第29話 最終話・愛されないはずだった私の、新しい人生
結婚式から、三年が過ぎた。
その三年の間に、王宮には、いくつかの新しい風景が生まれていた。
王宮の東棟の薬草庭園に、ノヴァク村のサラのお店「森の小さな薬草店」が移築になった。お店の木のカウンター、ハーブティーの瓶、店主のサラのエプロン、すべてそのまま。違うのは、お店のお客様が、王宮の方々と王都の貴族のご令嬢の方々に変わったことだけ。
私は、王太子妃殿下として、ご公務の合間に、お店に立っていた。
平民の地味な茶色のワンピース、白い布巾で髪を隠した、店主のサラとして。
王太子妃の私と、店主のサラの私。ふたつの私が、本日ようやく、ひとつ屋根の下で重なり合った。
◇◇◇
そして、もうひとつ。
私とルークの間に、小さなお姫様が、お一人。
セレナ。
二歳半。
銀色の髪、私の薄緑色の瞳。
セレナの誕生の日、ルークは、片膝を私のベッドの脇について、私の手のひらを自分の額に押し当てて、深々と頭を下げた。
「エリー、ぼくの十二年の、いちばん深いお祈りが、本日、ふたつ、叶った」
「ふたつ」
「君が、ぼくの妻に、なってくれた、こと」
「もうひとつ」
「ぼくの妻の腕の中に、ぼくらの娘が、やわらかく納まったこと」
私の喉の奥が、熱く詰まった。
◇◇◇
三年後の、ある朝。
宮廷の奥の、王太子夫婦の新居のお部屋。
絹のシーツの中で、私はゆっくり目を覚ました。
ルークの腕の中。
背中越しに伝わる、ルークの規則的な寝息。とくん、とくんと、私の呼吸より、ほんの少しだけ遅いリズム。
ルークがゆっくり目を開けた。
「エリー、おはよう」
「おはようございます、ルーク」
ルークの長い指が、私の頬を、軽く撫でた。
「本日も、君が、ぼくの隣にいる」
「はい」
「ぼくは毎朝、目覚めるたびに、本日も君が、ぼくの隣にいる奇跡を、自分の身体のいちばん深い場所で感じている」
「ルーク」
「十二年前、薔薇の茂みの裏で君に初めて会った、あの日のぼくのいちばん深い場所の決意が、毎朝、本日叶う、その奇跡」
「ありがとう、ルーク」
ルークの唇が、私の額に、軽く押し当てられた。
◇◇◇
その時、お部屋の扉の向こうで、小さな足音が、たたたたた、と走ってきた。
ノックも、なく。
扉が、ばたん、と開いた。
「お母さん! お父さん! 起きたの?」
セレナだ。絹の白い寝間着を着た、銀色の髪の小さなお姫様が、ベッドの方へ、ぴょん、と跳び乗ってきた。
「セレナ、おはよう」
「お母さん、おはよう! お父さん、おはよう!」
セレナがルークの胸の上に、とん、と乗った。
ルークが、ぱっと、セレナを抱き上げて、私たちの間に、下ろした。
セレナの薄緑色の瞳が、にこにこ、笑っていた。
「お母さん、お父さん、今日、絵本、読んで」
「絵本?」
「うん」
セレナが、ベッドから、ぴょん、と降りて、お部屋の本棚まで、走っていった。
◇◇◇
本棚の前で、セレナの小さな指が、一冊の、革表紙の本を、引っ張り出した。
その本の表紙には、銀の細い細工で、星の模様。
そして、流麗な文字で、こう書かれていた。
『銀の王子と聖女の終わりなき悲恋』
息が止まった。その本は、私が地球で、ベッドの中で最後に読んだ、あの小説だった。ルークが地球での臨死体験で書いた、あの予言書。なぜそれが、私たちのお部屋の本棚にあるのだろう。
「お母さん、この絵本、読んで」
セレナが、本を、私の膝の上に、ちょこんと、置いた。
私の指が、震えた。
