第8話 月光の下、殿下に泣きついてしまった件
離宮、四日目の夜。
殿下が私を、離宮の中庭にエスコートしてくれた。中庭の薔薇のアーチの下。夜空には満月がぽっかりと浮かんでいた。ガラス越しではない本物の月光が、二人を淡く銀色に染めている。
こんなロマンチックなシチュエーション。私の心臓の防御力は、本日もゼロである。
殿下がふっと優しく、私の手を握ったまま、薔薇のアーチの下の白い長椅子へ、私をエスコートしてくれた。
「エリーゼ嬢、聞いてほしい話がある」
「は、はい」
殿下の空色の瞳が、月光に淡く揺れていた。
「ぼくは君をずっと想っていた」
ずっと、想っていた。いつから。それは、どういう意味なの。
◇◇◇
私の中で、堰が決壊した。
「殿下は、殿下はひどいですわ」
喉の奥が熱く詰まって、胸がいっぱいになる。
「こ、こんなに優しくされたら、私、殿下を好きになってしまいます」
「エリーゼ嬢ーー」
「愛されずに修道院で暮らすはずだった私が、殿下を好きになって、捨てられたらもう生きていけませんわ」
「殿下はいつも女性をここに呼ばれていらしたんでしょう?」
「気まぐれで優しくしていらっしゃるなら、もう解放してくださらないと」
「本気で好きになってしまったら、もう取り返しがつかないわ」
「殿下は誰にでも優しくしてはいけませんわ」
「私でなかったら勘違いしてしまいますよ」
私の両手が殿下の胸を、ぽかぽかと弱々しく叩いた。
殿下がふっと息を呑んだ。それから、ぱあっと顔の色が明るくなる。そして、私の頬を両手でそっと包み込んだ。
「エリーゼ嬢、ひとつ教えてほしい」
「は、はい、ぐすっ」
「君は一度、兄上に捨てられている。けれどもそれはなんとも思わなかったのか」
「兄上のことは好きではなかったのか」
私は震える声で答えた。
「いえ、王太子殿下のことはもちろん好きでしたわ」
「王太子殿下が心から愛する方と結ばれて、本当に心から嬉しいですわ」
殿下の顔色がもう一段、ぱあっと明るくなった。
「兄上とはこんなことはしなかったのか?」
殿下の長い指が、私の手をふっと優しく取って、手の甲にふら、ふらと口づけの雨を降らせた。
「まさか、するはずがありませんわ」
「王太子殿下とはお互いに、良きお友達でしたから」
殿下の頬がもう一段、ぱあっと輝いた。
「じゃあ、君に口づけをしたのはぼくが初めてなのかな」
私の頬がかあっと火照った。
「そうですわ」
殿下が、これまでで一番明るい顔になった。
「エリーゼ嬢、ぼくは世界で一番幸せだ」
◇◇◇
殿下がふっと優しく、私の頬を撫でた。そして、ようやく自分の本心を、ゆっくりと語り始めた。
「エリーゼ嬢、ごめんね」
「ぼくの伝え方が足りなかったようだ」
殿下の空色の瞳が、月光の中で静かに翳った。
「ぼくが君のお店に通うようになったのは、二年前、君に命を救われてから」
「はい」
「けれどぼくが君を想っていたのは、もっともっと前から」
「ぼくの初恋は十二年前」
「君が六歳の、王宮の初めてのご挨拶の日」
十二年前。お茶会の、あの日。私が転生に気付いた、まさにその日。私の人生がぐるりと回転した、あの日。その同じ日に、殿下も、私を。
殿下がゆっくりと、十二年前の思い出を語り始めた。
「ぼくは当時八歳」
「は、はい」
「兄上の新しい婚約者のご令嬢が、王宮にいらっしゃる、と聞かされて、嫌だった」
「また兄上に、ぼくのものでない新しい何かが加わる、と思って」
「だからお茶会の当日、ぼくは庭の薔薇の茂みの裏に一人で隠れて、泣いていた」
薔薇の茂みの裏。私の頭の中で、十二年前のぼんやりとした記憶が、ふっとよみがえる。
「そこに君が来てくれた」
「薬草を見ながら庭をしずしずと歩いていた君が、薔薇の茂みの裏で銀の髪の幼い男の子が泣いているのに気付いて」
思い出した。思い出した。
私は思わず目をぱちくりと見開いた。そして、ぽつりぽつりと口に出した。
「あ、あの子!」
「うん」
「薔薇の茂みの裏で、銀の髪の幼い男の子がぐすぐす泣いていらした、あの、あの子!」
「うん」
「私、私、すっかり忘れていました」
殿下がふっと優しく、私の頬を長い指でそっと撫でてくれた。
「けれどぼくはあの日から、一日も君を忘れたことがない」
「君がしゃがんでぼくの目線に合わせて、ぼくの目をまっすぐに見て、こう言ってくれた」
殿下の声が震えていた。
「『あなたはあなたのままで、必要な人よ』」
「『誰かに何かを取られたから、いらない人になるなんて絶対ない』」
「『私はあなたみたいに、優しく泣ける人、好きよ』」
