二十九話
「どうでしたか、レイジくん」
「扱うテーマは変わっているけれど、思っていたよりずっとまともな講義だったよ」
「それはそうですわ。きちんと単位が出るのですもの」
エリナはじっとレイジを見る。その目は言っている。忘れてはいませんわよね?
「エリナ、忘れちゃいないさ」
「なら、結構ですわ。さあ、行きましょう」
「笠舞さん。人手が必要でしたら、私もお手伝いいたします」
「気持ちだけ、嬉しく受け取っておきますわ。ですが、これは六号に任せる仕事。堀之内にやらせては、意味がないのですわ」
「わかりました。レイジくん、頑張ってください」
バラと共に見送られた。
「時間をかけては、スミカ様との夕食に遅れてしまいます。さっさと終わらせますわよ」
「何をすれば?」
「行けばわかりますわ。口を開く暇があるなら、遅れずについてきなさい」
不満もあったが、エリナには弱みを握られてしまった。逆らったら、スレイ部はおろか、学園に居場所がなくなってしまう。
レイジは黙ってついて行く。
エリナが廊下を歩くと、誰もが振り返った。
続いてレイジを見る。憧れに輝く目が瞬時にどんよりと曇った。
二人組の女生徒がひそひそと話している。
「あれは誰なの?」
「生徒会じゃないわ。私、役員はみんな知っているもの」
「ますます誰なのよー。気になるー」
「でも、エリナ様にあんなに近づいて……」
「親しいのかしら。ぱっとしない男よね」
「もっと離れて歩くべきだわ。エリナ様に臭いが移りそう」
「そこまで貶さなくても。でも、そう言われると捨て犬がついて歩いてるように見えてきたわ。お腹すいたよーって」
「ぷ、くすくす。あんたが一番酷いわよー」
一緒に歩いているだけなのにこの言われよう。生まれてきてごめんなさい。
エリナが立ち止まる。
「あなた方」
二人組は突然かけられた声に、小さく歓声を上げた。顔がぱっと明るくなる。
「わたくしの友人がどうかしまして? 粗相があったのなら、この場で謝罪させますわ」
「あの、いえ、その……」
二人の表情が一変する。
一人はエリナの様子を窺がった。言葉は丁寧だが、彼女が気分を損ねているのは明らかだ。耐えきれずに目を逸らすと、この場を切り抜けてくれないかと隣の友人を祈るような目で見た。
その友人は口ごもるばかりでまともに話せない。
「何もないのでしたら、いいのです。ですが、言葉には慎みを持ちなさい」
二人はしゅんと俯いてしまった。一人は今にも泣きだしそうだ。
レイジたちが横を通り過ぎるとき、微かにごめんなさいと聞こえた気がした。
「エリナ、あそこまでしなくても。俺は気にしないよ。言わせておけばよかったんだ」
「堂々としていなさい」
エリナが小声で言う。
レイジはエリナに嫌われていると思っていた。だが、それは誤解だ。
彼女は単に厳しいのだ。
エリナがレイジをここでかばっても何の得にもならない。レイジの言うとおり、言わせておけばよかった。
だが、エリナはそれを許さなかった。彼女の厳しさは平等だ。他人にも、そして自分にも。
「ありがとう」
エリナはふんと顔を逸らす。
「お礼を言われるようなことは何もしていませんわ」
エリナが立ち止まる。『生徒会室』と書いてある。
中はちょっとした会議室のようで、コの字型に長机が並べられていた。その空白の部分を埋めるように机とセットになった登壇があり、その後ろにホワイトボードがあった。
普段の会議が目に浮かぶようだ。エリナはここに立って、役員を指揮しているんだろう。
長机の上には大量の紙束が置いてあった。いくつかに分けて置いてあるが、積み重ねたら一メートルは超えそうだ。
「まさか資料整理をしろって?」
「六号にそんな大事なことを任せられるわけがないでしょう!」
「じゃあ、なにさ」
「今から、この資料を各部活に配りに行きます。あなたはこれを持って、私についてくるのですわ」
「これ、全部?」
「当然ですわ。部活動は本棟だけでなく、敷地内のあちこちに部室を構えていますのよ。移動してから、あれがない、これがない等と言われても困りますわ」
「他の生徒会役員にも手伝ってもらおうよ」
「彼らの手が空いているなら、わざわざ六号に頼みませんわ……」
「それもそうか」
エリナがため息をつく。
「どうして六号は納得しないと動けないのでしょう。手間がかかって仕方がありませんわ。ですが、それがスミカ様の心を動かしたのかもしれませんわね」
どういう意味だろう。
「他に質問はありますの?」
「特には」
「なら、行きますわよ」
レイジは資料を積み重ね、両手で持った。
吹けば飛ぶような紙も、こう重なっては凄まじい重量だ。そして前が見えない。
レイジはよたよたと左右に動いた。紙タワーが崩れそうになる。だめだ、バランスを維持できない。
「あわわ」
――こうして塔は崩壊し、人類はバラバラになった。共通の言語を失った。
謎の渋いナレーションが頭に流れた。
「情けないですわね。少しはわたくしが持ちますわ」
エリナが支え、塔が安定する。
目の前を塞いでいた紙束がいくらか取り除かれる。ふっと微笑むエリナが見えた。




