13.仮初の婚約者
「理桜ちゃん、お待たせ」
昨夜、夏目さんと夕食を共にして、翌日のお昼前にいつもの池のある公園のベンチで彼と待ち合わせをした。
「夏目さん、こんにちは。昨日はご馳走様でした」
「こちらこそ、長々と引き留めてしまって悪かったね。それに、呼び出したのが昨日の今日で申し訳ない」
「いえ、私のことでもあるので、夏目さんが謝る必要はないですよ」
「そう言ってもらえると、俺も気が楽になったよ」
「……?」
「いや、体よく仮の婚約者だなんて不躾な提案をしてしまったからね……。確かに理桜ちゃんにもメリットはあるけど、無理強いしていないかと心配になってね」
「そんなことありませんっ! 夏目さんは私のことを一番に考えてくれてますし、仮の婚約者のことも、結局、私自身のためでもあるんです。私の方が、夏目さんに助けてもらってばかりで申し訳ない気持ちで一杯です」
「理桜ちゃん……、それなら、俺の婚約者役として期待してもいいかな?」
「はいっ、微力ながら、式部理桜、精一杯務めさせていただきますっ」
「ぷはっ……理桜ちゃん……あははは……」
また彼に笑われてしまった。恥ずかしくて顔の温度が急上昇したが、不思議と彼に笑われても嫌な気持ちは全くしなかった。
「さっそく今後のことを話し合いたいところなんだけど、その、気になって話に集中できなさそうなんだけど……」
彼の視線はベンチの中央に置かれたランチボックスに向けられていた。
「もう少しでお昼ですよね。まずはお腹を満たしてから話し合いをしませんか?」
「その提案に乗ったっ」
「くす……夏目さん、そんなにお腹が空いていたんですか?」
「いや……せっかく理桜ちゃんが腕によりをかけてお弁当を作ってきてくれると言うから、朝食を抜いてきたんだ。早朝にランニングをしたから、どうもお腹が空いてしまってね……」
「えぇっ、そうだったんですか? でも、運動をしたのに、朝食を抜くなんてダメですよ」
「理桜ちゃんの言う通りだね。でも、今日だけは勘弁してほしいな。昨日からずっと楽しみにしていたからね」
「……!」
――夏目さん……私のお弁当、そんなに楽しみにしてくれてたんだ……。お世辞でも、うれしいな。
「今日は唐揚げとしょっぱい系の卵焼き、味付きのおにぎりを作ってきました。お箸と冷たいお茶もどうぞ」
「あぁ、ありがとう。もしかして、俺が前にリクエストしたおかずにしてくれたの?」
「はい、約束を守れていなかったので……」
「気を遣わせてしまったね」
「いえっ、料理するのは楽しいんですけど、1人で食べるのは味気ないので。夏目さんが食べてくれるなら、作り甲斐がありますっ」
「――そう言ってもらえてうれしいよ。じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はいっ、多めに作ってきたので、たくさん食べてくださいね。あっ、でも、全部食べなくてもいいですからね、無理なく食べてください」
「あぁ、分かったよ、理桜」
「へっ?」
「だって俺たちは互いの婚約者になるんだから、呼び方も話し方も砕けていないと怪しまれるからね? だから、俺のことは樹と呼んで」
「い……いつき、さん?」
「理桜はもっとスムーズに呼べるように練習しないとね」
「――はい……尽力いたします……」
彼はやさしく微笑むと、唐揚げを1つ取り、口の中へ一口で入れた。
「うん、理桜、これ美味しいよ! いくらでも食べれそうだ。この卵焼きの味付けも丁度いい、俺好みだよ。こっちのおにぎりは何で味付けしてるの?」
「こっちが焼きおにぎりで、このしそで巻いてあるのがじゃことかりかり梅とゴマです。これは肉巻きおにぎりで、中身は生姜と白ごまの味付きごはんです」