ルークの空色の瞳が、深くなった。
「エリー、これは」
「ルーク、私も、見たことがない」
「うん」
◇◇◇
その時、お部屋の扉が、軽くノックされた。
「ルーカス、エリーゼ、入っても、よいか」
国王陛下のお声。
「父上、お入りください」
国王陛下と、王太子兄上のエリオット様、お父様、お母様、お姉様お二人、すべての方々が、お部屋の前に、集まっていた。
宮廷魔術師長のご老人も、ご一緒だった。
私の喉の奥が、止まった。なぜ、すべての方々が、本日、私たちのお部屋に揃っているのだろう。
国王陛下が、ゆっくりと、入ってきた。
そして、私の膝の上の、革表紙の本を、見つめた。
「ルーカス、エリーゼ、本日、ぼくが、話をするために、すべての方々と、一緒に、参った」
「父上」
「お父様」
国王陛下のお声には、深い深い感慨がこもっていた。
◇◇◇
国王陛下が、お手で、革表紙の本を、取り上げた。
「この本は」
国王陛下のお声が、ゆったりと、続いた。
「五百年前から、王家に、伝わる、予言の書」
その一言に、背筋が震えた。
「五百年前、王国の初代国王が隣国の魔術師に命を狙われた、その瞬間、五百年前の聖女様が、ご自分の手でこの本をお書きになった」
「内容は、五百年後の、悲恋の物語」
「王太子エリオットと、聖女ミラが、結ばれる」
「弟王子ルーカスは、十八歳で、毒で、亡くなる」
「悪役令嬢エリーゼは、断罪されて、修道院に送られて、亡くなる」
「それが、この予言書の、内容、だった」
私の喉の奥が止まった。それは原作のストーリーそのものだった。私が地球で読んだ、あの小説のすべての内容。
「けれども、五百年前の聖女様は、もうひとつ、お伝えになった」
国王陛下のお声が、続いた。
「『この予言を、覆すために、生まれ変わりが、現れる』、と」
「ルーカスの祖父様の代まで、王家の誰も、この口伝を、信じていなかった」
「予言書の頁を、繰る方も、もう、家系の中に、いらっしゃらなかった」
◇◇◇
「けれども、ルーカス」
「はい、父上」
「お前が二年前、毒で死のふちを彷徨って、ぼくの胸の中で亡くなる、その瞬間」
国王陛下のお声が、わずかに震えた。
「お前は、ぼくの胸の中で、自分の意思の最後で、おっしゃった」
「『お父上、ぼくは、地球の、日本という国で、暮らす夢を、見ていました。ぼくは、その夢の中で、小説家として、この王家の予言書と、同じタイトルの、小説を、書きました』」
ルークの肩が、震えた。亡くなるその瞬間に、ルークはお父上へ、地球での夢を話していたのだ。
「ぼくは、その瞬間、王家の口伝を、思い出した」
「『この予言を、覆すために、生まれ変わりが、現れる』」
「『生まれ変わりは、ルーカスだ』、と、ぼくは、確信した」
「そして、その夜、エリーゼ嬢の、エリクサーが、王宮の御用達ポーションでも、王国一の魔術師の治癒術でも、効かなかった毒に、効いた」
「ルーカス、お前は、生き残った」
◇◇◇
国王陛下のお声が、続いた。
「ぼくは、その瞬間から、お前の様子を、見守ってきた」
「お前が、半年前の王太子兄上の様子の異変に気付いて、エリーゼ嬢のお父上に頭を下げ続けた、その十二年来の決意」
「ぼくは、すべて、知っていた」
「お前が、八歳の春、ぼくのお部屋で『エリーゼ嬢を、ぼくの妻にする』と話した、その瞬間から」
「ぼくは、お前の決意を、王家の口伝の予言を覆す生まれ変わりの決意、と結びつけていた」
国王陛下が、本を、私の膝の上に、ことりと、戻した。