私、そんなことを。六歳の私が。……転生覚醒したばかりで、頭の中はまだ藤宮沙耶、二十八歳の社畜OL状態だったから、つい年上のお姉さん目線で言ってしまったのね。けれどその言葉が、八歳の殿下の心に十二年も響いていた、ということ。
「君のその力強い言葉で、ぼくの中の何かがふっと変わった」
「ぼくはぼくのままでいいんだ」
「君がぼくを好き、と言ってくれた」
「あの日からぼくは君をずっと好き」
◇◇◇
殿下が私を、ふわりと抱き上げた。
「で、殿下、どこへ」
「ぼくの本気を教えるところ」
殿下は私を抱えたまま、優雅に薔薇のアーチを抜けて、離宮の中に戻った。そして東棟のいちばん奥、私の部屋の扉を開けて、絹のシーツの白いベッドの上に、私をそっと降ろした。
「エリーゼ嬢、いや……」
殿下がふっと、私の目をまっすぐに見つめた。そして優しく囁いた。
「エリー」
「これからぼくは、君をエリー、と呼ばせてほしい」
「ぼくのことも、ルーク、と呼んでほしい」
「ル、ルーク」
私の口からぽつりと漏れた、初めての愛称。ルークの空色の瞳が、月光を受けて、深く深く輝いた。
「エリー、その前にひとつ訂正させて」
「は、はい」
「君はいつも女性をここに呼ばれていらしたんでしょう、とおっしゃった」
「それは誤解だ」
「えっ」
「この部屋はエリーのためにだけ用意した部屋だよ」
「他の人をここに止めるなんてあり得ない」
「部屋の準備はメイド頭と執事に任せていた」
「けれどいつもぼくが直接、報告を受けて指示していたんだ」
「ドレスの一着、ベッドのシーツ、化粧台の香水、ぜんぶぼくがメイド頭から報告を受けて、君の好みに合わせて選んでいた」
「だからメイド頭も執事も、『いつもの東棟の角部屋』と呼ぶようになった」
「『いつも』ぼくが報告を受けて指示していた、君のための君だけの部屋、という意味だ」
「ぼくにとって生涯で愛する女性は、君が最初で最後だ」
「殿下、いえ、ルーク」
「うん」
「エリー、ぼくは君を心から愛している」
「君以外の女性にこんな顔、ぼくは見せたことがない」
「君がぼくを好きでいてくれるなら、ぼくはそれで世界のすべてが足りる」
心臓、限界。
「ル、ルーク、私も……」
「うん」
「私もルークをお慕いしています」
ルークの空色の瞳が、月光の中で、ふっと潤んだ。その目にはこれ以上ない、深い愛が宿っていた。
◇◇◇
ルークがベッドの脇にゆっくりと、片膝をついた。そして私の手を、両手で優しく包み込んだ。
「エリー」
「は、はい」
「ぼくの妃になってほしい」
──!
十二年越しの、ルークの本気のプロポーズ。月光がルークの銀の睫毛を、淡く照らしていた。ルークの空色の瞳がまっすぐに、私を見つめている。その目には何の迷いもない。ただ絶対の誓いが、込められていた。
私は震える指で、ルークの手をぎゅっと握り返した。
「はい、ルーク」
「エリー」
「私をあなたの妃にしてください」
ルークがふっと深く息を吐いた。そして私の指先にひとつ、優しく口づけを落とした。
「ありがとう、エリー」
「こちらこそありがとうございます」
◇◇◇
ルークがふっと、ベッドの上の私の上に覆い被さった。そして私の唇に深く、舌を絡める口づけを降らせる。
「ん、ん、んん」
ルークの長い指が、私の絹のドレスの紐をゆっくりと解いていく。首筋から鎖骨、胸元へ、ルークの唇が降りていく。絹のドレスの上から、ルークの指が私の胸の頂を優しく撫でた。
「あっ、!」
これ、知らない感覚。身体の奥が、熱くなる。
ルークの指がドレスの中に滑り込んで、胸の頂を直接優しく捏ねた。
「あっ、あっ、ルーク、これ、何か来る」
「うん、エリー、ぼくに身を預けて」
私の身体の奥の奥が、ぎゅっと収縮した。火花が、ぱあっと散る。
「ルーク、!!!」
私の世界が、ふっと白くなった。身体の全てがぎゅっと固まって、それからふっと解けた。
◇◇◇
私はぐったりと、ルークの腕の中で力が抜けた。息がはあ、はあと上がっている。
ルークがふっと優しく笑った。
「今日はここまで」
「エリー、可愛い」
私はぐったりした身体で、ルークの胸にもたれかかった。
「ルーク、私、何が起きたの」
「エリー、君がぼくの愛で初めて気持ちよくなってくれた、ということ」
私の頬がかあっと、もう一段火照った。私はルークの胸に顔を埋めて隠れる。ルークが私の髪を、ふっと優しく撫でた。
◇◇◇
月光が、白いベッドの絹のシーツを、淡く銀色に染めていた。
ルークの腕の中で、私の心臓はまだどきどきと、自由に暴れ回っている。ルークがもう一度、私の額にふっと優しく口づけを降らせた。
「おやすみ、ぼくのエリー」
「おやすみなさい、ルーク」
月光が二人を、淡く銀色に包んだ夜。




