9.彼女が伝えたかったこと
夏目さんと公園でバッタリ会った日から1週間後――。
手紙をじっと眺めること半月以上、ノートパソコンのキーボードの上で指は1本も動かなかった。
どう考えても、彼女の想いを汲み取ってあげることができないからだ。そこで、最初のメール代筆を友人からお願いされて悩んだ時、夏目さんから恋愛感情を別の視点で理解する方法を教えてもらったことを思い出し、手紙を別の角度から考えることを思いついた。
――彼女の気持ちはどうやっても、彼女本人にしか分からなくて当たり前。それなら、この手紙に返信のメールを送ろうとしている彼の視点に立ってみればいいじゃない。そもそも、彼の気持ちを代筆するためのメールなのだから……。
夏目さんから共有された情報を元に彼の感情を探り、箇条書きに纏めることにした。
・彼から見る彼女に対する認識は学生時代の想い出の1人にすぎない浅い関係
・彼は彼女への未練は一切なかった
・関係が自然消滅した後、彼女のことを思い出すことがなかった
・彼女の遺書である手紙を受け取って、彼は過去の彼女の幻影に苦しんだ
・思い出される彼女との想い出はどれも幸せそうに笑う彼女の笑顔ばかり
・彼女は彼と会うこともなく、自ら命を絶つという決断をした
・彼女と1回でも話すことができれば、彼はそこまで苦しむことはなかったかも?
・彼女が手紙を残したのは、自分を苦しめることが目的だと彼は感じているかも?
・だとしたら、彼はそんな彼女に怒りを感じている?
・彼は彼女のことを吹っ切りたい、忘れたいと思っている
・すなわち、彼は彼女とのことを後悔している訳ではない? 自分を責めている?
・けど、過去の記憶を完全に消すことはできないし、彼も本当は本気で彼女のことを忘れられるとは思っていないのでは?
――彼が苦しんでいる直接の原因は、彼女が遺した手紙で間違いないはず。でも、手紙はあくまでも伝達手段の1つでしかない。彼はこの手紙をきっかけに、過去の彼女の幻影に悩まされていた。その時、彼はこう思ったのかも? 『なぜ今になって俺を苦しめるんだ?』って。
手紙には彼へ手紙を遺した理由が書かれていないから、彼は彼女がどんな目的で自分に手紙を書いたのか疑問で仕方ないはず。でも、その答えは永遠に分からなくなってしまった。彼女はもうこの世にいないから……。
湧き上がった怒りや疑問を彼女にぶつけたくても、その彼女はいない。彼の感情は行き場を失ってる……。どんなに辛い思いをしてることだろう。どうしたら、どんなメールにすれば、彼をその辛く苦しい現実から救い出すことができるんだろう?
ざっと思いつくことを箇条書きにすると、一息つきたい気分になった。
「糖分が欲しい……何かあったかな?」
冷蔵庫の中には糖分を補給できそうな甘い物はなかった。次に、冷凍後を漁っていると、引き出しの奥から昨冬に買い置きしていたラムレーズン入りのチョコレートの箱を見つけた。箱を左右に振ってみると、カサカサと音が鳴った。
「まだ入ってたぁ。助かった~」
冷蔵庫からルイボスティーのティーポットを取り出し、グラスに並々注ぎ入れる。チョコレートを箱から取り出し、グラスと一緒にテーブルの上に置いた。チョコレート上部のアルミフィルムを丁寧に剥がし、ぱくりと口の中へ入れた。
冷凍庫でカチカチに固まったチョコレートを一口分だけ噛み切った時、パキンと大きな音が鳴った。チョコレートは次第に舌の温度でゆっくりと溶けていく。舌で転がすようにチョコレートを味わっていると、中からラムレーズンが現れ、咀しゃくするとラム酒が染み込んだレーズンの味が口内に広がった。
「う~ん、久しぶりに食べた、この味~やっぱり美味しいなぁ」
