第三幕 荒野の剣④
第四章 B中隊の出陣
ロートリット・テンペストが、帝国南方の辺境、掃き溜めと呼ばれたB中隊の隊長に着任してから三ヶ月が過ぎた。
駐屯地を包む空気は、もはや三ヶ月前とは劇的に異なっていた。毎朝の点呼において、遅刻を告げる砂時計の砂が落ちきる前に、千人の兵士が寸分の乱れもなく整列する。その光景は、もはや当たり前の日常となっていた。
訓練の参加率は九割を超えた。残りの一割も、医官によって認められた真の負傷や持病によるものであり、かつて蔓延していた「頭痛・腹痛(理由・酒の飲みすぎ)」といった見え透いた仮病は、この駐屯地から一掃されていた。
だが、ロートが最も手応えを感じていたのは、帳簿上の数字では表せない「兵士たちの目」の変化だった。
訓練場では、かつての「指示待ち」の姿勢が消え、状況を自ら読んで動く者が増えていた。砂塵舞う中での模擬戦、兵士たちは互いに短く鋭い声を掛け合い、誰に命じられるでもなく、崩れた陣形を自発的に補い合おうとしていた。それは、ロートが強制した規律の型を超え、彼らの中に「集団としての生存本能」が芽生え始めた証左だった。
「隊長」
ある日の訓練終了後、全身汗まみれになったジャンが、ロートのもとへ歩み寄った。
「最近、中隊の空気が……なんていうか、引き締まったっていうか、変わった気がするんです」
「具体的にどう変わったのだ、ジャン」
ロートは手にした記録板から目を上げずに問うた。
「前は、隣で戦う奴が何を考えてるか興味もなかったし、ぶっちゃけ信頼なんてしてませんでした。どうせ規律なんてないんだから、ヤバくなったら隣の奴を置いて逃げりゃいい、くらいに皆思ってた。でも今は……」
ジャンは訓練場で談笑しながら装備を解く仲間たちを振り返った。
「規律があるってことは、あいつも俺と同じように動くはずだ、っていう確信になる。そうなると、不思議と背中を預けられる気がしてくるんです。少しだけ、信頼っていうやつが分かってきた気がします」
「信頼は一日にして成らず、だ。だが、積み上げれば何よりも硬い盾になる。それを忘れるな」
ジャンは嬉しそうに頷くと、最後に小声で付け加えた。
「あ、それと。……副長が、最近よく俺たちに話しかけてくるんです。前は近づくだけで殺されるような迫力がありましたけど、今は、こう……『飯は食ったか』とか、『装備に不具合はないか』とか、そんなつまんないことですけど、ちゃんと聞いてくれる。それもデカいんだと思います」
ロートは遠くで若手に剣の指導をしているアランの背中を見やった。あの夜の一騎打ち以来、アラン・モールという男は変わった。かつては孤独な強者として周囲を威圧していた彼が、今はその圧倒的な存在感を「中隊を繋ぎ止める柱」として使い始めていた。
着任から四ヶ月。B中隊に二度目の実戦任務が下された。
今度の敵は、これまでにない執拗さと組織性を見せていた。南方の砂漠地帯を拠点とする複数の部族連合が、帝国の圧政に抗うべく「連動」を開始したのだ。
報告によれば、帝国南部の三つの集落――東の「岩山の村」、西の「平野の村」、そして中央の「交易路の要衝」が、ほぼ同時に襲撃を受けようとしていた。
B中隊の千名だけでは足りず、付近に駐屯していたA中隊も動員される大規模な鎮圧戦となった。
砦の作戦会議室。ロートは地図を広げ、集まった百人長たちを見渡した。
「兵力を三分割する。ただし、均等には分けない」
その宣言に、A中隊の隊長、アルニムが鼻で笑った。彼はやたらと派手な革鎧を着て、やせ形で肌の黒い、まるで狐のような雰囲気の男だった。そのアルニムの目はロートのような若い女性、士官学校出で世間知らずの貴族風情が何を、という露骨な蔑みを隠そうとしていなかった。
