12.報酬
「もう大丈夫だね。今降ろすよ」
彼は自分の膝の上で横抱きにした私の体を両手で持ち上げ、椅子から立つと床にそっと立たせてくれた。
「理桜ちゃん、どうぞ」
彼はテーブルそばにある椅子を引いて、座るようにアイコンタクトを取ってきた。
彼に言われるまま椅子の左側から足を入れて腰を下げると、それに合わせて彼が椅子を押してくれた。私が椅子に座ると、テーブルから離れた場所に置いた椅子をテーブル横へと移動させ、自分も椅子に腰を降ろした。
「理桜ちゃん、仕事とはいえ、辛い思いをさせて、ごめん」
「いえっ、私の方こそ、泣いてしまってすみません……」
「うん、理桜ちゃんが泣き出して、さすがの俺も慌てたよ。こんな時、気の利いたセリフが1つも浮かばないなんて、情けないな」
「いえ……そんなことは……」
私ですら、こんなにも泣き崩れた理由が分からなかったのだから、彼が戸惑うのも当然だ。彼の前で迷惑極まりない失態を数々繰り返しているが、彼は私が泣いたのは自分のせいだと責任を感じていた。そんな姿に申し訳ない気持ちで一杯になった。
「君が泣いてるのに俺は何も言ってあげることができなかった。だから、考えもなしに、君が泣き止むまで、せめて抱きしめていようって思ったんだ。俺には他にしてあげられることがなかったから……」
「……」
――どうしようっ。私が泣いたせいで、夏目さんに多大なご迷惑をっ! あ~、何てことをしてしまったのっ、理桜っ!! これは仕事なのに……。
謝ろう、子どもみたいに泣いて迷惑をかけた上に、抱きしめて慰めてもらうなんて……! でも、何をどう謝ったら……えぇ~い、とにかく、謝ろうっ。
「あのっ、夏目さんっ、その……大変ご迷惑をおかけしました! そのうえ、慰めてもらってしまって……とんでもないご迷惑をおかけして申し訳ございませんでしたっ!」
「――」
――あれっ、何の反応もない? お辞儀してるから夏目さんの表情が分からない。もしかして、迷惑かけすぎて怒ってるんじゃ……! どうしよう……! ここは許してもらうまで謝り続けるしか――。
「理桜ちゃん、さっき謝るのは俺の方だって言ったでしょ。理桜ちゃんは何も悪くないよ。悪いのは俺、君を泣かせたのは俺だ……君を慰めるのは当前だろ?」
「へっ?」
――夏目さんは怒ってない?
ゆっくり折り曲げた上半身を起こすと、彼と視線が重なった。彼は微笑んでいたが、どこか切なさを含んでいるように思えた。その表情は一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの穏やかな表情の夏目さんに戻っていた。
「理桜ちゃん、依頼したメールについてはここまでにして。今後の話をする前に食事をしようか」
「はい……」
「俺は料理を運んでもらうよう頼むから、理桜ちゃんは……レストルームで涙を拭いてきな」
――涙はもう止まってるのに……! あっ、大泣きしたから、メイクが崩れてひどい顔になってるんだ……。そんな醜態を夏目さんに見せ続けるのはあり得ないし、格式あるレストランのスタッフに泣き顔を見られたら、夏目さんが泣かしたと誤解されるかもしれない。うん、早く行ってメイク直してこようっ!