「肉巻きおにぎりなんて初めてだよ……これは! 生姜の辛みと甘辛の肉が合うな。理桜は料理上手だな」
「夏目さんに喜んでもらえて良かったです」
「理桜、違うだろ?」
「へっ?」
「俺の呼び方」
「――あっ、えっと……樹、さん……」
彼は満足気な笑みを口元に浮かべ、次々とランチボックスを空にしていった。
「はぁ~、お腹が一杯だ。理桜が作る料理はどれも美味しいから、つい食べ過ぎちゃうな……これはランニング時間を増やさないとダメかもしれないな」
「えっ? なつ、樹さんはダイエットなんて必要ないんじゃ……」
「いや、今でこそ体を鍛えてるから締まっているように見えるけど、子どもの頃はぽっちゃりだったんだよ」
「えぇ? なつ、樹さんがっ?」
「うん、ウチの家系は割とぽっちゃり体型が多くてね。特別食べ過ぎていた訳じゃなかったから、たぶん遺伝じゃないかな」
「な、樹さんの子どもの頃の写真……見てみたいな……」
「――」
「あっ、私ったら変なこと言ってすみませんっ。今のは忘れて――」
「いや、子どもの頃の写真は実家にあるから、今度両親に紹介する時に見せるよ。ちょっと恥ずかしいんだけどね……」
「……!」
――えぇ! 実家? 両親に紹介? あ、でも、そうか。婚約者のふりをするってことは樹さんのご両親にも挨拶をしないといけないのか……。うぅ~、樹さんの子どもの頃の写真は見たいけど、実家となると……。
「理桜、そんな気構えなくても大丈夫だよ。ウチの両親はどっちも穏やかな人だからね、そんな緊張するような人たちじゃないからさ。それに理桜なら、きっと両親も気に入るはずだよ」
「――そう、でしょうか……」
――自分の両親は大丈夫。皆そういうけど、実際は嫁姑問題なんかが勃発して親子関係が悪化するケースもあると聞くから、ご挨拶する際は失礼のないように注意しなきゃ。
でも、こんなにやさしい樹さんのご両親なら、きっと悪い人じゃないよね? 樹さんのご両親ってどんな人なんだろう? ご兄弟はいるのかな?
「あの、樹さんはご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「いないよ。俺は一人っ子だよ。理桜は?」
「私は妹と弟が1人ずついます。妹は2つ下で、弟は4つ下です」
「3人姉弟の長女か、理桜らしいな」
「そう、でしょうか?」
「あぁ、責任感があって自分という芯がしっかりしているからね」
「……!」
「理桜、照れてるのか? 理桜は素直で本当に可愛いな」
「い、樹さんっ」
彼は終始にこにこして、いつもより上機嫌なように見えた。
お腹も満腹になり、空になったランチボックスを片付けると、池を眺めながらお茶を飲んでいた彼が、仮初の婚約者の件について話し始めた。
「理桜、それで婚約者の件だけど」
「はいっ」
「婚約者と言っても、そう肩肘は張らなくていい。理桜は普段通りでいてくれればそれでいいから」
「はい、分かりましたっ」
「くくく……まぁ、最初はそんなもんだよな」
――もうっ、樹さん、また笑ってるっ。私は樹さんの婚約者を演じるために真剣なのにっ!
「理桜は、むくれた顔も可愛いよ」
「な、何を……! もうっ、揶揄わないでくださいっ!」
「あははは、ごめん、ごめんっ。俺が悪かったよ、どうしたら機嫌を直してくれる?」
彼は謝罪をしているようだが、顔は笑ったままだ。
――いつも笑われっぱなしなんて、嫌だ。
その時、ふと頭に浮かんだのは公園そばに新しくできた小さなジェラート屋。
――そうだっ。ここはいつもと違う反応をして、樹さんを驚かせよう!
「それじゃあ、私の我儘を1つだけ聞いてください」
「――えっ、へぇ~、理桜の新しい一面が見れたな。理桜は俺にどんな我儘をせびるつもりなんだ?」
「うっ……!」
――ダメっ、ここで怯んだら、樹さんの思う壺なんだからっ!