「おいおい、貴様は士官学校出だろう?こんなの基本中の基本だぞ?お上品な学校では習わなかったのか?戦力は集中させてこそだ。ここは全軍で中央を叩き、そこから各個撃破するのが定石だろうよ」
「定石で勝てるなら、帝国はもっと早くこの地を平定していたはずです、アルニム隊長」
ロートは冷徹に言い放ち、指で地図を示した。
「東の『岩山の村』は険峻な峡谷に囲まれている。ここには百五十を充てる。担当はラサール率いる第三小隊と、第五小隊。彼らの多くは北方の山岳地帯の出身で、崖地の登攀と待ち伏せに長けている。この地勢なら、この人数で十分に支えられる」
アランがラサールを見た。「お前のところ、そんな奴らが多かったのか?」
「……ああ。隊長の言う通りだ」ラサールは驚きを隠せずに頷いた。「俺たちの小隊の故郷は岩だらけ
だ。平地よりもあっちの方が動きやすい」
「個々の出身地まで把握しているのか……」アランは小声で感嘆を漏らした。
「次に中央。ここは規模が最大で、帝国の補給路の生命線だ。ここには五百五十の主力を集中させる。指揮はアラン副長、貴殿に任せる。正面から敵を粉砕し、交易路の安全を確保せよ」
「了解だ。……で、残りの三百は?」
「西の『平野の村』。遮蔽物のない平地で、敵の機動力が最も発揮される場所だ。ここには私が残りの三百を率いて向かう」
「たった三百で平野を? 正気か」アルニムが再び口を挟んだ。「女の身で先陣を切る度胸だけは認めるが、戦術が破綻している。死にに行くようなものだ」
「アルニム隊長、貴公のA中隊は中央の予備兵力としてアランの指揮下に入っていただきます。後方支援が主になりますが、よろしいですね?」
「なっ……! 我らA中隊を、予備兵力だと?」
「結果は共同戦果として正確に上層部へ報告します。A中隊に大きな実害はないはず。それとも、私の判断に異議を唱えるだけの対案が、今、この場でおありですか?あるならここではっきり言ってください」
アルニムは顔を真っ赤にして絶句した。ロートの目は、まるで冷たい刃のように彼の反論を許さなかった。
軍議後、アランはロートに言った。
「ま、足を引っ張られちゃかなわんからな。今の俺たちとA中隊じゃ、訓練の度合いも士気も段違いだ」
「そういうことだ。アルニム隊長には悪いが、ここはおとなしくしてもらう」
西方面の戦闘は、太陽が昇る前の深い藍色の闇の中で幕を開けた。
襲来した南方部族の兵力は、約八百。アランとアルニムが率いる中央部隊に対し、数では劣勢であった。しかし、彼らは砂漠を疾走する軽装の騎馬兵と、変幻自在に散開する歩兵で構成されていた。
彼らは正面からぶつかることをせず、平野の各所から小集団で現れ、こちらの陣形を攪乱するように一撃離脱を繰り返す。
「この敵の動きだ。正面を厚くしても、奴らに攻撃が当たらない」
ロートは馬上で大剣を背負ったまま、冷静に敵の動きを俯瞰していた。
隣にいたアルニムの副官が焦りの声を上げる。
「グランシール隊長、陣形が伸び切っています! 敵の散開攻撃に翻弄されている! 中央を固め、円陣を組むべきです!」
「いや。――さらに広げろ」
「なんだと!?」
「全小隊、横一列に展開。翼を広げるように大きく、だが、中央はわざと薄く見せろ」
ロートが命じたのは、教科書通りの「防御」ではなく、敵を誘い込む「網」の展開だった。
B中隊の兵士たちは、日頃の過酷な訓練で培った連携を見せた。中央の部隊がじりじりと後退し、敵を内部へ引き込む。南方部族の指揮官は、中央の薄さを見て好機と判断し、全戦力を中央突破へと集中させた。
その瞬間、ロートの鋭い声が響き渡った。「今だ! 両翼、閉じろ!」彼女の命令を告げる笛の音が、戦場を駆けめぐる。
左右に大きく広がっていたB中隊の別働隊が、一斉に敵の背後へと回り込む。散開していたはずの三百人が、巨大な一続きの鎖のように繋がり、南方部族の集団を円形に包囲し始めた。