チョコレートを堪能してから、ルイボスティーを口に含むと、口内に広がった甘みはしっかりと流された。再び、チョコレートを齧り、咀しゃく後、ルイボスティーで流す。これを繰り返し、糖分の補給は完了した。
彼の感情や推測できる心情を箇条書きにしたことで、文章が浮かんできた。
「よしっ、行けるとこまで一気に書くぞぉ~」
それからというもの、一心不乱に、まるで彼という存在が自分に憑依したかのように、彼の感情、心情を代弁するかの如く、キーボード上に置かれた私の指は流れるように動いていた。
「そうだ。彼は自分のことを何て呼んでいたんだろう? 私? 僕? 俺? う~ん……」
――夏目さんに、彼の普段の口調を聞くのを忘れてた。夏目さんは何も言ってなかったからなぁ。やっぱり確認した方がいいかな? でも、夏目さん忙しそうだしな……とりあえず、夏目さんの「俺」を採用しよっと。
その後、本文を3回確認し、翌日に2回繰り返し読み、修正を繰り返すことで、メールの文章は完成した。
『遠くへ行ってしまった君へ
君の訃報を聞いて、正直、俺にとって君がどんな存在だったかをすぐに思い出すことはできなかった。君が死んだと言うのに、俺は何て冷たい男なんだろうな……。
君の手紙を受け取ったのは、君の死を知ってから随分と時間が経ってからだ。その手紙に書かれた君の想いを知って、君と過ごしたあの頃の記憶を思い出したよ。あの頃の君はいつもにこにこ笑っていて、俺の目から見ても楽しそうだった。
けど、就活で慌ただしくなった俺たちは、互いに自分を優先する道を選んだ。当然、そんな関係は続くはずもなく、自然消滅した。
俺は自分のことで精一杯だったし、君のことを気にかける余裕もなかった。きっと、君も俺と似た状況だったと思う。その時、俺は気づいたんだ。俺たちの関係性はその程度だったってことを。
だから、就職先が決まった後、俺から君に連絡はしなかった。君も俺に連絡してこなかったから、君も俺との関係を続けようとは思っていないのだと理解したよ。学生同士の交際なんて、案外そんなものだろう? それに、人伝えに君は就職して間もなく結婚したと耳にしていたから、当然幸せに暮らしているものだと思ってたよ。
君は手紙に書いていたよな。なぜ俺たちの関係は終わってしまったのか? あのまま別れていなければ、今もこれからもずっと笑い合って過ごしていたのか? と。俺は……俺が思うところ、たとえ、あのまま俺たちの関係が続いていたとしても、いずれ破綻していたと思う。
お互いに関係を続けたい、相手と一緒にいたいと思う気持ちが俺たちのどちらかに僅かでもあったなら、就職が決まった後に連絡を取っただろうから……。俺も、君も、それはしなかった。それはつまり、2人の関係が切れてもいい、と俺たちは受け入れたんだよ。
現に、君は俺じゃない他の男と結婚し、その人を愛した。少なくとも、君は俺よりもその人を人生の伴侶に選んだんだ。離婚したことや子どもが叶わなかったことはとても残念だと思う。だからといって、俺と結婚していたら……なんて、たらればの話をしたところで、それは無意味だと思うんだ。
君はそれを分かっていたから、余命宣告を受けた後、俺に連絡を寄越さず、自分が死んだ後にこの手紙が俺の手元へ届くようにして、自ら命を絶ったんだろう?
君は俺を憎んでいたのか? 君の手を離した俺を、君は……。何も言わず、さっさと逝ってしまうなんて、そんなの反則だろう!
俺は、はじめて君に怒っている。君がこの手紙を俺に遺したことに、君が死ぬ直前に俺と過ごした時間が人生で一番幸せだったと言い遺したことに、過去の君の幻影が今も俺の頭の中に居座っていることに。
俺はどうしたら良かったんだ? 君は今更、俺にどうしろと言うんだ? 君に怒りをぶつけたくても、君はもうこの世にいない。俺はこの行き場のない感情をどこにぶつけたらいいんだ!