「公園そばにジェラート屋さんができたんです。そこで瀬戸内レモンのジェラートを買ってきてください」
「――ふっ、そんな可愛いお願いでいいの?」
「か、可愛いっ? そ、そんなこと!」
「よしっ」
彼はベンチから立ち上がり、私の目の前に向き合って片膝を地面につけるようにしゃがみ込んだ。
「へっ? 樹さん?」
「婚約者殿の仰せの通りに」
「ちょ、ちょっと、待って――」
「瀬戸内レモンのジェラートだよな? 今買ってくるから、ここで待ってて」
「えっ、ちょ、樹さんっ!」
彼は立ち上がって、私が呼ぶ声に反応もせず、そのまま小走りで公園を出て行ってしまった。
――まさかっ、樹さんが本気にするなんて……。冗談のつもりだったのに……! これじゃあ、私がジェラートをただおねだりしただけじゃない……。
「はぁ~、樹さんには敵わないってことかぁ……」
「理桜、お待たせ、はいっ、レモンソルベだって」
「あ、ありがとうございます」
彼は鮮やかなイエローレモンのジェラートを私に差し出した。もう片方の手にはバニラらしきジェラートを手にしていた。
「こっちは塩ミルク。せっかくだから、別々の味にした。これなら、両方の味を楽しめるだろ?」
「そうですねっ。塩ミルクも美味しそうですっ! あっ、おいくらでした? レモンの方、払います」
「いいよ。これは理桜の機嫌を取るために買って来たんだから。それに、理桜の初めての我儘だからね、婚約者としてこれ以上うれしいことはないよ」
「……」
――樹さん、婚約者、婚約者って言ってるけど、私たちはあくまでも仮の婚約者なのに……。何だか、本当に樹さんの婚約者になったんだって勘違いしそうになる……。意識して気をつけないとっ。私は仮の婚約者なんだから!
「理桜、食べないと溶けるよ?」
「あっ、はいっ……ん~、美味しい~。爽やかな味……」
「俺も一口食べていい?」
「はい、どうぞっ。さっぱりしていて美味しいですよっ」
「うん、確かにうまいな。理桜もこっち食べてみて?」
「――えっと……」
「ほらっ、早くしないと溶ける」
「はい……じゃあ、遠慮なく、いただきますっ。う~ん、濃厚なミルクに塩味がきいてて美味しいっ」
「どっちも正解だったな」
「はいっ」
レモン味のジェラートが溶ける前にと、慌てて食べたところは、さっき彼が味見をした部分だった。
――あっ、これって、か、間接キスっ!! ど、どうしようっ。でも、もう食べてしまったし……これくらいで、動揺しちゃダメっ。また樹さんに笑われちゃう。
彼に視線を移したが、彼はこちらの様子を気にすることなく、塩ミルクのジェラートを堪能しているようだった。
――はぁ~、良かった。私がまたあたふたしてたら、きっとまた揶揄われる。樹さんが気づいていないみたいで良かった。こんなの、今時中学生だって当たり前のことじゃないっ……私はもう大人なんだからっ。
爽やかなレモン味のジェラートは想像以上に美味しかった。これから本格的な暑さを迎えようとしているこの時期、日陰とはいえ、屋外で過ごすのは辛い。このジェラートはまさに今夏の暑さを和らげてくれる救世主になりそうだ。
「理桜、それでこれからの予定の確認だけど、まずは来週土曜日に理桜のご両親と仲人の人に挨拶をして、その翌日に俺の実家に行って両親を紹介する。翌週の日曜に東雲君と会う。もちろん、俺も同席するから」
「はい、それでよろしくお願いします……」
「その後なんだけど、理桜には申し訳ないけど、1度だけ社外のパーティーに同席してほしい」
「ぱ、パーティーですか? でも……私なんかで大丈夫でしょうか?」
「大丈夫っていうのは?」
「その、私は美人でもないし、スタイル抜群でもありません。この通り抜けてるところもあるし、人前で喋るのも苦手です。樹さんに迷惑がかからないか心配なんです」
「――そういうことか……それなら心配はいらないよ。理桜はいつも通り笑って簡単な挨拶だけしてくれればいいから。後は俺に任せて」
「はい……。あと、パーティーってどんな服装で行けばいいんでしょうか?」
「それなら、当日、知り合いの店に服一式とヘアメイクも合わせて予約するつもりだから、心配はいらないよ」
「へっ? 服の準備も、ヘアメイクも?」
「パーティーに行くのに必要な準備は全部俺の方で手配するから、理桜はいつも通りで構わない。他に心配事や質問はある?」
――パーティーに着ていく服や靴、ヘアメイクも樹さんが手配を? でも、そうか、樹さんはCEOだもの、私が変な格好で行ったら余計に迷惑をかけてしまう。だから、ここは樹さんに従った方がいいよね。
「いえ、大丈夫ですっ」
「――理桜、大丈夫。俺がそばにいるから心配はいらない」
「はいっ、樹さんのことを信じてるので大丈夫です」
「――理桜……」
「樹さん? どうかしましたか?」
「――いや、何でもない……」
――どうしたんだろう? 今、樹さんの様子が変だったけど……。私、変なこと言ってなかったよね?
