第二幕 競う者たち⑤
第五章 血の烙印
卒業式は、静かに終わった。
首席のシェルファが壇上に立ち、卒業生代表として答辞を読んだ。流麗な言葉で、明るく、凛とした姿で。会場の上官たちがその姿に好印象を持ったことは、顔を見れば明らかだった。
ロートは席に座ったまま、その答辞を聞いた。
声は聞こえていた。言葉も聞こえていた。しかし、シェルファはロートの方を一度も見なかった。それは偶然ではないと分かっていた。
卒業式の後、グレイドルと面会した。
「シェルファはどうした」グレイドルは開口一番に聞いた。「ずっと機嫌が悪い」
「理由は…」ロートは珍しく口籠った。
「……見当はついている」
グレイドルはロートを見た。その目が、何かを察している目だった。「試験か」
「…はい」
「白紙にしたのか」
ロートは少し驚いた。「それを、どこで?」
「想像だ。お前がやりそうなことを考えたら、そこに行き着いた」グレイドルは溜め息をついた。「難しいな」
「はい」
「シェルファが怒るのも道理だ。ロート、お前の判断の根拠は何だった」
「シェルファには首席がふさわしいと思いました。そして自分の行く先が不確かであれば、首席を持ち歩く必要がない、とも」
「それだけか」
ロートは少し考えた。「……シェルファが、いつも二番だったことを、気にしていたかもしれないと、うっすら感じていました。だからそれを、解消できると思ったのです」
「感じていたなら、なぜ直接聞かなかった」
「聞くべき問いだと、思っていませんでした」
グレイドルはしばらく黙った。「それがお前の欠点だ」と、彼は静かに言った。「感じたことを、確かめる前に判断に変えてしまう。シェルファの感情を推測して、その推測に基づいて行動した。だが推測と事実の間を、お前は確認しなかった」
「……」
「難しいことは分かっている。お前がそれを難しいと感じることも知っている。だが友人の感情については、推測で動いてはいけない。特に、相手のために何かをしようとする時は」
「…承知、しました」ロートは声を絞り出した。
「今は承知するだけで良い。時間をかけて、シェルファと話せる時が来れば話しなさい」
「……すみません」
グレイドルはそれから別の話題に移った。表情が変わった。
「ロート、お前の配属について話がある」
その声の質が変わったことで、ロートは次の言葉を予感した。
「話してください」
「お前の血筋が、公になった」
沈黙。
「どこから漏れたかは調査中だが……テンペスト家の末裔がグランシール家に在籍しており、士官学校を卒業したという情報が、上層部に届いている。グランシール家の遠縁という偽名は、もはや意味をなさなくなった」
「……騎士団への配属は」
「残念ながら、不可能だ」グレイドルはロートを真っ直ぐに見た。「わしの力をもってしても、これは覆せなかった。テンペスト家は帝国への反逆者の一族として記録されている。その血を持つ者を、帝国の正規騎士団が受け入れることは、建前上できない」
ロートは何も言わなかった。
「申し訳なかった」グレイドルは言った。「お前を守ると言っておきながら、ここまでしか守れなかった」
「……御屋形様の責任でありません」
「わしの責任だ」
「違います」ロートは静かに言った。「血筋は変えられません。それを隠して八年間、ここまで連れてきてくださったことに、感謝をしています」
グレイドルは目を伏せた。
「私の、配属はどうなるのですか」とロートは聞いた。
「正規の騎士団ではなく、傭兵団への参加という形になる。帝国の許可を受けた、公認の傭兵隊だ。そこの隊長がおまえになる。仕事としては、南部の国境警備を主な任務としている」
「傭兵団、ですか」
「士官学校の次席が傭兵団に入るのは、前例がない。お前への評価は高かったから、その配属を聞いた者の反応も……厳しいものがあるかもしれない」
「それは、構いません」
「……本当か」
「構いません」ロートは繰り返した。「どこに行っても、することは変わりません。ただ、与えられた場所でできることをします」
グレイドルはロートを見た。十三年前、雪の中の馬車の中で会った六歳の少女の面影と、今目の前にいる十九歳の女性の姿が、一瞬重なった。
「お前は、強い子だ」
「強くなるしかありませんでしたから」
「こんなことに、負けるのではないぞ。お前は、わしの自慢だ」
翌日から、帝都の貴族社会における噂は広がった。