君は狡いよ。この数年間、俺はずっと想い出の中の君に悩まされてきた。どうやっても君の幻影は消えてくれなかった。でも、君はいつも笑っていて……。その笑顔を思い出すだけで辛くなったよ。
君は俺に「さよなら」は言わないと手紙に書いていた。だから、俺も君に「さよなら」は言わないことにした。俺は君という存在を忘れようと努力したけど、今となってはそれもどうやら難しそうだ。
だから、もしも天国が本当に存在して、そこで君とまた会うことがあるなら、その時、この怒りを君にぶつけるつもりだ。それまでは君のことも、君に言いたいことも、全て胸の奥にしまっておく。
せいぜい、次に会った時にこの手紙のことをどう言い訳するのか、今のうちに考えておいてくれ。言い訳は俺が天国へ行った時に聞くことにするよ。またな。』
夏目さんに提出する期限の5日前の今日――。
3通目の依頼のメール全文を、夏目さんに送信した。
「ふぅ~、ようやく終わった……。何だか、ものすごく疲れた気がする……。会ったことも話したこともない人のことだけど、私まで生気を吸われた気分……。今日は何曜日だっけ? えっと、金曜日かぁ。夏目さんから返事来るのは週明けかな? それまでは少しゆっくりできそう。今日の晩御飯、どうしよっかなぁ」
悩んだ挙句、今晩の夕食は少し奮発して、先日、夏目さんに連れて行ってもらった定食屋さんに行くことにした。暗くなる前に自宅アパートに戻りたいから、少し早めの夕食をとることにした。
「いらっしゃーい、お客さん何名様?」
「あの、1人です……」
「はいよー、お1人様、カウンター席にご案内ー」
威勢のいい中年女性の店員が端のカウンター席に案内してくれた。まだ外も明るく、会社勤めの人は退勤の準備をしている時間帯のせいか、店内は比較的空いている。男性客が多いとされる飲食店でも、それほど居心地の悪さは感じなかった。
「お客さんっ、はい、お冷ねっ。それで、注文は決まったかい?」
「はい、この白身フライ定食をお願いします」
「はいよー、白身フライ1つー」
中年女性が厨房にそう声をかけると、厨房の奥から中年男性が「あいよー」と返事をしていた。
――店員さんは2人だけなんだ……きっと、あの女性と男性はご夫婦なのかな? お子さんはいないのかな?
ついつい、先ほどまで他人のプライベートを覗き見るような仕事を終えたばかりだったせいか、2人の関係性や家族関係が気になってしまった。
――いけない、いけないっ。あの人たちの関係性がどうかなんて考えるのは失礼だ……。
もしも今後、メールの代筆で起業することができたら、それはそれはもっと過激なメールの代筆を依頼されることもあるかもしれない。仕事以外の詮索はしないように気をつけないと……。じゃないと、気になって夜に眠れなくなりそう。
注文した白身フライ定食は、以前夏目さんに連れて来てもらった時に食べたものと同じだ。あの時に味わった、衣のサクサク感と白身のほろほろ感にすっかり魅了されてしまった。
さすがに今日は他のメニューにしようかと迷ったが、結局、白身フライの魅力に抗うことができず、今日も同じメニューを選ぶことになった。
「はいっ、白身フライ定食ねー。伝票はここに置いてくよっ」
「はい、ありがとうございます」
「ゆっくりしていってねー」
中年女性は、女性1人の私が珍しかったのか、気遣ってくれたのか、やさしい笑顔を向けてくれた。その心遣いがうれしくなって、この店を自分の「行きつけのお店」にしようと心の中で誓った。
「おいしぃ~」
――やっぱりこのサクサク感と中のほろほろした白身が絶妙にマッチして美味しいのよね~。家でこのサクサク感を再現するにはどうしたらいいんだろう? 常連客になれたら、コツとか教えてくれるかな?