「ルーカス、エリーゼ嬢」
「はい、父上」
「お父様」
「おまえたちは、五百年の、予言を、完全に、打ち破った」
「『終わりなき悲恋』は、もう、ない」
「ルーカスは、生きている」
「エリーゼ嬢は、断罪されず、聖女として、王家を、守ってくれている」
「ミラ嬢の偽聖女も、宰相の陰謀も、すべて、覆した」
「これが、おまえたちの、五百年越しの、使命、だった」
◇◇◇
私の胸が、いっぱいになった。
ルークの空色の瞳の、いちばん奥にも、涙の光が、滲んでいた。
ルークが、私の手を、ぎゅっと握った。
「エリー」
「ルーク」
「ぼくが、地球で、絶望の中で、書いた、悲恋を」
「私たちが、こちらで、永遠の愛に、書き換えた」
ルークの声が、震えていた。
国王陛下が、優しく頷いた。
「うむ。これからは、君たちが、新しい、王家の歴史を、紡いでいく」
◇◇◇
お父様の目尻にも、薄く光るものが、滲んでいた。
お母様が、私の胸に、そっと、頭を預けてくれた。
「エリーゼ、お前は、本当に、わたくしどもの誇りの娘」
「お母様」
リディアお姉様と、ソフィアお姉様も、私を、ぎゅっと、抱きしめてくれた。
「貴女の十八年の道筋、わたくしどもの十二年の見守り、本日、すべて、叶ったのね」
王太子兄上のエリオット様も、優しく、微笑んだ。
「エリーゼ、ぼくの十年の婚約の時間も、本日の、五百年越しのご使命の、いちばん深い場所の、ひとひらの頁、だった」
「エリオット様」
「お前が、王家の聖女として、ぼくらを守ってくれていること、ぼくは、深く、深く、感謝申し上げる」
◇◇◇
宮廷魔術師長のご老人が、白い長いローブの中から、ひとつの、銀の細い鎖の、何かを、取り出した。
「妃殿下」
「はい」
「これは、五百年前の聖女様の、最後のお預けの、お品でございます」
ご老人の指の上に、淡い銀色の小さな羽根が、もう一枚。
その姿に、息を呑んだ。覚醒の儀式で五百年前の聖女様から預けられた、あの銀の羽根と同じものだった。
「五百年前の聖女様は、ふたひらの銀の羽根を、ご自分の指の中に、お預けに、なっていた」
「ひとひらは、銀の王子に、お渡しに、なれなかった」
「もうひとひらは、ご自分の生まれ変わりの聖女に、お渡しになる、その日のために、お預けに、なっていた」
「妃殿下、本日、わたくしが、もうひとひらの銀の羽根を、お預け申し上げます」
「ありがとうございます」
ご老人が、私の胸元の、銀の星の花、銀の羽根、お母様のペンダントの脇に、もうひとひらの銀の羽根を、しずしずと、留めた。
その瞬間、五つの銀の星と、ふたひらの銀の羽根が、いっせいに、淡い銀色に、光った。
「五百年前の聖女様は、本日、ご自分の予言の覆りを、わたくしどもに、確かにお見届けくださいました」
◇◇◇
セレナが、私の膝の上で、にこにこ、笑っていた。
「お母さん、絵本、まだ、読んで」
セレナの小さな指が、私の膝の上の革表紙の本を、ぽん、と叩いた。
私はルークと、目を見合わせた。
そして、優しく、微笑んだ。
「セレナ」
「うん、お母さん」
「いいわ。お母さんと、お父さんの、本当の、お物語、聞かせて、あげる」
「お母さんと、お父さんの、お物語?」
「うん。地球の、藤宮沙耶という、社畜OLが、こちらの世界に、転生して」
「八歳のルーカス殿下と、薔薇の茂みの裏で、初めて会って」
「十二年後の、王宮の夜会で、悪役令嬢として、断罪されて」
「廊下で、『やった』と、ぴょん、と跳んで喜んでいたら」
