5.最初の依頼
夏目さんと定食屋さんで夕食を共にした日から数日後――。
「理桜ちゃん、急に呼び出して悪かったね……」
「いえっ、大丈夫です」
「理桜ちゃんはどれにする?」
彼はドリンクメニューを開いて、私の目の前に置いてくれた。
――あっ、このピーチティー美味しそうっ。ん? こっちのマスカットティーも捨てがたいっ。んー、やっぱり、ピーチティーにしよっ。
「決まった?」
「はい」
彼はこちらを見て、にっこり微笑んでいた。
――夏目さん、今日もスーツ姿だ。平日の午後だし、もしかして仕事を抜け出して来てるのかな?
彼は片手を上げてカフェの店員を呼び、2人分のオーダーをすると、さっそく本題に入った。
「今日、理桜ちゃんに来てもらったのは先日のメール代筆の件について返事を聞こうと思ってね」
「――はい」
夏目さんから呼び出された理由は分かっていた。メールではなく、直接会って返事を聞いてくれる彼に、今まで以上の好感を抱いた。
彼からの提案は突然で最初こそ困惑したが、改めて自宅で考えた時、私にとってこの上ないチャンスだと感じた。彼が言うように、私が起業したところで、安定的に依頼主が見つからなければ、安定した収入は得られない。すぐに今の生活を手離さないといけなくなる。
でも、彼の提案を受けて、彼のお試しの依頼をクリアできれば、彼が起業のサポートをしてくれる。これまで依頼されたメールの代筆は彼のアドバイスで成功した。彼のサポートがあれば、私でも起業を成功させられるかもしれない。
何より、自分が考えた文章が誰かの役に立ったり、誰かの心を動かしたり、誰かと誰かの架け橋になったりしたら、こんなに幸せを感じられる仕事はない。
他力本願すぎなところは否めないが、藁にも縋りたい今の私にとって彼の提案は魅力的すぎる。私にとってまさに希望の光だ。
ただ、気になるのは彼の方。彼が私の起業をサポートすることに、何のメリットがあるのだろうか? それとも、ただ困っている人を助けたいっていう人柄の良さからくるものなのか……。
とはいえ、まだ起業をサポートしてくれると決まった訳ではない。彼の依頼、言わばテストのようなものだ。疑問は私の起業をサポートしてくれるとなった時に、彼に理由を尋ねてみればいいだろう。
「どうかな? 決心は固まった?」
「はいっ、夏目さんがくださったチャンスなので、ぜひ挑戦させてくださいっ」
「――うん、理桜ちゃんなら、きっとそう言ってくれると思ったよ」
「……」
「それで、依頼したいメールの代筆についてだけど、全部で3通。1つは既存文章を添削する形で、記載内容は変えずに文章を整えてもらいたい。次は、既存文章に手を加えて完成させてほしい。いずれも、送る相手の個人情報や伝えたいメッセージなどの資料はこちらから提供するよ。
そして、最後に依頼するのはゼロからの作成。メールを代筆するにあたって、こちらから提供できる資料はない。もちろん、どんな内容のメールを作成してほしいかの指示は俺からするつもりだよ。
ひとまず、最初の2通の代筆を依頼したいと思う。3通目は2通の仕上がりを見てから、依頼するかどうかを決めるつもりでいる。それで、メール代筆の期限だけど、最初の2通は2週間でお願いしたいのと、報酬については全ての成果物を確認させてから決めさせてもらいたい。ここまでで分からないことや確認したいことはある?」
――依頼されるメールの代筆は全部で3通。1つ目は基礎的な文章力やメールのマナーを試すための依頼、かな? 2通目は、基礎的な文章力に加えて、表現力を知るためってことだよね。この2通については資料が提供されるから、それを元にメールの文章を作成すれば問題なさそう。
でも、3通目は全く違う。元の文章もない、ゼロからの作成が必要。文章の構成からメールの落としどころまで、全てを自分で考えないといけない。これは私の能力がどれほどなのかを試すものだ。そのうえ、提供される情報は夏目さんから教えてもらえる内容だけ。
その情報量がどれくらいあるのか、場合によってはほとんど情報らしい情報がないかもしれない。そんな状況で、私はメールの代筆なんてできるのかな……。ううん、だとしても、せっかく夏目さんがくれたチャンスだから、結果はどうであれ、最後までしっかりやりたい。
「いえっ、ご依頼内容については分かりました。まずは最初の2通からやらせてくださいっ」
彼は微笑みを浮かべ、頷いて応えた。すると、座席の隣に置いていた黒のビジネスバッグからレール式クリアホルダーを2つ取り出し、目の前のテーブルの上に並べた。
「こっちが1通目の資料で、これが2通目の資料」
「中身を見てもいいですか?」
「どうぞ」
話の切れ目に、オーダーしたドリンクが運ばれてきた。彼の前にはブラックコーヒー、私の目の前にはハート型のストローが入ったピーチティーが置かれた。
手元の資料を濡らさないよう注意しながら、ピーチティーを一口味わった。爽やかな紅茶の華やかな香りの後に、甘く熟れたピーチのフレーバーを感じた。
「理桜ちゃんは紅茶が好きなの?」
「はいっ、コーヒーよりも断然、紅茶の方が好きなんですっ」
「公園でも紅茶を飲んでたね」
「――実は、コーヒーは体質に合わないみたいで、避けているんです」
「そうなんだ、俺、コーヒーだけど、匂いとかは平気?」
「はい、コーヒーの香りは大丈夫なので、お気になさらず……」
