第三幕 荒野の剣③
第三章 副長という壁
着任から半月が経った頃、中隊内に微妙な変化が生まれていた。
古参の頑固な連中は依然として距離を置いていたが、若い兵士を中心に、ロートの存在を「まあ、いるものとして認める」という空気が生まれていた。明確な支持ではない。しかし露骨な反発も減った。
一方、アランは変わらなかった。
訓練には出た。命令に従わないわけではなかった。ただ、最低限の応対しかしなかった。目が合えば逸らし、本部棟には来ず、ロートが隊全体に話す場面でも腕を組んで背後に立ったまま一言も発しなかった。
その沈黙が、一種の圧力を形成していた。
副長が認めていない隊長を、本当の意味で認めることができるか。隊員の多くが、無意識にアランの態度を見ながら自分の態度を決めていた。アランは何もしないことによって、自分の影響力を行使し続けていた。
ロートはそれを理解していた。
理解した上で、待っていた。
着任から二十日目、南方からの偵察報告が入った。
南方民族の一集団が、帝国領の最南端の集落に略奪を行い、周辺に展開しているという。規模は正確には不明だが、おそらく三百から五百の戦闘員。B中隊の管轄区域に接触する可能性があった。
ロートは即座に本部棟に全百人長を招集した。
地図を広げ、偵察報告の位置を確認し、考えられるルートを示した。
「敵の目的が略奪であれば、帝国領の深部には踏み込まない可能性が高い。境界部の集落を叩いて引く。その場合、この街道を通って退路を確保する公算が大きい」
ロートは地図の一点を指した。「ここに二百を配置して退路を断つ。同時に、集落の方向から三百が当たる。挟撃の形を作れれば、戦力差でこちらが優位に立てる」
沈黙。そこにいる百人長が、ロートの作戦を値踏みしているような沈黙だった。
アランが初めて口を開いた。重い声だった。
「言わせてもらうが、その配置では、退路を断てないぜ」
全員の視線がアランに向いた。
「ほう、なぜだ」とロートは聞いた。反論を封じるためではなく、本当に理由を聞きたかった。
「あの地形は雨季に水が出る。この時期は泥地になっていて、二百の兵を動かせる固い地盤がない。地図には出ていないが、俺は去年あそこを歩いた」
ロートは地図を見た。「そうか。では、固い地盤があるのはどこだ」
アランは少し意外そうな顔をした。それから地図に歩み寄り、別の一点を指した。「ここだ。ただしここだと退路を断つ角度が変わる。退路ではなく、横腹を叩く形になる」
「問題ない。横腹を叩く方が損害が少ない。退路を断てば相手は死に物狂いになる。横腹を突けば、崩れた時に逃げ道がある分、抵抗が薄れる」
「……そうだ」
「合理的だな。その案、採用する。副長の指摘に従って配置を修正する」
アランは黙った。
他の百人長たちが互いの顔を見た。今までの隊長は部下の進言など聞き入れなかった。作戦に口を出せば反抗ととられ、処罰さえされることもあった。目の前にいる女隊長は副長の指摘を素直に取り入れた。
これをどう受け取るか、その反応を測るように。
「出発は夜明け前だ」ロートは続けた。「各小隊の準備を確認してくれ。以上だ」
初めての出陣は、二日後に終わった。
戦闘は想定より短かった。南方民族の集団はB中隊の接近を察知して散開しようとしたが、アランが修正した配置が横腹を的確に突き、中核の集団が瓦解した。逃げる者を深追いせず、集落周辺から引き離すことを目的として動いた。
こちらの損害は軽傷者が七名、死者はゼロだった。
帰還した後、広場で隊員たちの顔が少し違った。
戦闘後特有の緩みと、それでも消えない緊張が混在した顔。生き残ったことへの安堵と、次への備えを忘れていない顔。ロートはその顔を見回した。
「よく動いた。指示通りに隊形を維持した者が多かった。訓練の効果だ」
特定の者を名指しで褒めなかった。全員に向けて言った。それは意図的だった。英雄を作るより、全体の底上げを優先するべき段階だった。