「貴女のお父様、ルーカス殿下が、『やった、と聞こえたが』、と、お声をかけてくださって」
セレナが、ぱっと、目を、丸くした。
「お母さん、それ、絵本のお物語じゃないわ。お母さんとお父さんの、本当のお話だわ」
私は、にこり、と、笑った。
「うん。本当のお話よ」
◇◇◇
窓の外。
朝の光が、王宮の薔薇のアーチの上に、ふんわりと降りていた。
私の膝の上のセレナ。
私の隣のルーク。
私の胸元の、五つの銀の星と、ふたひらの銀の羽根。
私の左の薬指の、銀の星の指輪と、銀の結婚指輪。
そして、私の膝の上の、革表紙の本。
すべての輪郭が、本日、私の身体のいちばん深い場所で、ひとつに、繋がっていた。
五百年前の聖女様。地球で私とルーカスを繋げなかったご縁を、貴女は本日、こちらで、永遠の愛と新しい家族として繋いでくださった。お進みなさい、とおっしゃった、その道のいちばん深い、いちばん奥の場所が、本日、私の膝の上の、セレナの小さなお身体に納まったのだ。
◇◇◇
「お母さん、お父さん、続きは?」
セレナの小さな指が、私の頬を、撫でた。
「セレナ」
「うん」
「私たちの、いちばん新しい、いちばん大事な頁は、貴女、よ」
「わたし?」
「うん。貴女のご誕生から、私たちの新しい、王家の歴史の、いちばん深い章が、始まったの」
セレナが、ぱっと、頬を、薔薇色に、染めた。
ルークが、セレナを、優しく抱きしめた。
「セレナ、ぼくの、ただひとりの、お姫様」
「お父さん」
「お父さんと、お母さんの、いちばん深い、お祈りの輪郭」
◇◇◇
国王陛下が、優しく、頷いた。
「ルーカス、エリーゼ、セレナ」
「父上」
「お父様」
「おじいさま」
「これからは、君たちの、新しい王家の歴史を、紡いでいきなさい」
国王陛下の目尻に、薄く光るものが、もう一度、滲んでいた。
◇◇◇
窓の外。
朝の光の中で、王宮の薬草庭園の方角から、淡い銀色の光が、走ってきた。
私の胸元の、五つの銀の星と、ふたひらの銀の羽根が、その光と、いっせいに、ひと瞬きを、返した。
聖樹だ。本日の、私たちの五百年越しのご使命のご完了に、聖樹も祝福を送ってくれている。
ルークが、私の手を、ぎゅっと握った。
セレナが、私の膝の上で、楽しそうに笑っていた。
すべての家族の輪郭が、本日、王宮のいちばん深い場所で、ひとつに、繋がっていた。
◇◇◇
本日、私は、王太子妃殿下、エリーゼ・ヴァルトハイム、いえ、エリーゼ・アシュフォード。
私のいちばん奥の、藤宮沙耶の輪郭は、ルークの心臓の音のお布団の下で、地球の頁とこちらの世界の頁が、ひとつに繋がっていた。
私の自由ライフ計画は、すべて、書き換わった。
けれど、私が自由の先で探していた、いちばん深い場所の温度は、本日、ルークの心臓の音と、セレナの小さなお身体と、王家のすべての方々の輪郭の中に納まっていた。
本日、私は、愛されないはずだった私が、すべての方々の腕の中で愛されていた。
「お母さん、続きは?」
「うん。続きは、毎日、私たちで、書いていきましょう」
「うん!」
セレナが、私の膝の上で、ぱっと、嬉しそうに、頷いた。
ルークが、優しく、微笑んだ。
朝の光が、絹のシーツの上を、淡く染め続けていた。
私たちの新しい、王家の歴史の、いちばん深い章は、本日、始まっていた。
【完】
『婚約破棄でやっと自由になれたはずなのに、死んでるはずの殿下に妃にされそうです』
全29話、ご愛読いただき、誠にありがとうございました。
改稿の予定ありです。




