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婚約破棄でやっと自由になれたはずなのに、 死んでるはずの殿下の妃にされそうです  作者: 葉月晴子


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第10話 王太子殿下が、離宮に突然訪問してきた件

翌朝。


朝食をルークと二人きりで、客間でいただいていた時。


ハンナが急いだ足取りで扉から入ってきた。


「殿下、お嬢様、王太子殿下の馬車が玄関に到着しております」


私の指から、銀のスプーンがぽとりとテーブルクロスの上に落ちた。


「えっ、王太子殿下が?」


「はい、お一人でいらしていらっしゃいます」


──王太子エリオット殿下。


──私を夜会で断罪したあの方。


──なぜここに?



ルークは紅茶のカップを、ソーサーに戻した。


その仕草に動揺の影はない。


──ルーク、ご存じだったの?


ルークの空色の瞳が、私を捉えた。


その奥に静かな、けれど説明できない色が揺れている。


「エリー、客間にお通しする。君も一緒に会ってほしい」


「は、はい」


胸の奥が急に騒ぎ始めた。



◇◇◇



客間に王太子エリオット殿下が、ゆっくりと入っていらした。


二十二歳。


ルークと同じ銀の髪、空色の瞳。けれどルークよりも、ひと刷毛大人びた整った顔立ち。


私と十年婚約していた、見慣れたお顔。


その目元に、隠しきれない疲労が滲んでいた。



「ルーカス、エリーゼ」


王太子殿下のお声が低く、ほんのわずかに掠れていた。


「兄上」


ルークが姿勢を正してお迎えした。


私も震える指で、ドレスの裾を握りしめながら頭を下げた。


「王太子殿下、ご機嫌よろしゅうございます」



王太子殿下がソファに腰を下ろした。


その動作にいつもの王太子としての張りはなく、力を失った影が漂っていた。


「エリーゼ」


王太子殿下が息を吐いて、口を開いた。


「ぼくはお前に謝罪しにきた」



私の耳の奥で、何かがぐらりと揺れた。


──謝罪。


──王太子殿下が、私に。


「王太子殿下、それは」


「ぼくはお前を勘違いしていた」


王太子殿下の声が続いた。


「夜会でお前を断罪したのは、ぼくの判断ではなかった気がする」



──!



