15.一夜を明かして
――まさか、本当に樹さんのマンションに泊まることになるなんて……。でも、勘違いしちゃダメだ。これは明日ベッドを受け取るためであって、樹さんは仕方なく私を泊めるだけなんだからっ。
お風呂から上がり、今日買ったばかりのスキンケア用品を開封して使用した。
「肌の奥まで瑞々しくなった感じがする。凄い浸透力……さすが高級品だ」
洗面室をぐるりと見回すと、モデルルームのようにどこもかしこもピカピカだった。お風呂に入る前は他人のお風呂を借りる緊張で気づかなかったが、男性の一人暮らしにしては綺麗すぎる位だった。
「どの部屋も掃除が行き届いてて整理整頓されてるなぁ。樹さん、忙しいのに家のこと全部一人でやってるのかな? それとも、誰か……!」
――それはないか。もし樹さんに恋人がいるなら、私に偽の婚約者なんて頼まないだろうし、簡単に私を泊めないはずだものね。
鏡に映ったパジャマ姿の自分を見て、絶句した。自分が着るのを想定せず、可愛いというだけで露出度の高いものを選んだことを今更ながら後悔した。
――ついついデザインだけで選んじゃったけど、上はキャミソール風のデザインで、下は太腿が辛うじて隠れるくらいのショートパンツだし……。露出高すぎじゃない! 1度も着ることがないと思ったから、自分が着た後のことを考えてなかったっ。どうしよう……こんな姿で樹さんの前に出るの、恥ずかしい……。
洗面室から出るのを躊躇していると、ドアをノックする音が聞こえた。
「理桜? 随分長いけど、大丈夫?」
――樹さんっ? あ、私の入浴時間が長いから心配して様子を見に来てくれたんだ。でも、今ここでドアを開けるのはまずい……!
「あっ、大丈夫です! すぐに出ますからっ」
「――大丈夫なら良かった。急がないからゆっくりでいいよ。俺は自分の部屋から明日の着替えとか出してるよ」
「はいっ、分かりました」
――ふぅー、一先ず今は何とか鉢合わせを逃れられたけど、この後はどうしよう……? 今、樹さんは自分の部屋で明日の支度をしているし、今行ったら、間違いなくこの姿を見られちゃう。こうなったら、自分の部屋に一時退避して、樹さんがお風呂に入った後に彼の部屋に移動する? うん、この手しかないよね。
万が一、彼に鉢合わせした時に備えて、棚からバスタオルを1枚取り出した。
――バスタオルがあれば最悪足を隠せる。
スキンケア用品と脱いだ着替えを両手に抱え、足音を立てずに自分の部屋へ移動した。
「はぁ~、良かった。樹さんと鉢合わせせずに部屋まで来れた。後は樹さんがお風呂に入るのを待つだけ」
彼が用意してくれた私の部屋は鏡台とクローゼットだけがある。明日には今日買った新しいベッドが入り、その後には仕事用のデスクとチェア、ノートパソコンも設置される。全てが収まったこの部屋で暮らすことができたら、どんなに幸せだろうか。そんな夢のような妄想を頭の中で繰り広げていた時、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。
「理桜? 部屋にいるの?」
――樹さんっ! 早く何か答えなくちゃ……。
「――はいっ、すみません。お風呂お先にいただきましたっ! 樹さんもゆっくりお風呂に入ってください」
「――そうだな……そうするよ」
彼の足音がドアから遠ざかっていったのを確認し、恐るおそるドアを開けた。ドアの前にも廊下にも彼の姿はなく、バスルームからザザーッとシャワーが流れる音がして、ようやく警戒心を緩めることができた。
「よしっ、今のうちに」
バスタオルとスマホを手に持ち、リビングに隣接する彼の寝室へと向かった。
彼の寝室にはクイーンサイズの大きなベッドが中央に置かれ、ナイトテーブルが横に並べられていた。寝具はグレー一色で統一されており、背の高いヘッドボードには枕以外にクッションも並べられている。
部屋の奥には布団2組を横並びにして敷けるほどの広いウォークインクローゼットがあった。
「ベッドだけ……クローゼット、広っ!」
――それもそうか……ここは彼のマンションで、持ち帰った仕事はリビングでもできるものね。樹さんは、この部屋で毎日寝てるんだ……。
「そういえばお風呂から上がって水分摂ってなかった……樹さんはまだお風呂だし、今のうちにお水でも持ってこよっと」
寝室のドアを開けてキッチンで水をグラスに入れ、一気に飲み干した。
「ぷはぁ~、生き返るぅ~」
その時、バスルームの方から内扉が開いた音が聞こえてきた。