広場の解散後、アランがロートの傍に来た。
「損害ゼロは、運が良かっただけだな」
「その通りだ」ロートは認めた。「次は同じようにいかないかもしれない。だからまた準備する」
「……」
「副長の地形の指摘がなければ、泥地に足を取られていた。助かった」
アランはロートを見た。「あんたは部下に、礼を言うのか」
「おかしいか。損害ゼロの勝利は、事実だ」
アランは短く鼻から息を出した。それが笑いなのか、ため息なのか、判断がつかなかった。そのまま踵を返して歩き去った。
だが、その背中はわずかに違った。
微妙な違いだったが、ロートには分かった。壁は、まだある。しかし壁の質が、少し変わった。
着任一ヶ月を過ぎた頃、アランがロートに直接言葉をかけてきたのは、夜の訓練場だった。
ロートが一人で大剣の素振りをしていると、横から足音が近づいた。
「こんな遅くまで剣の訓練か。ご苦労な事だな」
「副長か。これは、毎晩の習慣だ」
アランは訓練場の柵に背を預けて、素振りを見た。
「あんたは、大剣を使うのか」とアランは言った。
「ああ」
「女に、大剣は合わない。重すぎる」
「知っている。だから体幹で補う」
アランはしばらく無言で見た。それから言った。「……ふん。悪くない剣捌きだな。その重さを振り続けるには、相当な基礎が必要だ。それをどこで学んだ」
「グランシール邸の指南役に、六年だ」
「士官学校の実技教師からは何を教わったんだ」
「基礎の確認と、集団戦の動き方だ。模擬訓練も相当やった」
「一騎打ちの経験はあるか?」
「一度、傭兵と打ち合わせてもらったことがある。九歳の頃だ」
「九歳だと?嘘をつくな」アランは眉を上げた。「それで、どうなった」
「五本中二本を防いだ」
「九歳でか、信じられん」
ロートは素振りを止め、アランを見た。「副長も大剣を使うようだな」
「ああ。俺の専門だ」
「一度手合わせを願いたい。私の腕が信じられるかどうか、確かめてみてほしい」
アランは少し間を置いた。「今か?」
「今でも構わない」
「……断る理由がないな。いいだろう」
二人は訓練場の中央に向き合った。
深夜の訓練場に人影は他になく、月光だけが地面を照らしていた。二人とも実際の大剣ではなく、形を模した木剣を持った。それでも重量は相当なものだった。
アランの体格はロートより大きかった。決してもう小柄ではないロートの身長でも、頭一つ、横幅で倍近く大きい。大剣を持つ姿が、生まれながら武器を持ってきた者の自然さで馴染んでいた。
ロートは構えた。
ヴァルカス仕込みの低い重心。体幹に力を集め、一見すると受け身の姿勢に見えるが、どこからでも踏み込める形。切っ先を敵の足元に向ける、父から、そして兄から伝えられた構え。
アランも構えた。
対照的に、堂々とした正面構えだった。体格の優位を隠さず、正面から押しつぶすことを第一義とする構え。これだけの体格と膂力があれば、正面からの押し合いは最強の戦法だ。
先に動いたのはアランだった。
踏み込みが重く、速かった。地面が揺れる感覚があった。ロートは半歩横に出た。剣が肩口をかすめた。風圧が来た。
重い。
全体重を乗せた一撃の重さが、すれ違うだけで伝わってきた。正面で受ければ骨が砕ける。
ロートは間合いを取り直した。
次はロートから動いた。右に踏み込んで見せてから、左に切り返した。フェイントだったが、アランは騙されなかった。足の重心が右に傾いた瞬間を読んで、剣の軌道を合わせてきた。
硬い。
木剣同士がぶつかった衝撃が腕を痺れさせた。力で押し返そうとしたが、押し返せなかった。流した。剣を滑らせて力の方向を逃し、体を半回転させて間合いを切った。
息を整えた。
アランも間合いを切った。二人は向き合ったまま止まった。
「俺に力で競っても勝てない」アランは言った。「分かってたんじゃないのか」
