1.レクチャー(後)
本日、2本目の投稿です。
「それは、どんな方法ですか?」
「――別に、メモを取るほどのことじゃないんだけど……まぁ、いいか。君は、誰かを好きになったことはある?」
「わ、私ですかっ? 私は……片想いなら……」
「うん、じゃあ、好きな人を想う喜びとか辛さは分かるよね?」
「――はい……」
「でも相手がいる恋愛となると、喜びと辛さだけでなくて、相手に執着したり、独占欲が湧いたり、自分の幸せよりも相手の幸せを願ったりすることがあるんだ。時には相手が異性と楽しそうに話していると、嫉妬して、思ってもないことを言って相手を傷つけてしまうこともある。一方で、連絡するのが面倒だと思ってた人が、恋人にはマメに連絡を取るようになることもあるんだ。
つまり、恋愛感情には光と影の両面が存在するってこと。相手との関係が良好な時はポジティブな感情で心が満たされる。一方で、相手との関係が悪化すると、自分でも抑えきれないほどネガティブな感情に襲われるんだよ。
まぁ、本気の相手となると、良くも悪くも感情を制御できなくなる場合もあるんだけどね……」
――なるほど、恋愛をしている人はそんな複雑な想いを抱えているのかぁ。これは……何というか、私の片想いの経験すら、役に立たなそう……。
「俺が今話した中で分からない感情や理解しがたい感情はある?」
「――そう、ですね……相手に執着する気持ちとか、独占欲とか、嫉妬? それとっ、本気の相手になると制御できなくなる感情とか、でしょうか?」
「――そうだよな。片想いの経験だけじゃ、本当の意味で味わうことのない感情だね。そうだな……例えば、執着する気持ちだけど、一般論として、『もうこの人しか見えない!』『この人は運命の人だ!』みたいな感じって言えば分かるかな?」
「…………」
「あー、いきなりハードル高かったかな? そうだなー」
――とても申し訳ない……。片想いしか経験がなくて、恋愛感情ってものがよく分からない。それにしても、この人は何で、見ず知らずの私の話をここまで真剣に聞いて向き合ってくれるんだろう?
「じゃあさ、こうしよう。君が好きなもの、好きなことを教えてよ」
「好きなもの、ですか?」
――うーん、急に言われても、パッと思いつかないんだけど……あっ、そうだ。アレなら。
「好きなもの、ありました」
「何?」
「文章を書くこと、本を読むこと、です」
「――ぷはっ」
私の答えを聞いた彼は突然、吹き出した。それはそれは爽やかな笑い声で、うっすらと目ジワを寄せて笑う彼の横顔に魅入ってしまった。
「ごめん、ごめん……君は本当に文章を書くことが好きなんだね。でも、そうだな、恋愛感情に置き換えるのは少し難しそうだ……くっくっくっ」
――恥ずかしいっ、私、答えを間違ってしまったみたい……。また、笑ってるし……。考えろっ、私っ! 好きなもの、好きなこと……。
ようやく笑いがおさまった彼は元の穏やかな表情に戻り、話し始めた。
「分かったよ。それなら、文章を書く時の気持ちを恋愛感情に置き換えて考えてみようか」
「そんなこと、できるんですかっ?」
「うん、例えば、そうだな……もしも、この世からパソコンや紙、文字を書くものが全て消えてしまったら、君はどんな気持ちになる?」
「文字を書くものが消えたら……」
――文字が書けなくなったら、文章も書けなくなる……私から文章を書くことを取ったら、他に何もなくなるっ。
「文章が書けない世界になったら、私は絶望すると思います……」
「うん、そうだろうね。でも、その世界には絵を描く道具はあるよ?」
「――私は文章が書きたいんです。絵を描く道具があっても、見向きもしないと思います」
「そう、それだよっ」
「えっ?」
「今のその気持ちが『執着』だよ。執着っていうのは『他のものじゃ代わりが利かない』『これがないと生きていけない』っていう気持ち。今の君にとって文章を書くことを奪われるのは嫌だって気持ちは、恋愛に置き換えると、『好きな相手を失いたくない』っていう執着心からくるものなんだよ」
「――! 少し、分かった気がします……」
「うん、じゃあ、次は独占欲だね」
「はいっ」
「ねぇ、そのペンを貸して」
「これですか?」
「うん、そう」
私は彼に言われるままに、お気に入りのペンを手渡した。
「このペン、気に入ったから俺が貰うよ」
「えぇっ! ダメですっ、それは私のお気に入りのペンなんです。返してくださいっ!」
「はい、どうぞ」
「へっ?」
「今、俺が君のペンを奪おうとして、どう感じた?」
「――とても不快な気分になりました。そのペン、私のお気に入りなんです。だから、奪われそうになって、頭に血が上って、奪い返そうと必死になりました」
「それっ、それだよ。今、君が思ったことが『独占欲』だ。俺は君のお気に入りのペンを奪った。君はペンが奪われたと知って、奪い返そうとした。それはつまり、このペンに強い執着があるのと同時に、自分のものにしておきたいという独占欲に支配されていたってこと」
「――私にもそんな感情が……!」
すぐさま、忘れないうちに湧き上がった感情をメモ帳に書き記した。一通り書き終えると、待っていたように彼は口を開いた。
