後編
「──開店しないラーメン屋の謎?」
こいつら一生ラーメンの話してんのかと、岸研吾は思わずにはいられなかった。
「そう。不思議でさ」
馴染みになったカウンター端、一番奥の座席で、斗南はアイスコーヒーをストローでかき混ぜている。
カウンターに座る斗南は背中を丸めがちだ。その上立っている研吾からは見下ろす形になるので、その背の高さをたびたび忘れがちになる。
「居抜きで開店日の予告まであったのに、何でかなぁって」
「……前は何屋の場所だ?」
「なんだっけ。和食的なやつだったはず。おれらが入る頃にはとっくのとうに潰れてたからあんまり知らない」
研吾は腕を組んで、顎先を撫でる。昔ヒゲを生やしていた頃からの癖だ。飲食店をやるに当たって剃るようになったが、何となくそこに感触があった時の名残で撫でてしまう。人差し指と親指を添え、親指を動かす。
元和食屋の居抜き物件。ラーメン屋。開店予告。
「──下手したら資金ショートしてるな」
「え?」
想像するだけで身震いする心地で、研吾は顔をしかめる。
「なんで? 銀行との揉め事?」
「罠にかかったんだろうな……」
「え、誰の罠? あれ、もしかして詐欺師とか地面師とか?」
「不憫だ」
「マスター、ねぇ、おれとお話しよー」
斗南から研吾への呼びかけは相変わらず『マスター』だ。未だに研吾は自分の名前を斗南に告げていない。これは防壁だ。店主と客で終わらせるための。
入り口でドアベルが鳴る。研吾は斗南の相手を止め、入店してきた客に意識を向ける。
「いらっしゃい、柿本さん」
名前をしっかりと呼び、表情にも歓迎の意思を乗せる。
老齢と言って差し支えない常連客の男は、一瞬斗南に目を向け、それからその逆端のカウンター席に腰かけた。
「いつもの?」
問いかければ、浅いうなずきを返し、それから持参の文庫本と眼鏡ケースをカウンターに置く。湯気の上がるブレンドコーヒーを提供する頃には、取り出した老眼鏡をかけて読書姿勢になっている。週一のここでの読書タイムが、この客の習慣だ。研吾が店を譲られる前から、ここに通っている。
「前の、読み終わったんだ」
カバーをかけていないので、読んでいる小説の表題が見える。先週読んでいた『十五少年漂流記』ではなく、『星の王子さま』になっている。
「……今の価値観には合わんな」
「白人至上主義の時代の話だしね」
尋ねるまでもなく感想は呟かれ、研吾の返事も短くあっさりとしたものだ。会話は一往復で終わり、あとはコーヒー一杯分の時間、この客はここで読書を続ける。
たったそれだけのやりとりを客は求めている。研吾もそれを察して応えてやる。
これが飲食店としての付加価値だ。本当は斗南の座る席がこの客のかつての定位置で、今もそこに座りたがっているのも察しているが、毎日通う斗南と週一のこの客では優先順位がやはり前者になる。
だからこの客へはコーヒーを出す一瞬、その時だけは最大限の優先をしてやる。
商品価値で戦えない飲食店の内情など、こんなものだ。
研吾という男は、自分の価値で喫茶店をやっている。
とはいえ。
視線を、感じる。
在庫の確認に向けた意識を、引き寄せられて奥のカウンター席に目を向ける。視線は当然のように合って、陽だまりにでも入ったかのように研吾を見ていた瞳が細められる。
研吾は斗南を不思議に思う。
リスクヘッジのできない、ホストや地下アイドルのような売り方をした覚えはない。確かに妙な反応を見せてしまった自身の不覚は自覚しているが、それは青臭い学生の欲を刺激するような類いのものではなかったはずだ。
──あの日のことは、本当に事故だ。
同時に処理すべきことが多くて、不注意を起こした。それを斗南に助けられ、体勢がたまたま後ろから抱き込むような形になった。
