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第二幕 競う者たち④




第四章 白紙の答案




帝国士官学校の卒業試験は、張り詰めた静寂の中で幕を開けた。


 三日間にわたるその試練は、単なる成績の優劣を決める場ではない。若き士官候補生たちが、帝国という巨大な機構のどこに組み込まれるか、その運命を定める冷酷な天秤であった。


 一日目は筆記。帝国法、行政学、兵站論。広大な領土を統治するための知識が問われる。


 二日目は実技。剣技、馬術、指揮統制。個の武勇と、集団を動かすカリスマが試される。


 そして三日目――最難関とされる戦術学の最終試験がやってきた。


 会場となる大講堂には、冬の朝特有の冷気が足元から這い上がっていた。


 ロート・グランシールは、指定された席に腰を下ろし、自身の呼吸を整えた。筆記も実技も、手応えは完璧と言ってよかった。いつものように正確に、いつものように誰よりも速く、彼女はすべての課題をこなした。


 やがて、封印された問題冊子が配られる。


 「始め」という試験官の合図とともに、数百人の生徒が一斉に紙をめくる音が、乾いた爆音のように響いた。

 



 ロートは地形図を睨んだ。


 北方に険峻な山岳地帯。中央に渡河困難な大河。南方に広がる湿地帯。自軍と敵軍の兵力差は一対三。補給線は寸断されており、援軍の到着まで三日間耐え凌がねばならない。


 ――絶望的な状況。だが、答えはあった。


 五分で地形の利を読み解き、十分で兵力配置の最適解を導き出した。ロートの頭脳は、戦場という名のパズルを解くためだけに研ぎ澄まされた精密機械のように駆動した。


 だが、ペン先が紙に触れる直前、彼女の視界の端に、一つの色彩が飛び込んできた。



 斜め前方に座る、シェルファニールの後ろ姿だ。


 燃えるような深紅の髪が、微かに震えていた。彼女が必死に、その小さな肩に帝国の未来とグランシール家の誇りを背負って、問題と格闘しているのが分かった。


 そこで、ロートの思考に異物が混入した。


 ――自分がここで「正解」を書けば、どうなるか。


 

 掲示板の一番上には、再び「ロート・グランシール」の名が刻まれる。四年間の幼年学校、そして四年間の士官学校。計八年間にわたり、自分はその場所を占拠し続けてきた。


 シェルファニールの笑顔を思い出す。試験の結果が出るたびに、「さすがだわ、ロート。次は負けないから」と笑っていた親友。だが、その瞳の奥に淀んでいた「諦念」と、自らの価値を証明できない焦燥を、ロートは一度も無視したことはなかった。


 ロートには、テンペスト家に代々伝わるはずの『いかづちの魔法』が宿らなかった。


 血筋の象徴であったその魔力は、兄エルヴィンの死とともに、この世界から失われた。ロートにあるのは、ただ泥臭く積み上げ、削り出してきた剣の技と、冷徹な分析力だけだ。


 対してシェルファニールには、生まれながらに脈打つグランシール家の『ほのおの魔法』がある。それはいつか戦場を朱に染め、帝国を支える大輪の花となるべき才能だ。


 ……首席の称号は、彼女にあるべきだ。


 ロートの胸の中で、一つの結論が導き出された。


 自分は「逆賊の娘」だ。どれほどの成績を収めようと、正規の騎士団への入団すら危ぶまれている身分。首席という看板が、自分の将来に寄与する確率は極めて低い。


 だが、シェルファニールは違う。第一騎士団団長、グレイドル将軍の息女として、彼女には完璧な「文脈」が必要だった。首席として入団し、名実ともに次期指導者としての地歩を固める。それがグランシール家にとっても、帝国にとっても、そしてシェルファ自身にとっても、最も幸福な結末であるはずだ。


