第1話 王太子殿下に婚約破棄され断罪された私、自由になる予定が謎の男性に求婚されてしまいました
「エリーゼ・ヴァルトハイム嬢。君との婚約を破棄する」
春の社交シーズン開幕を祝う、王家主催の夜会。
王宮の大広間に集った王国中の貴族たちの真ん中で、婚約者である王太子エリオット殿下の声は、いつもより半音低く、それでいてよく通った。
頭上のシャンデリアの光が私の白いドレスをひそやかに照らしている。
殿下の隣に立つのは、男爵令嬢ミラ・ロイス嬢。
栗色の髪を上品に結い、大きな茶色の瞳を今は涙でうるませている。半月前に聖女として覚醒したばかりの、誰もが守りたくなるあの清純令嬢。
そのミラ嬢が震える両手を胸の前で組んで、つーっと頬に一筋の涙を滑らせた。
「エリーゼ様には、何度も心無いお言葉をいただきました」
声はわざとらしくない程度に震えていた。
「殿下のおそばに侍る者として、もっと立派な令嬢でなければならない、と」
「お茶の作法、ドレスの選び方、社交界の所作、そのすべてが至らないと言われました」
「私のような男爵家の娘が、聖女になど、なるべきではない、と」
周囲の貴族たちがざわめいた。さざ波のような囁き声が広間を渡っていく。
「やはり、エリーゼ嬢、噂通りね」
「お可哀想に、聖女様……」
「殿下、よくぞご決断を」
──いえ、私、ミラ嬢にはお茶の作法の一般論をお話ししただけですわ。
──ドレスの選び方は、聖女様の正式な装束のお作法をお伝えしただけ。
──社交界の所作も、男爵令嬢として困らないようにとの親切心からお伝えしただけ、なのに。それがいつの間にか「男爵家の娘が聖女になどなるべきではない」という壮絶な意訳に化けている。
──いえ、口に出しても、もう誰も信じてくれない。
私は深々と頭を下げた。
「殿下のご決断、お受けいたします」
声を震わせるというのは、案外、慣れれば誰でもできる芸当である。涙だって、こんな空気の中なら勝手に頬を伝ってくれる。
「ミラ嬢にも、申し訳ありませんでした。私の行いの数々、心からお詫び申し上げます」
ミラ嬢は王太子殿下の腕に縋りながら、もう一度ハンカチを目元に当てた。
「ええ、エリーゼ様、もうお気持ちはお受け取りいたしましたわ」
王太子殿下の冷えた声が、その上に被さってきた。
「エリーゼ・ヴァルトハイム。汝を王都北の修道院へ送る。今後一切、王宮への立ち入りを禁ずる」
私はもう一度、深く頭を下げた。
「謹んでお受けいたします」
全方位から遠慮なく向けられた貴族たちの視線は、千パーセント非難の色に満ちていた。
──ようやく、あの悪役令嬢が断罪された。
そんな空気がだだっ広い広間の隅々から、ひしひしと押し寄せてくる。
私は腰を折ったまま、王太子殿下とミラ嬢に背を向けた。
誰も声をかけなかった。誰一人。
「ご機嫌よう」
ぽつりと零した私の声は、シャンデリアのざわめきにすぐ掻き消えた。
肩をぎゅっと抱きしめながら、私は静かに大広間の出口へと向かった。
◇◇◇
一礼して退出した後、大広間の重い扉が背後でぱたんと閉まる。
王宮の長い、薄暗い廊下。
シャンデリアの間隔が広く、誰もいない時間帯のこの廊下では、私の足音だけがこつん、こつんと大理石を叩いた。
馬車寄せの方角を目指して、私は歩き出した。
途中、人気のない柱の影でひと呼吸、立ち止まる。
ハンカチで涙をぬぐう。
そして。
「や、やったーーーーー!」
こっそり呟いた。──いや、口にしたのはささやかな声。心の中では思いっきり叫んでいた。
両手をグーで天に突き上げ、ぴょんと一回、軽くジャンプ。
──やった、やった、やった!
──ついに、この日が来たわ!
──ついに、自由!
──ついに、王太子妃教育、終わった!
──ついに、悪役令嬢の役、終わった!