「あっ、もう上がるんだっ、急いで部屋に行かなきゃ……!」
慌ててグラスに水を一杯入れて持ち、彼の寝室へ戻った。ドアを閉めてすぐに、彼が廊下を歩く足音が聞こえてきた。すると、足音は寝室のドアの前で止まり、思わず息を飲んだ。ドアを隔てた部屋の外には彼が立っている。それを想像しただけで全身が固まってその場から動けなくなっていた。
彼の足音は少しずつ遠ざかっていき、すぐに冷蔵庫の扉を開け閉めする音が聞こえてきた。缶のプルタブを開ける音がドア越しに聞こえ、ようやくホッとすることができた。
――ふぅ~、緊張したぁ。ドアの前で足音が止まった時はどうしようかと思った。樹さん、私に何か話でもあったのかな? 明日のこと? それとも他のこと? 何かあれば話かけてくるよね、きっと。
そうだ、このまま寝ちゃえば、このパジャマ姿を見せずに済むよね。よし、さっさと寝ちゃおう。
ベッドに入ったところで、寝室のドアをノックする音がした。
「理桜? 中にいる?」
――ど、どうしようっ。どうする? 寝たふりする? でも、何か大事な用だったら……。
「――あっ、はい。今、ベッドに入ったところです」
「――――理桜、悪いんだけど、スマホの充電器を部屋に忘れて、取りたいんだけど……」
――何だぁ、充電器を取りに来ただけか……それなら、布団の中にいればパジャマは見えないから大丈夫だよね。
「入ってもいいかな?」
「あっ、はいっ、大丈夫ですっ」
彼がゆっくりとドアを開けて、寝室の中へ入ってきた。中へ入ってきた彼と目がばちりと合った。彼は、首まで布団を被せて顔だけを出している私をじっと見てから、目を逸らした。
「――ごめん、充電器だけ取ったらすぐに出てくから……」
彼は室内を見回し、充電器を探しているようだが、目的の物は見つからない。
布団の中で左手を動かした時、何かが手に触れた。その何かを手繰り寄せると、感触から配線か何かのように思えた。
――もしかして……!
手に触れた物を布団から出すと、やはりスマホの充電器だった。
「樹さん、充電器って、これですよね……」
彼は私の言葉を聞いて、ベッドへ視線を向けた。
「あー、そこにあったのか。理桜、それちょうだい」
彼はベッドのそばに近寄り、片手を差し出している。
「樹さん、どうぞ」
充電器を持った手を彼に差し出すが届かず、上半身を起こして膝で立ち、手を伸ばしたところでようやく彼に手渡すことができた。
「――――ありがとう……じゃあ、俺は……」
充電器を受け取った彼はこちらに背を向けて寝室を出て行こうとした。ドアの前で彼の足はぴたりと止まった。再び、彼がこちらを向いた。
「理桜、そのパジャマ、可愛いよ。似合ってる……俺もお揃いのを着れば良かったな。じゃあ、おやすみ。明日はよろしくね」
「…………!」
寝室のドアはパタンと閉まった。
彼が何を言っていたのか分からず呆然としていたが、自分の姿を見て、その理由がすぐに分かった。彼に充電器を渡すのに膝で立った時に、首まで覆っていた布団がベロンと捲れてしまっていた。
――ぱ、パジャマ姿見られたっ! しかも樹さん……可愛いって、似合ってるって……!
入浴後から必死に露出度の高いパジャマ姿を見られないように気をつけていたが、その努力は呆気なく水の泡となって消えた。
――樹さんはお揃いにすれば良かったって言ってたけど、下着みたいな私のパジャマ姿を見ても嫌じゃなかったのかな? こんな姿を見て、迷惑じゃなかったかな? もしかして……あまりに貧相な体すぎて、同情で褒めてくれた、とか? だったら、尚更、恥ずかしいし、情けなさすぎるっ。
その夜は寝付くまで、随分と時間がかかってしまった。
「ベッドの搬入とマットレスの交換が終わりましたー。ここにサインいただけますか?」
「はい」
自分のフルネームをサインすると、運搬業者の人はマンションを出て行った。
ベッドが搬入された自分の部屋に入ると、ベッドフレームの木の匂いが鼻腔を掠めた。
「さてと、布団とシーツ、枕をセットしないとね」
床には圧縮された布団と枕、シーツ一式が大きな袋に入れられたまま置かれていた。
ベッドメイクが終わった頃、乾燥機の音が乾燥終了を告げた。
私が起きた時にはすでに彼の姿はなく、リビングは静まり返っていた。ふと視線を落とした先のテーブルには、メモと鍵が置かれていることに気づいた。
『理桜、おはよう。俺は仕事に行くけど、ベッドとマットレスの受け取り、頼むね。夕方には帰れるから、今日のお礼として食事に付き合って。この部屋で待ってて。一応、マンションの鍵は置いておくよ』