不意に寄り添った背中の熱を、当たり前に受け入れてしまった。自分よりデカい男の存在を背後に感じて、驚くべきことに警戒心が一切働かなかった。
それは斗南が十二歳も年下のただの学生で。なぜだか店を気に入ったらしい珍しい若者で。びっくりするくらい覇気のない、マスターの家の池にいつの間にか住み着いて甲羅干ししているカメのような、自然と場に馴染む男だったからで。
デカくてあったかくて──心地いいなと、多分ひどく呑気に思った。
その心境が、斗南にバレた。
一生の不覚だと研吾は思っている。
それでも平凡に人生を生きている大学生に、三十を越えた男は普通、恋愛対象にならないはずだ。最初、からかっているだけだと雑にあしらったのも仕方ない。
研吾には、斗南が分からない。
※ ※ ※
スーパーで日持ちする食料品を買い込んでから、研吾はその家を訪れる。
「マスター、生きてるかー?」
研吾からのマスターという呼称は、喫茶店を譲ってくれた先代へだけ使われる。合鍵で入り、靴を脱いで、昔ながらの無駄に段差が高い上り框をのぼる。
「生きとるぞぉ……」
奥から聞こえた声は活力があるとは言い難い老人のものだ。居間ではなく、縁側の方へと回ると、籐製の椅子に腰掛ける老人がいる。
「いつも通り、半に出るから」
声をかけると、皺だらけの手が了解を示して弱々しく上げられる。
それを確認して身を翻らそうとすると、視界の端に庭の池が入った。中央の小さな岩の上で、一匹のカメがじっと陽射しを受けていた。
思わず口端を緩めながら、研吾は買ってきたものを冷蔵庫へ入れに台所へ移動した。それからゴミ捨て、洗濯物の片づけ、掃除と、慌ただしく時間を過ごす。
研吾はマスターと、五年前に出会った。
その時研吾は、不動産会社のやり手営業マンだった。
研吾は幼い頃から人の感情に聡い子供だった。お陰で、新人の頃から営業成績は良かった。成約数に応じて支払われる歩合で懐は潤い、美人の彼女も途切れることはなく、人の羨むような生活を送っていた。
振り返っても、何一つ躓きのない人生。
ただふと上がっている階段の先に目をやって──自分が望む先ではないなと上がるのを止めた。
あとは少しのややこしい偶然で、二年前に研吾はマスターから喫茶店を継いだ。毎週一日だけ様子見をして世話を焼き、一緒に喫茶店に行く。喫茶店の物件は今、賃貸状態で、マスターが死ねば研吾が買い取る手筈になっている。評価額からすれば安値の買い取り金額がそのままマスターの葬式代だ。
研吾は別に善人ではない。これは契約だ。弁護士まで交えて結んだ、一部の隙もない契約。死にゆく独り身男に寄り添うのは、モデルケースの観察も兼ねている。
「杖は?」
差し出しても首を振り、老人は傘を手にとり、それを支えに歩き出す。研吾は玄関の鍵を閉め、先に行く背にすぐ追いつく。
喫茶店まで三十分、研吾はゆっくりと、マスターの斜め後ろを歩く。普段なら歩いて十五分の距離を、ゆっくりと生け垣の花でも見ながら。
着いたら喫茶店を開けて、手前のテーブル席に老人が腰掛けるまで見守る。それから開店準備をして、店を開く。
「おう、マスター、まだ生きとるな」
「マスター、ちょっと太ったんじゃない? 運動せい、運動」
平日開店直後に来る客など馴染みばかりだ。彼らは老人こそをマスターと呼び、研吾をマスターとは呼ばない。研吾自身がそうなので、思うところはない。
ただ研吾は、大してうまいとも思っていないコーヒーを、そんな彼らに振舞うだけだ。
「──なんでいる?」
「え、急に休講になったから?」
午前中に見るはずのない姿を見て、研吾は接客業としては致命的な言葉を口にする。
けれど斗南はのんびりと自身もなぜか疑問形で返すだけだ。急に時間ができたから会いに来たと、喫茶店の店主と客の学生ではありえない論理の帰結を、当然のように告げる。