口元が勝手ににやけていく。さっきまで涙を流していたとは自分でも信じられないほど、頬の筋肉がゆるみ切っていた。
王太子殿下、ミラ嬢、本当にありがとうございます!
これで明日からは、修道院送りという名の、新しい自由が始まる。
──いえ、表向きは修道院送り。
──けれど本当は、修道院に行かずに馬車から逃亡。
──そのまま北の山あいのノヴァク村へ。
──二年前からこっそりハーブティーの店「森の小さな薬草店」を開いている、私の本当の居場所へ。
「明日からは、毎日、店に出られる」
口元がもう一段ゆるんだ。
──ふふ、ふふふ。
私はにまにまと頬をゆるめたまま、もう一歩、廊下を進もうとした。
──その時。
「やった、と聞こえたが」
低くてよく通る男性の声が、私の背後から降ってきた。
や。やばい…。私の身体がその場でぴしりと凍りついた。
──、嘘でしょ。
おそるおそる振り返る。
そこに立っていたのは、銀の髪、空色の瞳、絶世の美貌の青年だった。
長身。仕立てのよい燕尾服。胸元には宝石をちりばめた徽章。明らかに高位の貴族。
──けれど、どなただろう。
王太子妃教育のおかげで、王国の高位貴族の方々の顔と名前はほぼ全員、頭に入っているはずなのに、この方の記憶がどこを探しても出てこない。
「あ、あの……どなた、様……」
「さあ、誰だろうね」
「ぼくは、君にひと言伝えたくて、ここに来た」
その方の声は低く、なぜかひどく優しかった。
「君を、ぼくの妻にしたい」
──はい?
「申し訳ありません、もう一度、お願いできますか」
「ぼくと結婚しよう」
二度目、はっきり聞こえてしまった。
──いやいやいやいや、待って、待って、待って、待って。
──私、たった今、王太子殿下に断罪されて、修道院送りが決まったばかりなのですが。
──それを横で見ていて、求婚?
「あの、何かのご冗談でしょうか」
「冗談で、ぼくは貴族の令嬢にこんな話はしない」
──それは確かにそうかもしれませんが。
その方の長い指が伸びてきて、私の手を優しく掬い取った。
「あの、お初にお目にかかるお方、ですよね」
「ぼくは、君を知っている」
──いやだから、なんで?
その方の唇が私の手の甲に軽く押し当てられた。
シャンデリアの光が、その方の銀色の睫毛の影を頬に淡く落としている。
その動作はあまりにも静かで、それなのに、有無を言わせない密度があった。
その方の唇がようやく私の手の甲から離れた。
そしてまっすぐな空色の瞳で、私を見つめた。
「君が、ぼくの求婚を受け入れてくれる日を、待っている」
頭の中で警鐘が、わんわんわんと、けたたましく鳴り始めた。
──やばいやばいやばいやばいやばい。
──このシチュエーション、私の人生に絶対ないはずのやつ。
──しかも、私の意思とは裏腹に、肋骨の内側で何かが、いつもの倍速でドラムを叩いている。
「け↑、結構ですーっ!」
口から勝手に出た言葉。声は思いっきり裏返っていた。
もう逃げるしかない、と言い逃げして走りかけたその時。
その方は私の腕を掴み、私の前に立ち塞がってふっと目を丸くした。
「結構、とは」
「い、いえ、お声がけ、本当にありがとうございます、けれど、私、明日から修道院に参りますので、失礼しますー!」
私はその方にぺこりと頭を下げた。
そして、たぶん腕を振り払い、ばっと踵を返して、廊下を全力で駆け出した。
──よし、予定外の求婚はなんとかきっぱり断ったわ!
──走れ、走れ、走れ。
──ドレスの裾、踏むな!
──馬車まで、あと、もうちょっと!
シャンデリアの光の下、白いドレスの裾が、ばさり、ばさり、とはためく。
胸の内側はまだ、どくどくどくどくどく、と、走る私の足音にすら追いつけないくらいの速さで鳴っていた。──けれど、これは走るという行為により、心臓が血液を必死で送り出している生理現象以上の何物でもない、と、私は必死に言い訳をしていた。