「あっ、じゃあ、私は……」
「レストルームは部屋を出て、すぐ左を曲がった突き当たりだよ。ゆっくり行って来ていいからね」
「――はい、ありがとうございます」
散々泣き腫らし、自分の顔がどんな醜態になっているのか分からず、できるだけ彼に顔を見られないように俯いて部屋を出た。
「ふぅ~、あの手紙の内容は読むのも辛かった……とはいえ、夏目さんの前で泣くなんて。夏目さんはあぁ言ってくれたけど、これ以上は迷惑をかけないようにしないとっ」
レストルームで鏡に映った自分の顔を見ると、目と鼻の頭が赤い。鼻はメイクで何とか隠せるが、目の赤さはどうしようもなかった。メイクを直した後、鏡を見て、自然に笑えているかチェックする。
「うん、大丈夫っ」
レストルームを出て、夏目さんが待つ個室へ戻った。
椅子に座ったタイミングで、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。先ほどのスタッフが氷で冷やされたシャンパンとグラスをテーブルの上に乗せた。すぐさま流れるような手さばきでシャンパンのコルクを開け、2つのグラスに注ぎ入れた。
目の前のグラスに注がれたシャンパンは温かみを感じる淡い金色で、小さな泡がシュワシュワと小さく音を立てている。
スタッフが一礼をして部屋を出て行くと、彼がグラスを持ち上げた。彼に倣って私もグラスを手にした。
「理桜ちゃん、まずは乾杯をしよう」
「乾杯、ですか?」
「あぁ、今夜は理桜ちゃんが起業に向けて1歩を踏み出す記念すべき日だからね」
「夏目さん……これからご迷惑おかけすることも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「うん、俺もできる限りのことは協力させてもらうよ。それじゃあ、理桜ちゃんの独立起業を祝して、乾杯」
「乾杯」
「は~、とても美味しかったです」
「うん、どれも美味しかったね。理桜ちゃんは飲み物のお代わりは何にする?」
「あの、ソフトドリンクはありますか?」
「遠慮しなくてもいいんだよ? 好きなものを頼んでくれて構わないから」
「――いえ、まだ今後のお話を聞かなくてはいけないので、これ以上お酒を飲むと、内容が頭に入って来なくなると困るので……」
「理桜ちゃんは真面目だね。そうだな、ソフトドリンクならフレッシュジュースや烏龍茶、ジンジャーエールがあるよ」
――やっぱり烏龍茶にしようかな……。
「理桜ちゃん、これなんてどう? ロイヤルブルーティー」
「ロイヤルブルーティー?」
「厳選された最高級の茶葉で作られたお茶で、ワインボトルに入っているんだよ。理桜ちゃんは紅茶が好きだから、こういうのも興味があるんじゃない? 試しに頼んでみようか?」
「はいっ、ぜひっ!」
「美味しい……茶葉の渋味が少ないのに、甘みや旨味がしっかりしてる」
「本当だ。それに、まろやかでコクがあって、後味は爽やかだね」
「こんなに美味しいお茶があるなんて、私、知りませんでしたっ」
「あははは、理桜ちゃん、俺が今まで見た中で一番うれしそうな顔をしてるよ」
「へっ?」
「頼んで正解だったみたいだ」
「……」
――あぁ~、またやってしまった。お茶となると、どうしてか視野が狭くなって、お茶しか目が入らなくなっちゃうんだよね。いけない、いけないっ。今は夏目さんと一緒にいるんだからっ。
「さて、美味しいお茶もある訳だし、お腹も満たされた。眠くなる前に、仕事の話といこうか」
「はいっ」
食事が一段落し、彼は黒のビジネスバッグから書類の束を取り出した。
「理桜ちゃ――いや、式部さん」
「はいっ」
――いつも穏やかな夏目さんの顔がキリッとした表情に変わった。私の名前も名字で……、そうか、仕事とプライベートを分けるつもりなんだ。それなら、私も背筋を伸ばして仕事相手として接するようにしないと。
「式部さん、まずはこの書面に目を通してほしい」
「はい、分かりました」
彼から手渡された書面の束を受け取り、表紙を見て驚いた。
「夏目さん、これは……」
「それは仮の契約書です。これまでの依頼はあくまでも口約束にすぎませんでしたが、一緒に仕事をするのならしっかり契約書を交わしておいた方がいい。ただ、これは私の方で必要だと思う項目を纏めたにすぎません。式部さんにも目を通してもらった上で、契約内容を確定させていきたいと考えています」
「――そっか、契約書が必要になるんだ……」
――そうだよね。夏目さんの言う通り、一緒に仕事をするのなら、契約書を交わすのが常識だ。夏目さんとトラブルになる心配はないと思うけど、私が夏目さんに不利なことをしてしまうかもしれない。万が一を考えて、先に打てる予防策は打っておいた方がいいものね。でも、契約書の中身なんて詳しく知らないし、どんな項目が必要なんだろう?