「それで、念のため、俺のマンションの1室が空いてるから、そこを理桜の部屋にしようと思う」
「えっ! 私の部屋、ですか?」
「あぁ、お互いの両親がいつ来るかも分からないし、ましてや、感の鋭い東雲を騙すなら、上辺だけでなく、中身もしっかり作り込んでおかないとすぐに嘘がバレるだろう。嘘が公になれば、俺たちの苦労は水の泡になるし、お互いに好きでもない相手と結婚させられかねない……」
――確かにそうだ。樹さんはともかく、私は嘘とか演技は苦手だし、感情が顔に出やすいときた。だから、できるだけ嘘にならないように接しないと。
「分かりましたっ」
「それで、理桜の私物をその部屋に置いといた方がいいと思うんだ。例えばそうだな、パジャマとかお泊りセット的な?」
「お、お泊りセットっ?」
「いや、本当に泊まる訳じゃないよ。あくまでも時々、俺のマンションで泊まることがあるって証明するための小道具みたいなものだから」
「あぁ、なるほどっ」
――びっくりしたぁ。本当に樹さんのマンションで寝泊まりするのかと思った! さすがにそれはないか……って、何で落ち込んでるのよ、私はっ。いけない、いけないっ。変なこと考えたら、樹さんに怪しまれちゃうっ。
「理桜? どうかした?」
「い、いえっ! 何でもありません」
「――それで、この後だけど、理桜に予定がないなら、さっそくその部屋に必要なものを買いに行こうと思うんだけど、付き合ってもらえないかな?」
「はい、私は大丈夫ですけど……何を買いに行くんですか?」
「うん、とりあえず、ベッドと仕事用のデスクとチェア、ノートパソコンってところかな」
「えっ? ベッドはともかく、仕事用のデスクとチェア、ノートパソコンは必要ないんじゃ……」
「う~ん、俺の母さん、普段はボーっとしてるんだけど、そういうことには感が働くっていうか……女性の感ってやつなのかな? 案外鋭いんだよ。だから、理桜が本当にその部屋で寝泊まりしてるって状態を作らないと、怪しまれる可能性があるんだよ。もちろん、全部俺が買うから、理桜は心配しなくていい」
「でも、それじゃあ樹さんの負担が増えるんじゃ……」
「それなら心配はいらない。そのうち使い道があるかもしれないからね」
「えっ? それってどう――」
「理桜の予定が大丈夫なら、さっそく行こう。買い物の後、俺のマンションも案内するよ。念のため、理桜もマンションの場所や間取りを知っておいた方が誰かに聞かれた時でもすんなり答えられるだろうから」
「――そう、ですね……」
――何だか、思ったよりも大事になってる気がするのは私だけ? 婚約者のふりって言われたから、ただ誰かと会う時だけ演技をすればいいのかと思ってたけど、樹さんの話を聞いてると、私が考えていた以上に面倒なことになってる気が……。でも、これもお互いのお見合いを断るためのものだし、そう長くは続かないだろうから、きっと大丈夫だよね?
「理桜、車は公園の駐車場に置いてあるから、行こうか」
「はい」
「荷物は俺が持つよ」
「ありがとうございます」
彼の行動はいつもスマートだ。さりげなく空のランチボックスと水筒が入った手提げバッグを私の手から自分の手に持ちかえた。
――樹さんの彼女になる人はきっと幸せだろうな……。私は彼女でも本当の婚約者でもないのに、こんなにやさしくしてもらってもいいのかな? 樹さんみたいな素敵な男性なら、婚約者役に立候補する人がたくさんいそうなのに。どうして私なんだろう?
「理桜? どうかした?」
「いえっ、何でもないです」
私は後ろを振り返る彼の数歩後ろまで歩を詰め、彼の背を見ながら歩みを進めた。