「マスター、おれアイスコーヒー。あとちょっとお腹空いた」
斗南は、当たり前に研吾をマスターと呼ぶ。それ以外の呼称を持たないからであり、斗南にとっては研吾が『マスター』だから。
「ちゃんと勉強しろ、学生。……いつものたまごサンドならすぐ出せる」
テーブル席で賑やかに言葉を交わす老人たちを他所に、カウンターの一角は今日は静かだった。
※ ※ ※
「そういや、結局普通にオープンしてたよ、例のラーメン屋」
テーブルを拭く研吾に合わせて、もはや慣れた仕草で斗南が小物を浮かせていく。掃き掃除に変わると、今度は研吾に合わせて椅子をどかして回る。
やっぱりこいつラーメン屋の話ばっかすんなと、研吾は口火を切る。
「怖い話聞くか?」
「え、やだ」
「怖い話してやる」
「うえぇ……」
デカい図体で何かわい子ぶってんだと研吾は正直なとこ呆れている。
「これは実際にあった話だが──」
とあるところに不動産会社のあまりできのよくない新人がいた。飲食店の開業を目指す顧客に、それならと転用のしやすさに居抜き物件を紹介する。大家も顧客も、紹介した新人も三方良しでにっこりの何でもない案件。
で、終わらなかった。
「新人は最悪なことに、『そのまま開業できますよ』なんて最悪なフレーズを使いやがった」
「最悪って二回言った……」
「物件の価値を担保する営業文句なんて、最悪の最悪だ。その言葉に乗せられた客は大々的に広告も出しながら開店準備をする。それで開店二週間前に保健所の監査を受け入れて、──グリストラップの罠にかかる」
「グリストラップ?」
「油分の多い飲食店必須の設備だと思えばいい。飲食店って一口に言っても、千差万別だ。設備はあったが、前の設備では新しい店には足りないって事態が起こった。そんで計上される追加費用と準備期間。当初の開店計画は大幅に狂う」
研吾の口振りに、何かを予感したのか、斗南の顔が分かりやすくしょぼくれている。その顔に研吾は笑いながら、掃除用具をしまいに一度奥へと引っ込む。
「予告の開店時期から、遅れは一か月ぐらいか?」
戻って厨房側で手を洗いつつ、再びくだんのラーメン屋に言及する。
斗南はまだしょぼくれた顔をしている。幼いような仕草で首をうなずかせる。
「他の設備の可能性もあるが、下手したら百万以上かかってるな」
予定外の工事で予測される金額に、研吾は開店できさえすればなどと楽観的に考えることはできない。それをペイするまでに、薄利多売のラーメンが何杯売れなければならないのか。
「……素直にラーメン食べれなくなりそぉ」
「その一杯に罪も負債もないからおいしく食べてやれ」
若いなと思いながら、研吾は今日もケーキの空き箱に残り物のサンドイッチを詰めてやる。
研吾の知るその案件はしっかり訴訟沙汰になった。新人営業の発言は録音されていて、全額ではないにしろ、賠償請求は通った。他人事とはいえ、普通に研吾も震えた。不動産絡みはそういうことが起きうる世界だったからこそ、研吾は契約絶対主義、訴訟沙汰回避精神になった。
言葉は、思っているよりも重い。
なのに勢い、思い込み、誤魔化し。人の口から出る言葉は事実以外のものにいくらでも左右される。
若さも、その一つだ。
研吾は自分がバイだと悟った若い頃に、ちゃんと実験は済ませた。アプリで見つけた安全そうな男を巻き込み、性病検査の診断書を見せ合った上でどちらのポジションも経験した。
特によくもなくてそれ以来、男と関係を結んだことはない。バイであることは、現代日本においてはリスクの方が大きい。
何より研吾は主導権を握られるポジションに抵抗がある。褒めも、なだめも、睦言の愛さえ、不均等な力関係を認識した途端に冷める。ならば抱く側はというと、それだったら衛生的に女とヤった方がいいだろとなった。