「次は、嫉妬だね。もしも、君が書いた文章より優れた文章を書く人が現れたら、君はどう思う?」
「私より優れた文章を書く人が現れたら?」
――うーん、世の中には私よりも優れた文章を書く人はたくさんいるし……。いまいちピンとこない気がする。
「ちょっと例えが悪かったかな? じゃあ、君が表現し難い言葉をいとも簡単にスラスラと書く人がいたら、君はどう思う?」
「――」
――私が書きたくても書けない文章を、簡単に書いてしまう人がいたら……。きっと私は自分が酷く劣った人間に思えてしまう。それに、その人のその才能が欲しい、羨ましいと感じるかも……。
「たぶん、その人と自分を比較して、自分のことが情けない、劣っていると感じると思います。それに、その人のその才能が羨ましいし、私もその才能が欲しいです」
「それっ、まさにそれが『嫉妬』の感情だね。恋愛をしてる時って相手を独占したい気持ちが強まるから、相手に異性の影が見え隠れしただけで、その異性に嫉妬することがある。その異性の外見や地位、置かれている環境が自分よりも上だと感じた場合や、相手との関係性が自分よりも深いと感じた場合、嫉妬の感情は強まる。
例えば、『もっと顔が良かったら』『年収が高かったら』『名家に生まれていたら』って言うようにね」
「あの、嫉妬は相手ではなく、相手のそばにいる異性に対して湧く感情なんですか?」
「うーん、そうだなぁ。場合によっては相手に向くケースもあるかな。例えば、恋人が自分以外の異性を優先してると感じる場合かな。恋人のSNSに元恋人とのやり取りや画像が残っていると知った場合、とかね」
「――それは、上司が適任である自分ではなく、ごますりのうまい後輩に仕事を与えた時に感じる感情と一緒でしょうか?」
「――――うーん、それは……遠からず、かなー」
――今、私、思いっきり外した? 場違いな回答、しちゃった? はぁー、恋愛感情って難しいんだなぁ。
「まぁ、こんな風に自分の好きなものを奪われたり、失いそうになったりした時に湧く感情を恋愛のケースに置き換えてみたら、少しは君の友人の気持ちに寄り添えるんじゃないかな?」
「――あの、あなたは本気で誰かを好きになったことがあるんですか?」
「――――」
彼は私から視線を逸らして、正面の池をじっと見つめていた。その表情は今までの穏やかな顔から一変して、真剣な表情だった。
「どうだろうな、それはノーコメントと回答しておこうかな……」
そう答えてこちらを見て笑う彼の顔は少し引き攣っている気がした。彼の表情から、触れてはいけないことに触れてしまったと感じ、それ以上は聞かないようにしようと思った時だった。
「――本気で誰かを好きになると相手のことばかり考えて、周りが見えなくなるらしい」
彼は池に向かって独り言を言うように、話を続けた。
「何を差し置いても相手のことを最優先に考えたり、180度人が変わったように、面倒だったことも楽しくなったりする……。どんなに疲れていても、一目見れば疲れも吹っ飛ぶし、喧嘩をしても放置しないでお互いに納得するまで話し合う、かな? あくまでも一般論だけどね……」
――最後の言葉の時だけ、寂しそうな表情をしていた。きっと、この人は本気の恋愛を経験したのかも……。もしかして、その人とはもう……。
「まぁ、そんなところかな? どう? 何となく恋愛感情、掴めそう?」
「――はいっ、お陰様でっ! 1人で考えていた時よりも前に進めそうです」
「そうか、良かったね。じゃあ、俺はそろそろ行くよ」
彼はベンチを立ち上がると、こちらを振り向かずにスタスタと歩を進めた。
彼にお礼を言っていないことに気づいて、小さくなった彼の背に慌てて声をかけたが、彼の耳には届かなかったようだ。彼の背は見えなくなっていった。
「お礼言いそびれちゃった……」
「理桜、つまり、こういうこと? 公園で出会った見ず知らずの男から、身近な好きなものに対する感情を恋愛感情に置き換える方法を教えてもらった」
「うん、そうなの……。あっ、勝手に陽菜ちゃんのこと話してごめんなさいっ!」
「――それは別に構わないけど。ねぇ、理桜? もしかして、その彼のこと……」
「えっ、ち、違うよっ! 私と彼はそんな、陽菜ちゃんが考えるような関係じゃないよっ」
「私、まだ何も言ってないけど? 何を想像してたの?」
「えっ!」
「ほらっ、理桜もその彼のこと、気になってるんじゃないの? その彼、イケメンだったんでしょ?」
「そ、そんな訳ないよっ。だって1回しか会ってないし、それに、彼には本気で恋愛をしてる人がいるみたいだし……。私は彼に対して何の感情も湧いてないからっ」
「――まぁ、理桜がそう言うなら……」
彼女はそれ以上、彼について追求してくることはなかった。その後は、大学時代の懐かしい想い出話や、櫂さんとの話をして盛り上がった。
お昼過ぎに待ち合わせたのに、時間はあっという間に過ぎていて、外を見ると日が沈みかけていた。彼女は自宅に戻ってから櫂さんにメールを送ると言ったため、2人だけのお茶会はそこでお開きとなった。