逃げ場を失い、密集状態になった敵に対し、B中隊は外側から組織的な一斉射撃と斬撃を浴びせた。
「馬鹿な……! あの短期間で、これほど精密な機動を!?」
後方で戦況を見ていたアルニムは、もはやロートを嘲笑うことすら忘れていた。彼女が描いたのは、泥臭い乱戦ではなく、冷徹なまでの「計算」による殲滅だった。
戦闘開始から二時間。
南方部族の集団は崩壊した。こちらの損害は、死者一名、重傷者六名。対して相手の被害は甚大なものとなった。
夕刻。全軍が駐屯地へと帰還した。
東の「岩山の村」を守ったラサールたちも、寡兵ながら地の利を活かした巧妙な待ち伏せで、一人の脱落者も出さずに敵を撃退した。中央のアランも、アルニムのA中隊を「盾」として使いこなし、力押しで敵の本隊を退けていた。
B中隊は、完勝したのだ。
だが、本陣の天幕で報告を聞くロートの表情に、勝利の悦びはなかった。
「……西方面で一名、亡くなった者がいたな」
ロートは、アランが差し出した名簿をじっと見つめていた。
「ああ。敵の捨て身の突撃を受けた際、盾が割れた兵士だ。……隊長、戦場に死はつきものだ。この規模の勝利で死者一名は、奇跡的なんだぞ」
「それは理解している。……だが、アラン。あの一名に、家族がいるかどうか、至急調べてくれ」
「家族? 傭兵の名簿なんて大抵デタラメだぞ。仕送り先くらいは書いてあるかもしれんが」
「もし彼が家族を養っていたのなら、その仕送りを絶やしてはならない。中隊の報奨金から、遺族への補償金を捻出する。……制度がないなら、私が作る」
アランは、絶句した。
これまでの歴代隊長にとって、傭兵の死は単なる「消耗品の紛失」に過ぎなかった。だが、目の前のこの少女は、一人の兵士の死を「指揮官としての責任」として真正面から受け止め、その後の人生までも背負おうとしている。
「……分かった。草の根分けててでも、あいつの故郷と家族を突き止めてやるよ。約束する」
その夜。
静まり返った訓練場に、重い風を切る音が響いていた。
アランが一人、巨大な木剣を振り抜いている。そこへ、ロートが同じように重い木剣を担いで現れた。二人は言葉を交わさず、月光の下で黙々と素振りを続けた。
数十分後、滝のような汗を流しながら、ロートが不意に口を開いた。
「……副長。ちょっと、いいか」
「ああ、なんだ」
「着任したばかりの時、お前は言ったな。『俺はあんたを認めていない』と。……今も、その考えは変わらないか?」
アランは動きを止め、夜空に浮かぶ白銀の月を見上げた。
そして、これまでに見せたことのない、憑き物が落ちたような清々しい笑みを浮かべた。
「……ああ、変わったよ。B中隊をこれだけ変えてくれりゃな。俺の理屈じゃ、もうあんたを測りきれねえ」
アランはロートに向き直り、その場に片膝をついた。
「隊長。……俺は決めた。あんたがどんなに理不尽な命令を下そうと、どんなに冷徹な合理を説こうと、俺はあんたの背中を守る盾になり、あんたが指差す先を切り開く剣になる」
「アラン……?」
「あんたは、一人で立ちすぎている。あんたの目には、誰も見えていない未来が映っているんだろうが、その足元を支える奴が要るはずだ。……その役、俺にくれ」
アランの言葉には、三ヶ月間の侮蔑や不信をすべて焼き尽くした、純粋な「忠誠」が宿っていた。
ロートは驚きに目をしばたたかせたが、やがて、少しだけ困ったような、しかし確かな温かさを湛えた微笑みを返した。
「……重い言葉だな。だが、ありがたく受け取っておこう」
「へっ、綺麗な言い方しやがって。……行くぞ、隊長。明日の朝も早いんだ」
「ああ。今後ともよろしく頼むぞ、副長」
二人の影が、訓練場の石畳に長く重なった。
それは、崩れかけていた一団が、真の意味で「最強の騎士団」へと脱皮し始めた、最初の夜だった。