「気がする、と申されますと」


王太子殿下が、ご自分の手のひらを見つめた。


「最近、ぼくの頭の中の霧が、少しずつ薄くなってきている」


「半年ほど前から、ぼくは何か靄の中にいるような感覚だった」


「特にミラの隣にいる時、その靄はもうひと段深く、ぼくの頭を覆っていた」



肋骨の内側で、何かが鋭く打った。


──ミラ嬢。


──王太子殿下のお側に侍り始めた半年前。


──同じ頃、王太子殿下のお頭の中が、霧。



「それからルーカスから密かに、報せを受け取った」


王太子殿下のお声が、ふっと低くなった。


「お前を修道院に送る馬車を、ミラが独自に手配し、道中で襲撃させようとしていた、と」


「ーー、!」


私の身体が震えた。


──王太子殿下、ルーカスからお聞きになっていらしたのね。


──その上で、いらしてくださったのね。


「ぼくは衝撃で、頭の中の靄がぱっと、ひと段晴れた」


「お前を修道院に送るだけでは足りずに、ミラはお前を殺そうとしていたのか、と」


王太子殿下のお手が、軽く震えた。


「ぼくはその時、初めてミラの本性のひと欠片を、垣間見た」


王太子殿下の声が、わずかに乱れた。


「エリーゼ、もしぼくが本当に操られていたのだとしたら、ぼくはお前に、取り返しのつかないことをした」



王太子殿下の頭が垂れた。


王族が令嬢に頭を下げる。


本来であれば、あってはならない光景だった。



◇◇◇



私の中でいくつかの感情が、ぶつかり合った。


──夜会で人前で断罪された屈辱。


──修道院送り、と宣告された絶望。


──けれど、王太子殿下、ご自分の罪を認めていらっしゃる。


──頭を、お下げになっていらっしゃる。


私は震える声で口を開いた。


「王太子殿下、お頭をお上げくださいませ」


「エリーゼ」


「私、王太子殿下のことは一度も、お恨みしたことなどございません」


王太子殿下がお顔を上げた。


その目に、薄く滲んだ感謝の色。


「エリーゼ、お前は本当にーー」


「王太子殿下が心からお選びになった方、聖女としてお名乗りを上げたミラ嬢と結ばれること、私、心から祝福申し上げておりました」


「ですからミラ嬢がそのようなことをなさっていらした、とお聞きして、本当に残念でなりません」



◇◇◇



私は指をぎゅっと握りしめた。


「王太子殿下、ショックではございませんか?」


「ミラ嬢を、心からお慕いでいらしたのでは、ございませんか」


王太子殿下がご自分の手のひらを、もう一度見つめた。


「今となっては、よくわからない」


「ぼくのミラへの想いも、操られた結果なのか、本物だったのか、ぼく自身もう判断がつかない」



私は、もうひとつ尋ねた。


「ミラ嬢は今、どうなさっていらっしゃるのですか」


王太子殿下が息を吐いた。


「今はまだ、泳がせている」


「ーー、!」


「ミラの背後で動いている者を、待っている」


「ミラの操り糸の先に、誰がいるのか、全容がまだ判明していない」


「ぼくもルーカスと密かに連携して、根こそぎ暴くつもりだ」



王太子殿下の目尻が、わずかに緩んだ。


「ありがとう、エリーゼ」


「お前はぼくの知っている、いつものお前だ」


「はい」



◇◇◇



王太子殿下が立ち上がった。


そしてルークに向き直った。


「ルーカス」


「はい、兄上」


「お前がエリーゼを、お前の妃に迎える、と聞いた」


「はい」


「ぼくはお前とエリーゼを、心から祝福する」


王太子殿下のお声に、誠意が滲んでいた。


ルークが頭を下げた。


「ありがとうございます、兄上」



王太子殿下は客間を出る前に、もう一度私の方を振り返った。


「エリーゼ、長い間ぼくの婚約者として、よくぼくの隣に立っていてくれた」


「ぼくはお前との十年の思い出を、これからも大切にする」


王太子殿下の声が、最後にほんのわずか震えた。


そして客間を出ていかれた。



◇◇◇



扉が閉まった。


客間に、ルークと私だけが残った。


私の身体の力が抜けた。


ルークがすぐに、私の腰を支えた。


「エリー」


「ルーク、私」


涙が勝手にこぼれた。


ルークが私を抱きしめた。


「ルーク、王太子殿下、ご自分からいらしたの?」


「いや」


「では?」


ルークが私の髪を撫でた。


「ぼくが密かに兄上に、お手紙をお送りした」


「ーー、!」


「ミラが君を修道院送りの馬車で襲撃させ、殺そうとしていた、と」


「密偵の確かな証拠と一緒に、すべて兄上にお伝えした」


──ルーク、また何かをなさっていたの。


「兄上はミラの企みをお知りになって、その衝撃で頭の中の靄が急に晴れたらしい」


「兄上の頭の中の靄を晴らすには、ミラの本性をご自身で思い知るしか、方法がなかった」


「それから兄上に、君に謝罪する機会をお持ちいただいた」


「君がぼくの妃としてこれから王宮に入る時、兄上とのわだかまりが残らないように」


──ルーク、本当に。


──半年前から、お一人で、ここまで準備してらしたのね。



「エリー、ぼくも君に打ち明けたいことがある」


ルークの声が低く続いた。


「ぼくは半年前から、兄上のご様子の異変に気付いていた」


「ーー、!」


「兄上がミラに側を許してから、君への接し方が明らかに変わった」


「ぼくは兄上を、子供の頃から慕っている」


「だから本来であれば、兄上の婚約者を奪うなど、絶対にできない」


「けれど兄上はもう、ぼくの知っている兄上ではなくなっていた」


ルークの声が震えた。


「エリー、ぼくは二年前、君のエリクサーで命を救われた」


「あの日から君への想いは、いっそう強くなった」


胸の中がとくんと鳴った。


「ただ兄上から君を奪うつもりは、本当になかったんだ」


ルークの長い指が、私の手を包んだ。


「半年前、兄上のお心がミラに傾く兆しに気付いてから、ぼくは、いざという時に君を守れる準備だけを進めていたんだ」


ルークの声が深く震えた。


「けれど君が襲撃される、と知った時、ぼくはもう自分を止められなかった」


ルークの空色の瞳が、苦しげに揺れた。


「ごめんね。こんな強引な手段に出てしまって」


ルークの腕が、私を抱き寄せた。


「エリー、君がこの世から消えてしまうなんて、ぼくは耐えられないんだ」


──!


──ルーク…。


◇◇◇



ルークの長い指が、私の頬の涙を優しく拭った。


そしてゆっくりと、私の唇に唇を降ろした。


長く、執拗に。


ルークの舌が、私の口の中に滑り込んだ。


「ん、ん、んん」


ルークの腕の力が、もうひと段強くなった。


「エリー、兄上に君をもう、近づけたくない」


「君はぼくのものだ」


──嫉妬なさっていらっしゃるの?


──お兄様、十年来のご家族なのに?


──けれどその独占の声に、私の胸はふわりと温かくなる。


──口に出すのは悔しいけれど、嬉しい、と思ってしまう自分。



客間の窓辺に、初夏の朝の光が淡く揺れていた。


ルークの腕の中で、私の鼓動はまだ強く暴れ回っていた。

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