「契約書は私が作成しましたが、内容に不足している部分があるかもしれません。今日はその契約書の内容を説明させていただいて、一度持ち帰っていただき、後日、契約書の内容について話し合い、契約を締結するという流れで進めたいと考えています。そのような形でよろしいですか?」
「はいっ、それで構いません。でも私、このような契約は初めてで……」
「大丈夫、これから1項目ずつ説明するつもりですから、安心してください。さっそく契約書の内容を説明しますね」
「――ということで、私からの説明は以上です。式部さんから質問はありますか?」
「あの、請負契約ということですが、これは夏目さんからメール代筆を依頼された場合、成果物と引き換えに報酬を受け取るという契約内容ですよね?」
「はい、その通りです」
「では、起業のサポートに関する契約は別にするんでしょうか?」
「いえ、私はプロのコンサルタントではないですし、あくまでも起業するのは式部さんです。私は起業するにあたって少しだけアドバイスをするだけですから、契約内容に盛り込む必要はありません」
「でも! それでは夏目さんはタダで私の起業サポートをすることになるじゃないですかっ」
「えぇ、それで構いません。私が式部さんの起業をサポートするのはあくまでも友人として……ということにしておきましょう。ですから、時々でいいので、食事や外出に付き合ってください」
「えっ?」
「個人間の契約内容はある程度自由が認められているので、その内容を契約書に盛り込むこともできますが、契約書に記載した時点でそれは友人間の付き合いではなく、私が式部さんに強制することになる。それは私が望むことではありません。式部さんの気が向いた時に、私に付き合ってくれればいいですから」
「……」
――この契約は私にとって有利な条件ばかりだ。報酬金額も想定していた金額より高いし、何より起業するまでのサポートを夏目さんから無償で受けられる。でも、それじゃあ、夏目さんの負担ばかり増えるんじゃ……。
かといって、起業したてで十分な報酬を支払えるだけの売上を得るのは難しいし、前職で蓄えたお金はメール代筆サービスが軌道に乗るまでの生活費に消えてしまう。夏目さんにとって不公平な契約をこのまま交わしてしまっていいのかな……。
「その内容では納得いただけませんか?」
「……」
「――じゃあ、こうしよう!」
彼はにっこり笑顔を向けたかと思うと、突然驚きの提案をしてきた。
「式部さん、俺の婚約者になってもらえませんか?」
「婚約、者……えぇ!」
「婚約者と言っても、仮の婚約者ですが」
――か、仮の婚約者? 私が夏目さんの? それってどういうこと?
「あの、夏目さん、仮の婚約者ってどういうことですか? 私が夏目さんの仮の婚約者になることと、夏目さんに正当な報酬を受けてもらうこととどう関係あるんでしょうか?」
「そうだね、突然そう言われても訳が分からないよね? 式部さんは俺が無償で起業のサポートをすることに納得していない。つまり、俺に正当な報酬を支払いたいと思っている。それは間違いないよね?」
「はい、この契約書は私にばかり有利な条件だと思います」
「うん、本来なら口頭だけでも契約は成立するから、契約書は必要ないのだけれど、金銭が発生することはしっかり書面に起こしておきたい。君と俺の間で金銭トラブルになる心配はないと思うけど、今後、君がスタッフを雇ったり売り上げが増えたりするケースを考えると、書面に起こしておくのが安心だ。
だけど、起業のサポートに関しては、俺は報酬をもらうつもりは最初からなかったんだよ。あくまでも理桜ちゃんの友人として起業を手助けするつもりだ。でも、君はそれを良しとしていない。俺に正当な報酬を支払いたいと考えている。
生憎、俺は本業でも副業の投資でも十分な資産があるから、君から金銭の報酬を受け取らなくてもいいと思っているんだ。ただ、金銭以外で対価を受け取れるとしたら、1つだけ気がかりなことを解決したいと思う。それは表向きのお見合いを断る理由が欲しいということ。つまり、君が俺に正当な報酬を支払う代わりに、俺の婚約者を演じてお見合いを断るのを手助けしてほしいんだ」
――なるほど。確かに、CEOの夏目さんに金銭で報酬を支払うことに意味はないのかも。それに、報酬を支払う代わりに仮の婚約者になれば、夏目さんの困り事を1つ減らす手助けができる……。