「ふぅ~、食べたぁ~」
あっという間に白身フライをぺろりと平らげてしまった。夕食には少し早い時間で完食できるか心配していたが、そんな心配は無用だったらしい。
自宅アパートから歩いて来たせいか、思いの外お腹が空いていて、ものの十数分で完食してしまった。もしも目の前に夏目さんがいたら、きっと大笑いされていたことだろう……。
その時、スーツ姿の男性が1人、店内に入ってきた。顔はお店の暖簾で隠れている。
――もしかしてっ、夏目さ……じゃなかった。夏目さんは忙しい人だから、こんな早い時間に来るわけないか……。さて、支払いして、暗くなる前に帰らないと……そうだ! 帰りにコンビニに寄って、スイーツでも買っちゃおうかな。
コンビニに立ち寄ってスイーツを2つ購入し、自宅アパートへ帰宅した。スイーツの1つは今夜の分で、もう1つは明日のおやつとして買った。明日は特に予定がないため、家でゴロゴロして過ごそうと考えている。そのため、スイーツだけでなく、不健康とは分かっているが、スナック菓子とアイスもついでに買ってしまった。
――おかしいなぁ。満腹でも衝動買いをするものなのかな……。
一仕事を終え、久しぶりに何も気負わずにゆっくりできる夜。今日はシャワーではなく、浴槽に湯を張ることにした。そして湯船には、昇進祝いのお返しで陽菜ちゃんからもらったバスボールを投入する予定だ。
「はぁー、いい湯だったぁ~。念のためスマホを確認しておこっと。あれ? 通知が入ってる。もしかして夏目さんからかな? さすがに今日の今日はないかな?
友人も少なく、普段スマホでやり取りするのは陽菜ちゃんか夏目さんの2人。あとはたまに母から連絡が来る位だった。
「誰だろう? ――何だ、お母さんからか……ん? お見合い…………えぇ~!」
母からの衝撃な内容のメールに驚いた。
20代半ばで結婚適齢期とはいえ、まさか、この歳で親からお見合いをしろと言われるとは思っていなかった。
「ん? 添付ファイルに何か……jpgって画像? まさか……お見合い相手の写真とかじゃないよね?」
母からのメールに添付された画像ファイルを開くと、どこかの御曹司みたいなイケメン青年の写真がアップで表示された。画像ファイルは2つあり、最初に開いたのは胸から上の上半身だけのアップ写真で、もう1つは全身を映した写真だった。
母はご近所の村上さんから「とてもいい人だから、ぜひ理桜ちゃんに紹介したい」と言われ、断れずにお見合いを受けてしまったという。そのお見合いは何と、2日後の日曜の夕方だ。お見合い場所は、都内のある駅に連結したホテルのカフェだそうだ。
抵抗するため、母に電話するが、一向に出ない。
――これはやられたっ。お母さん、このまま日曜日まで私の連絡をスルーするつもりなんだ。もう~、勝手に引き受けたのはお母さんなのに……私、どうしたら……。
かといって、自分がその場にいたとしても、恐らく断れなかったはず。自分は母と一緒で、内気で、誰かの誘いを断るのが苦手だからだ。
「ふぅ~、仕方ない。会うだけ会って、相手の方には申し訳ないけど、その場でお断りしよう……さすがに、結婚だもの……人生がかかってることは、内気だろうと何だろうと、断らないとね。
うんっ、なるべく波風立たせず、丁重にお断りしよう。こういう時は、シミュレーションしておいた方がいいのかな? 私、ちゃんと断ることできるのかな……?」
――せっかく、今日はゆっくり過ごすはずだったのに……。んもぅ! 今日は何も考えないっ。そうだ、コンビニで買ってきたスイーツを食べて、今日だけは、今日だけは自分を甘やかすんだからっ!!
結局、リラックスできたのはバスタイムの時間だけで、スイーツを食べても、ネットで漫画を読み漁っても、お見合いを断ることで頭が一杯になり、眠れたのは空が明るみを帯び始めてからだった。