士官学校の次席卒業者が傭兵団に配属されたという事実は、それだけでも異例だった。だがその理由が反逆者の血筋だと知れると、噂の質が変わった。
廊下で行き会った下級貴族の息子が、露骨に顔を逸らした。
かつて訓練場で親しく話していた同期の一人が、ロートを見て黙って別の方向に歩いた。
ロートは今の居場所となった宿舎の一室で、それらを整理した。
怒りはなかった。悲しみもなかった。ただ、冷たい現実の輪郭を、改めて確認していた。
テンペスト家の末裔。
帝国を裏切り、皇帝に泥をかけた一族の生き残り。
その烙印は、八年間だけ消えていたのだ。最初から消えていたわけではなかった。
ロートは荷物の中から、グレイドルに渡された父の話が書かれた冊子を取り出した。何度も読んだ、擦り切れかけた冊子だ。
ゼイラム・テンペストという人物の記録。軍人としての評価と、父としての断片と。
兄のエルヴィンは、なぜ反乱を起こしたのか。
答えは知っていた。民が苦しんでいたからだ。帝国の重税に喘ぐ人々を見て、いても立ってもいられなかったからだ。そしてその義挙は、圧倒的な力の前に、花が嵐に折れるように潰えた。
自分は、何をすべきか。
答えはまだ出なかった。今出す必要もなかった。
まず、傭兵団に行く。そこで実力を示す。次が何かは、その後で考える。
ロートは冊子を荷物に戻し、立ち上がった。
シェルファとの最後の会話は、ロートが帝都を発つ前日に起きた。
避けていたのはシェルファの方だったが、その夜だけは、宿舎の前でロートを待っていた。
「明日、出発するのね」
「ああ」
「南部の傭兵団に」
「そうだ」
シェルファはしばらくロートを見た。怒りはまだあった。しかしその下の、怒りよりも深い場所にある何かを、シェルファ自身が持て余していた。
「……血筋のことは、知らなかった」
「御屋形様が隠してくださっていた」
「お父様は知ってたの?」
「ああ」
「わたしには言わなかった」シェルファは少し目を伏せた。「わたしは、あなたのことをグランシール家の遠縁だと、ずっと思っていた」
「騙していて、すまない」
「名前も、本当はテンペストなのね」
「……私は、ロートリット・シュトラム・フォン・テンペストだ」
シェルファはその名を聞いた。テンペスト。帝国に反旗を翻した反逆者の家名。士官学校でも歴史の授業で、反乱軍の鎮圧と一族の処断が、帝国の正当性の例として取り上げられていた。
「知ってたら……違ったかしら」
「何が違ったというんだ」
「色々と」シェルファは言った。「わたしの感じ方も、関わり方も。知らないままでいたことで、お互い、楽だったのかもしれない」
「そうかもしれない」
沈黙があった。
「試験のこと」シェルファは言った。「まだ怒ってるから」
「……わかっている」
「でも……あなたがわたしのことを考えてやったことも、分かった。ただ、方法が間違ってた」
「…そうだな」
「謝れるの?」シェルファが聞いた。「あなたから」
「……申し訳なかった」
シェルファはその言葉を聞いた。目を細めた。泣くかと思ったが、泣かなかった。
「わたしも、謝る」
「シェルファが謝ることはない。何に対して謝る」
「ちゃんと話せなかったことに対して。あなたのことを、もっと早く直接聞けば良かった」
「それは、私も同じだ」
二人はしばらく黙った。
「ロート」
「なんだ」
「元気でね」
「ああ」
「戦場に行くんでしょ。怪我しないでね」
「……努力する」
「努力で済ませないで」シェルファは少し眉を寄せた。「ちゃんと生きて、帰って来て」
「……ああ」
シェルファは踵を返した。
歩き始めて、三歩で止まった。振り返らないまま、シェルファは言った。
「ロートリット・シュトラム・フォン・テンペスト!」
「…」
「その名前、捨てないで。今は言えないけど……いつかそれが、あなたに必要な名前になると思うから」
それだけ言って、一度も振り返らずに歩き去った。
ロートは、その背中が見えなくなるまで見ていた。
翌朝、夜明け前に馬車が来た。
荷物は少なかった。防具一式と、大剣と、戦術書が数冊と、擦り切れた冊子一冊。
馬車に乗る前に、ロートは一度だけ帝都の空を見上げた。
冬の明け方の空は、まだ暗かった。星が幾つか残っていた。北の星は、いつもの場所にあった。
蹄の音が石畳を叩き始めた。
帝都が遠くなっていく。
グランシール邸の石造りの屋根が、やがて視界から消えた。
ロートは前を向いた。
南へ。荒れ地へ。傭兵の剣が必要とされる場所へ。
ロートリット・テンペスト、十九歳。道は、まだ続いていた。




