剣になると誓ってくれた副長と、自分を「テンペスト」として受け入れた千人の仲間がいる。
「……それで今は、十分だ」
独り言が、夜の闇に消えていく。
ロートリットの肩で、紺碧のマントが夜風を孕んで大きくはためいた。
黄金の鷲は、南天の十字星を見据えたまま、その鉤爪をさらに強く研ぎ澄ませているようだった。