「それなら、良かった」
――夏目さん、本当に気遣いのできる人だなぁ。私が紅茶ばかり飲んでいるって気づいたり、コーヒーが苦手だと言うと匂いのことを気にかけてくれたり……。ん? 私ったら、今は仕事の話をしてるんだからっ、ちゃんと資料に集中しなきゃ。
「どう? 分からないこととかあるかな?」
「いえっ、分かりやすく纏めてくださっているので、大丈夫です」
「それは良かった。もしも作業中に分からないことがあれば、メールをしてくれればいいから。できるだけ早く返信するつもりでいるけど、仕事の状況もあるから、遅れる場合は期限を延ばすよ」
「はい、分かりました」
彼はコーヒーを飲み終えると、ビジネスバッグと注文票を手に取り、立ち上がった。
「この後、用があるから、これで失礼するよ。会計は済ませておくから、理桜ちゃんはもう少しゆっくりしてって」
「あっ、はい……夏目さん、ごちそうさまです」
「うん、ちゃんと覚えてくれてたんだね。じゃあ、理桜ちゃん、頑張って」
「はいっ……あのっ、夏目さん、私にチャンスをくださって、ありがとうございますっ」
彼はにっこり笑んでから、片手をひらひらさせて会計に向かった足でカフェを出て行った。
「ふぅ~、緊張したぁ。夏目さん、いつもと雰囲気が違った……。やさしいのはいつもと一緒だけど、今日は仕事モードって感じだったなぁ」
――それもそうか、私が受けたメールの代筆は今後の私の人生を左右する最初の仕事とも言える訳だし。真剣に向き合うって意味ではこれまでと変わらないけど、今回は今まで以上に気を引き締めてかからないとね。
店内には心地のいいBGMがかかっていて、お客は私を含めた3人。1人は男性客で、店の奥の席でノートパソコンとにらめっこしている。時々、カタカタとキーボードを叩く音がした。もう1人は窓辺のカウンター席に座っている若い女性で、スマホをじっと眺めていた。
静かで長くいてもリラックスできそうな雰囲気のいいカフェ。手元の資料をじっくり確認したいのと、せっかく外出したのに帰るのはもったいないという思いから、次はマスカットティーとシフォンケーキをオーダーした。
――注文すれば、もう少し長居しても大丈夫だよね……。
手元の資料の表紙を捲った。その資料には添削するメールの元文章が記載されていた。
『件名:商品A納品遅延のお詫び
〇〇株式会社
赤井様
いつも大変お世話になっております。
株式会社◎◎の黒井です。
お問い合わせいただいた商品Aですが、納品が遅れており、大変迷惑をおかけしております。
本来なら7月3日にお届けする予定でしたが、当社の新入社員のミスによりこのような事態になりました。
深くお詫びいたします。
すぐに手配し、本日16時までに弊社へ納品される予定です。
商品が到着しましたら、貴社へ直接お届けさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
今後、このようなことが二度と起こらないよう、当社の社員に厳しく指導していく所存です。
何卒ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます。』
テーブルに運ばれたマスカットティーを2口啜り、シフォンケーキを1口大にカットして口に入れる。マスカットティーはマスカットの爽やかな後味が口内に広がった。シフォンケーキはふわりと柔らかく、アールグレイの芳醇な香りが気分を上げてくれた。どちらもとても美味しかった。
マスカットティーとシフォンケーキを味わいながら、横に置いたままの資料の中身をじっくり確認する。
――パッと見た感じ、問題のなさそうな社外向けの謝罪メールだけど……。1通目はメールの内容は変更せずに、必要なところだけを修正するのよね? だとしたら、相手が不快になりそうな軽微な言い回しを変更するだけで良さそう。
それにしても、このメール……本物なのかな? だとしたら、このミスをした新入社員に同情する……。このメールを取引先の担当者に送った人、自分では責任を負わず、全部新入社員のせいにしてるもの。これって、会社として、上司として、人として、どうなんだろう?
その時、ふと自分の黒歴史の1ページに刻まれた、前職の上司を思い出した。
――あの上司、何かと私につっかかってきて、まともな仕事をさせてもらえなかった。
前職では手を抜くような仕事はしなかったし、誰よりも早く来て、遅く帰った。もちろん、労働時間の長さがその人の優秀さを表す訳ではない。だが、自分なりに頑張ってきたつもりだった。
それなのに、あの上司は容姿だけが取り柄の新入社員の子に重要な仕事を任せた。まともな仕事をしたことのないあの子が問題を起こすのは分かっていたはず。いざ問題が起こった時は全て私に責任をなすりつけた。
――あー、思い返すだけで腹立たしいっ! やめやめっ、あんな最低な人間に腹を立てるのは時間と労力のムダだもの……。
夏目さんはどうなんだろ? 年齢も分からないけど、あの雰囲気もそうだし、この完璧な資料を見ても、仕事ができるのは確定だ。かなり上のポスト――管理職――であっても不思議じゃない。何度か話しただけだけど、夏目さんはきっと部下にも同僚にも親切で、上司からは好かれていそう。
そんなことを考えながら、手元の資料を放ったまま、マスカットティーとシフォンケーキを味わっていた。