「もちろん、織り込み済みだ」
「なら、何が狙いだ」
「力ではなく、速さと角度で崩す」
「俺の反応速度を試してたのか」
「そうだ。お前は速い。しかし足元に癖がある」
アランの目が細くなった。「ほう。どんな癖だ」
「踏み込みの前に、左足の爪先がわずかに持ち上がる。コンマ一拍、先行する」
沈黙。
「……それに、気づいたのか」
「さっきの踏み込みでな。私は観察が得意なんだ」
アランは少し目を細めたまま、ゆっくりと構え直した。「続けよう」
試合は合計で十本行われた。
結果は、ロートの六勝四敗。
六本目以降でロートが流れを掴んだのは、アランの踏み込みの癖をある程度活用できるようになったからだった。コンマ一拍の先行動作に合わせて体を動かし始める。それだけで、アランの全力の一撃を正面で受ける頻度が下がった。
十本が終わった後、二人は並んで木剣を置いた。
アランは荒い息をついていた。ロートも息が上がっていた。腕が痺れていた。
「……あんた、強いな」アランは言った。
「副長の方が強い。実戦では力と速さ、そして持久力が物を言う。私では勝てない」
「俺は六本負けた」
「体格差と膂力の差をこれだけ縮められたのは、ヴァルカスのおかげだ。私個人の実力ではない」
「どちらにしろ」アランは言った。「こんなに苦戦したのは久しぶりだ。女に剣で負けを認めたのは、初めてだ」
「こちらこそ、貴重な経験をさせてもらった。副長、礼を言う」
「……」
アランは少しの間黙っていた。それから真顔でロートを見た。
「あんたの出自を聞いた」
ロートは表情を変えなかった。「それは、どこからだ」
「部隊の中で噂が流れている。誰が言い出したのかはわからんが、あんたが曰くつきだって噂を」
アランは大きく息を吐いて話を続けた。
「まだ大っぴらににはなっていないが、あんたはあのテンペスト家の末裔。処刑された父を持つ娘。反逆者の血筋として騎士団には入れなかった。つまりそういうことか」
「そうだ。事実だ」
「それで士官学校を出ながら、ここに流された。というわけか」
「そういうことだ」
アランは空を見た。月が中天から少し傾いていた。
「俺は農家の五男だ」と彼は言った。「二番目、三番目の兄貴は戦争で、すぐ上の兄貴は病気で死んだ。土地を継いだのは一番上の兄貴だけだ。俺には何もなかったから、傭兵になった。最初に戦場に出たのは十二の時だ。そこから戦って戦って戦い続けて、今ここにいる。行く場所があってここに来たわけじゃない。行く場所がないからここに来た」
「……」
「あんたも、俺と同じだな。行く場所がない」
「そうだな。今のところは、行く場所がないな」
「今のところ、か」アランは少し笑った。初めて見るアランの笑いだった。皮肉でも嘲笑でもなく、何か共通するものを見つけた者の、乾いた笑いだった。「あんたは正直だな」
「部下に嘘をつく理由もない」ロートは少しだけ口の端を上げた。
「似てるな、そのあたりの考え方が」
アランは立ち上がった。体を伸ばして、木剣を手に取った。
「隊長」
「なんだ」
「俺は、最初あんたを認めていなかった。士官学校出の、世間知らずのお嬢様だと思っていた」
「知っている。私が世間知らずなのは、疑いようのない事実だ」
「今も全部は分からん。あんたが隊長として正しいかどうかは、もう少し見ないと判断できない」
「……」ロートは黙ってアランの言葉を待った。
「だが」アランは言った。「今日から俺は、真面目に副長をやる。命令に従う。あんたの判断に口を出す時は、正面から言う。陰でこそこそはしない」
「わかった。それだけで十分だ」
「それだけで十分なのか」アランは少し拍子抜けしたように眉を上げた。
「信頼は時間をかけて積み上げるものだ。今夜から全部信頼します、という言葉の方が信用できない」
アランはまた笑った。今度は少し大きく。
「確かにそうだな。あんたはおもしろい女だ」