あぁ、そうかっ、もしかして、お見合いを断りたくて、時々でもいいから私と食事や外出をしたいと言ったのか。他に、夏目さんに恩返しできそうなことはないし、夏目さんが私でいいと言うなら、偽の婚約者になるくらい問題ないかな……。
「分かりました。私が夏目さんの婚約者役をしっかり務められるか不安は多いですが、私にできることならぜひ協力させてもらいます」
「良かった。理桜ちゃん、こんな不躾な提案を受け入れてくれてありがとう。それに、婚約者になることは君にも利があると思うんだ」
「私にもメリットが?」
「ほら、先日のお見合い、断われずに困っていただろう? 俺が君の婚約者になれば、お見合いを難なく断れるし、お見合いを押し付けられる煩わしさから解放される」
「あっ、そうかっ。その手があったんだ! はいっ、ぜひ、お願いしたいですっ。あっ、でも、それじゃあ夏目さんに対する報酬じゃなくて、私にもメリットがあって相殺されるんじゃ――」
「細かいことは気にしないでいいから。じゃあ、交渉成立ってことでいいかな? あー、でもさすがに仮の婚約者の契約を書面に残すとなると、誰かに見られでもしたら面倒だからね。書面は作成しないということでもいいかな?」
「はい、確かに、書類として残ると、誰かにバレる可能性が高くなりますよね。そこは夏目さんを信頼しているので問題ありません」
「――あははは……信頼、か……それはそれで何とも答え難いのだけど……」
彼がぼそりと呟いたが、何を言っていたのか分からず聞き返した。
「今、何て?」
「あっ、いや、何でもないよ。気にしないで。じゃあ、仮の婚約者になってもらう上でルールを決めたいんだけどいいかな?」
「はい、もちろんです。でも、どんなルールを決めるんですか?」
「そうだなー、まずは互いの身内や友人への挨拶とか、2人で会う頻度とか、付き合うまでの馴れ初めを詰めておくとか、かな?」
「えっ! お互いの家族や友人に紹介するということですか?」
「もちろん、そうじゃないと婚約者の存在をお披露目できないからね。婚約者がいるって親が納得すれば、お見合いを勧めてくることもないだろうし。あー、でも、理桜ちゃんの場合はすでにお見合いしたから、1度彼と直接会って話す必要があるよね? 次に会う日は決まってる?」
「いえ、向こうからデートのお誘いを受けているんですが、日程は私に合わせると言っていて……返事はまだで……」
「――なるほどね……それなら逆に好都合だ」
「えっ? 好都合?」
「あぁ、それなら彼と会う約束を少し先に設定しておけば、その間に俺たちが本当の婚約者に見えるようになるまで時間を稼げるからね」
「あぁ、確かに! それならいつと答えたらいいでしょうか?」
「ちょっと待ってね」
彼は自分のスマホをジャケットの内ポケットから取り出し、画面をスクロールして何か考えているようだ。
「理桜ちゃん、再来週の日曜日の午後3時でどうかな?」
「――私はいつでも大丈夫ですけど……」
「じゃあ、先方には再来週の日曜日の午後3時なら予定が空いていると返答しておいてもらえるかな? 彼とは直接連絡を取り合ってるの?」
「いえっ! さすがに、連絡先を教えるのはちょっと……」
「それは良かった。なら、仲人さんかお母上に連絡するって感じかな?」
「はい、一先ず母に連絡してみます」
「理桜ちゃん、それならちょっと予定を前倒しで動いた方が良さそうだ」
「えっ? どういうことですか?」
「理桜ちゃんのお母上も断るのが不得意だと言っていたよね?」
「はい、そうです。でも、夏目さんが私の婚約者のふりをしてくれるなら、さすがの母も断ってくれるかと……」
「どうせなら、彼と会う前にご両親と仲人さんの前で婚約したと告げるのはどうだろう?」
「えぇ! でも……」
「それなら、俺から仲人さんに直接話をつけられるから、理桜ちゃんもお母上も断る必要がなくなる」
「――確かにそうですけど……」
「何か不安がある? 俺じゃ役不足かな?」
「いえっ、そんなことありませんっ! 夏目さんがいてくれたら百人力というか、これ以上無いくらいの戦力ですっ!」
「ぷはっ……理桜ちゃん、戦力って、俺はただのビジネスマンだよ」
「いえ、そういうことではなく……夏目さんがいてくれたら、私も心強いです」
「――そう。それはうれしいな……それなら、さっそく今後のことを話し合わないとね。あー、でもこんな時間か。今日はこの辺でお開きにして、また後日話し合おうか」
「はい、そうですね」