 これは「施し」ではない。


 ロートの脳内で行われた、極めて合理的で、冷徹な資源配分の計算結果だった。


 自分の感情を排除し、全体の利益を最大化する。それこそが士官に求められる資質だと、自分は教わってきたはずだ。


 ロートは、持っていたペンを静かに置いた。


 残り時間はまだ十分にある。周囲の生徒たちが必死に解答を書き連ねる音の中、彼女はただ白紙の解答用紙を見つめ、静かに時が過ぎるのを待った。




 試験終了の鐘が鳴った。



 解答用紙が回収される。白紙のまま提出されたその一枚の紙は、ロートにとって「親友への最高の贈り物」のはずだった。






 

 数日後。卒業式の直前、掲示板には最終的な順位が張り出された。


 首席、シェルファニール・グランシール。


 次席、ロート・グランシール。


 掲示板の前は、異様な雰囲気に包まれていた。不動の首席だったロートが二位に転落し、常にその後塵を拝していたシェルファニールが逆転した。人々はその理由を探るように囁き合っていた。


 ロートは人混みを避け、校舎の長い廊下の突き当たりに立っていた。



 冬空の下、中庭の石畳には薄っすらと雪が積もり始めている。


 「……これでいい」


 独り言が、白い息となって消える。胸の中に広がるのは、目的を遂行した後のような、凪いだ静寂だった。


 その静寂を、激しい足音が切り裂いた。


「ロート!!」


 振り返ると、そこにシェルファニールが立っていた。


 手には、自分の順位を確認したであろう通知書を握りしめている。その顔は、勝利を喜ぶ者のそれとは程遠かった。唇は小刻みに震え、深紅の瞳には、かつて見たことがないほどの激しい感情が渦巻いている。


「おめでとう、シェルファ。首席、素晴らしい結果だ」


 ロートは努めて冷静に、心からの祝福を口にした。


 だが、その言葉が火に油を注いだ。


「……素晴らしい結果、ですって?……ふざけないでっ!!」


 廊下に悲鳴のような叫びが響いた。シェルファニールはロートに詰め寄り、彼女の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで叫んだ。


「ロート、どういうことなの? 先生に聞いたわ。戦術学の答案……あなたは、何も書かなかったんですってね?」


 ロートは沈黙した。シェルファニールの視線が、刃物のように自分の瞳を抉ってくる。


「……体調が悪かったのかしら?それとも何か事故があったの? そう思いたかった。でも、先生は言ったわ! あなたは試験中、ただペンを置いて座っていただけだったって! 一文字も、一行も書かずに、ただそこにいたって!」


「……それが、私の出した『解答』だ」


 ロートは視線を逸らさずに答えた。


「シェルファ。お前は第一騎士団に入らなければならない。将軍の跡を継ぐ者として、次席と首席では、入団後の扱いがまるで違う」


「……。……黙れ」シェルファは小さな、本当に小さな声で呟いた。ロートにその声は届かない。


「軍という組織において、象徴的な権威は実力以上に重要視される。私の判断は、お前の将来を最大化するための……」


「黙れ、と言ってるのよ!!」


 シェルファニールの手が、ロートの肩を突き飛ばした。


 ロートの背中が、窓枠に激しく打ちつけられる。


「判断? 最大化? あなた、何様のつもり!? わたしが……わたしがどんな思いでこの四年間を過ごしてきたか、あなたは一度でも考えたことがある!?」


「わかっている。お前は誰よりも努力していた。だからこそ……」


「わかってない!! これっぽっちもわかってないわよ!!」


 シェルファニールの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。


「わたしは、あなたに勝ちたかったの。帝国のためにとか、家門のためにとか、そんなことじゃないわ! 四年間、ずっとあなたの背中だけを見て、一度も届かなくて……それでも最後くらい、正々堂々と勝負して、わたしのこの手が、あなたの背中に届くかどうかを確かめたかったのよ!」


 シェルファニールの声が、嗚咽おえつに混じる。


「勝負して、それで負けたなら、わたしは笑ってあなたの首席を祝えたわ。実力の差を知って、いつか追いついてやるって、また前を向くことができた。……なのに、あなたは勝負の土俵にすら上がらなかった。わたしを『首席にする』ために、勝手に負けてみせた。そんなの……そんなの、ただの侮辱じゃない!!」