「今夜も樹さんと食事を? 昨日は樹さんにご馳走になったし、今日も食事をご馳走になるのは……そうだ、今日は私がご飯を作ればいいんだ。幸い、マンションの鍵を置いてってくれたし、これなら買い物に行ける!」
乾燥機にかけたタオルを畳んで元の場所に戻し、寝具は彼のベッドにセットした。今朝まで来た自分のパジャマは自分の部屋のクローゼットへ、彼が昨夜着たTシャツと短パンは折り畳んで彼のベッドの上に置いた。
キッチンのシンクを見ると、昨夜置いておいたペアのマグカップは彼が洗ってくれたようだ。食器置きに並んで伏せて置かれていた。
――樹さん、ペアだって気づいたかな? 横に並んでるし、きっと気づいたよね。嫌じゃなかったかな? パジャマだってお揃いだし、大丈夫だよね……。きっと大丈夫! よし、何を作るか決めて、買い出しに行かないと。
「あっ、そうだ。食事を作って待ってるって連絡しておかないとね」
夕食のメニューを決めて、近くのスーパーへ買い出しに行ったのはいいが、思ったよりも荷物が多く、歩きなのもあってマンションへ帰るのに時間がかかってしまった。
「樹さん、夕方には帰るって言ってたからな。今、16時半か……間に合うよね。よしっ、急がないとっ」
玄関ドアを開けると、慌てた様子で靴を履こうとしている彼がいた。
「樹さんっ、もうお帰りだったんですねっ」
「――理桜……はぁ~、買い物に行ってたのか……」
「はいっ、昨日は樹さんが夕食を用意してくれたので、今日は私が何か作ろうと思って……スーパーまで結構距離があって、買った物も重くって、帰って来るのに時間がかかっちゃいました……樹さん、どうかしましたか?」
彼は履きかけていた靴を脱ぎ、床に両足を下ろした。
「どこかへ出かけるところだったんですか? もしかして、お仕事ですか?」
「――いや、帰ってきたら理桜の姿がなかったから。電話も出ないし、何かあったのかと思って……」
「えっ? お電話くれたんですか? すみません、買い物に夢中で気づかなかったみたいです」
「いや、無事ならいいんだ……。それで、今日は理桜が夕食をご馳走してくれるの?」
「はいっ。あっ、でも、すみませんっ。私、樹さんのご都合も聞かずに勝手に……」
「それは問題ない。仕事も片付いたし、今夜は理桜と食事する予定しかないから」
「それなら、良かったです」
「重かったろ? 中まで運ぶよ」
「あっ、ありがとうございます……」
彼は両手に持った買い物袋を軽々と持ち上げ、キッチンへと運んでくれた。
「何か手伝うよ」
彼はスーツのジャケットをリビングのソファにかけ、Yシャツの袖を捲っていた。
「1人で大丈夫ですよ。樹さんはお仕事で疲れてるんですから、座ってゆっくりしていてください」
「――じゃあ、そうさせてもらうよ」
彼はソファに置いたビジネスバッグとジャケットを持ち、自室へ入っていった。
自室から出てきた彼はリビングのソファに両足を乗せて、肘置きを枕代わりにして横になった体勢で本を読んでいる。
BGMもなく、静まり返った室内だが、その沈黙は居心地の悪いものではなく、不思議と心地良さを感じた。
「樹さん、お待たせしました。ごはんできましたよ……?」
彼の返事はなく、ソファの背もたれ越しに彼の顔を覗くと、仕事で疲れていたのか、彼は瞼を閉じてスース―と静かな寝息を立てていた。
――あっ、樹さん、寝ちゃってる……。昨夜は私がベッドを占領しちゃったし、今日も朝早くから仕事で疲れていたんだろうな。もう少しだけ待って、起きないようだったら、今日は帰ろう。あっ、その前に、お風呂を沸かしておこう。
お風呂を洗ってお湯を張り、夕食の準備も整え、使った調理器具も洗い終わった。それでも彼はぐっすりと眠ったままだった。
――よっぽど疲れていたんだろうな。今日はこのままゆっくり寝てもらおう。夕食とお風呂の用意ができてることをメモに残しておこう。確か、玄関はオートロックだから、鍵を閉めなくてもいいんだよね。メモと一緒に鍵を置いておけば、樹さんもすぐに気づくよね。
キッチンの照明だけを灯し、リビングの照明を消した。自分の部屋のクローゼットに入っていた膝掛けを持ってきてそっと彼にかける。彼は起きる様子がなかった。
「樹さん、お疲れ様でした。明日はお休みですから、ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
彼に聞こえないくらい小さな声で囁き、マンションを後にした。