なった結果で、男は恋愛対象に今までしなかった。
十二歳、干支一回りの歳の差。数字そのものの差よりも、社会人と学生という差がなにより大きい。
斗南は二十歳になったばかりの、物知らずの若者でしかない。自分の発した言葉が、どういう意味を持つのか。それがどれだけ人生に影響するのか。何一つ考えていない、研吾から見ればただの甲斐性なしの若造。
資産形成も将来設計も完璧な大人が、揺らぐ要素など一つもない。
研吾はそう、強く思っている。
「ねぇ、マスター」
差し出した紙箱が、すんなり受け取られない。下を支える手に、斗南が甲から手を重ねてくる。前に立つと猫背ぎみなせいで、顔が普通の人間より近い。
「好きな食べ物、何?」
お見合いのような薄っぺらい質問。色気も何も感じない。若い男に草食系が増えているとは聞くが、思わず恋愛指南したくなるほどに研吾にはつたないアプローチだ。
「カップラーメン」
「うそぉ」
斗南の魂胆は見え見えだ。
「食事誘えない……」
意識が少しそれた隙に箱を持った手を上げる。触れていた斗南は、手のひらを上にしたまま動きを止めているので、そこに箱を置く。すると反射的に斗南は受け取ってしまう。
「マスタぁーっ」
斗南の手管は詰めが甘い。
やることなすこと、研吾にとってはお子さまの恋愛遊戯だ。
「下手くそか」
しょげた顔を見上げて思わず笑うと。
視界が、暗くなった。
「……あんまりかわいく笑うと襲っちゃうよ」
ぎりぎり触れない距離で紡がれる言葉は、唇をくすぐる。
身じろぎできずにいると、少ししてから斗南は顔を離して、それから楽しそうに笑った。普段見せない、うっとりと酔うような、心の奥の喜びを晒す笑み。
震えた背筋がどうしようもなくなって、顔をうつむける。止めていた呼吸は、細く少しずつ再開する。早すぎる心拍は、それだけは対策のしようがない。
正常を欠いてしまう危機感に、必死で頭を回す。
「何で、いる……んだ?」
回した結果、掠れた声で間抜けな質問を呟く。
「え、もう何回かこの時間に来てるよね? 火曜は遅い講義あるから、片付け手伝うのにちょうどいいみたいな話、しなかったっけ?」
記憶がある。あるからこそ、研吾は深く眉間に皺を寄せる。
あの日の事故と同じ。
斗南は研吾の警戒心を刺激しない。
日向に勝手に寄ってきて、甲羅干ししているカメのように。いつの間にか近くにいて、いつの間にか共有する時間を増やしている。
「──マスター、参照点依存性って知ってる?」
あの宣言の夜と同じ。
斗南は研吾を時折すくませる。
斗南の、あからさまに今思いついた素振りなど関係ない。今この瞬間、その言葉を聞いたことに、呼吸を取り戻したはずの喉が再び強張る。
「ええっと、ざっくり人間の基準は相対的って話。例えば供給に対する満足度は、やっぱりそのままじゃ落ちる。プラスでしか人は得を感じないんだよね」
まるで教科書をそらんじるように、斗南の語りはたどたどしい。
「なら供給を増やすしかなくて。で、おれもマスターと話せる時間増やしたくて」
研吾は忘れていた。カメは食性が幅広いことを。草食、雑食、肉食。呑気だと眺めているそれがどういった性質なのか、考えもしなかった。無警戒に餌をやろうとしていた指は、まだ無事なのか。
「……あれ、もしかして迷惑だった?」
当たり前みたいに研吾がわたしてしまったサンドイッチの箱を、斗南は抱えて少し不安げにしている。急にその可能性に気付いた様子で。
斗南は、いつだって素直だ。
そこに揺るがされる恐怖を感じているのは、研吾の勝手な自意識だ。
ズレた参照点、──満足の基準値を変えたのは誰なのか。いつの間に、変わってしまったのか。
研吾の名前が知られてしまうまで、あとどれくらいなのか。
考えなしに伝えられた告白の先を、研吾は考えかけている。
結