「……侮辱ではない。私はお前の力を信じている。魔法の才能も、人を率いる力も、お前は私よりも優れていると……」


「嘘をつかないで!!」


 シェルファニールは、溢れる涙を手の甲で乱暴に拭った。


「そんなのは、あなたが自分を納得させるための言い訳よ。あなたは、わたしと対等に競うことすら放棄した。わたしの力を信じてるんじゃない。わたしを『守らなきゃいけない、か弱い存在』だと決めつけて、上から目線で慈悲を与えただけよ!!」


「シェルファ……」


「あなたは、わたしを見ていない」


 その言葉は、鋭い針となってロートの胸に刺さった。


「ずっと、わたしの『役割』や『立ち位置』だけを見て、その中身にいるシェルファニールという一人の人間を見ようとしなかった。……あなたにとって、わたしはその程度の存在だったの? 自分で自分の人生を掴み取ることすらできない、あなたの配慮がないと首席も取れない、哀れな女の子にしか見えていなかったの?」


「違う……。私は、ただお前のために……」


「『お前のために』。……まだ、そんなこと言うんだ」


 シェルファニールは力なく笑った。その笑顔は、ロートの心を今まで経験したことがないほどの「後悔」で締め付けた。


「その親切が、わたしの心をどれだけ殺したか。あなたは一生、理解できないんでしょうね。……ロート・グランシール。あなたの言う『合理』には、心なんて欠片も入っていないわ」


 シェルファニールは一歩、後ずさった。

 

「お父様にも言っておくわ。首席の栄誉なんて、返上するって。……こんな惨めな結果で迎えられる第一騎士団なんて、こっちからお断りよ」


「待て、シェルファ! それは……」


「触らないで!!」


 差し伸べようとしたロートの手を、シェルファニールは烈火のような勢いで振り払った。


「もう、話したくない。あなたの顔を見るのも嫌。……ずっと親友だと思っていた。わたしのことを、誰よりも理解してくれていると思っていたのに……。家族だと……思ってたのに」


 シェルファニールは踵を返した。


 廊下を駆けていく靴の音が、遠ざかっていく。


 角を曲がる直前、彼女は一度だけ立ち止まった。


 振り返りはしなかった。だが、その背中が絶望に震えていることを、ロートはただ、茫然と見つめることしかできなかった。


 廊下は、再び静寂に包まれた。


 窓の外では、雪が激しさを増していた。


 石畳を白く塗り潰していくその光景は、ロートが築き上げてきた「友情」という名の脆い城壁が崩れ去る様そのものであった。




 ロートは、自らの震える右手をじっと見つめた。

 ――合理的に判断したはずだった。

 ――最適解を選んだはずだった。


 だが、なぜだろう。


 肺の奥が、焼け付くように痛い。


 右目の奥が熱くなり、視界が不気味に歪んでいく。


 自分は、間違えたのだ。


 戦術の計算式には、人の「プライド」や「渇望」という不確かな変数は含まれていなかった。


 シェルファニールが求めていたのは、首席という肩書きではなく、自分と全力で戦い、その存在を認められるという「尊厳」だったのだ。


 それを奪ったのは、帝国でも、家門でもない。


 「親友」を自称していた、この自分だった。


「……シェルファ……」


 その小さな呼びかけは、雪降る廊下の冷気に虚しく吸い込まれていった。




 

 ロートは、敗北した。


 大事な人を、失ってしまった。

 自分の愚かな行為のせいで。


 戦術試験での白紙は、勝利を譲ったのではない。

 彼女は、生涯でもっとも失ってはならない戦いに、完膚なきまでに敗れたのである。

 彼女は一人、窓の外の灰色の世界を見つめ続けていた。


 雪は止むことなく、すべてを冷たく覆い隠していった。







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