蛇足『とある晩夏の雨の日に』
ゆるーいおまけ
「降ってきたか」
耳に届いた雨音に、研吾はカウンターの厨房側に立ったまま顔を横向けた。入り口ドアを見やって、ガラスの向こうに白くけぶる街を確認する。
斗南も定位置であるカウンター席から眺め、これじゃ帰れないなと機嫌良く目を細める。今日はタイミング良く、他の客がいない。この時間は長い方が素直に嬉しい。
カランと、飲み干されたアイスコーヒーのコップの中、氷が溶けて崩れる音が響く。
「マスター?」
ふいに店奥に引っ込んだ研吾に、斗南は疑問を込めた呼びかけを投げる。
そこに入店を知らせるドアベルが鳴って、斗南は顔の向きを反転させた。
男が二人、突然のにわか雨に追い立てられた様子で入ってくる。
「タイミング悪かったね」
後続の男に声をかけたのは、平均体格よりやや細身の男だ。ゆるいパーマの茶髪で雰囲気は若いが、斗南からはマスターより年上に見えた。かけていた眼鏡を外して、雫を服の袖で拭おうとしている。
「レンズを、服の袖で、拭くな」
眼鏡はもう一人の男に奪われた。険のある眼差しをしている男の特徴は、何よりイケメンであることだ。体格が良く、髪はグレイ系に染め、服装やファッションにも隙はない。
でも多分身長だけならおれが勝ってると、斗南はささやかに内心で張り合う。
なにせここは片想い中の人の店なので。
「いらっしゃい。良かったらどうぞ。そっちの彼の上着は、これ使って」
その想い人はタオルとワイヤーハンガーを手に、いつもの完璧な接客に努めている。
系統は違うが、顔ならマスターが張り合えるので、斗南とタッグでこの勝負はドローと、ゆるゆるのレギュレーションで斗南はあくまで呑気だ。
「すみません。お借りします」
「寒かったら室温上げるよ」
「キリヤ君どう?」
「平気」
「大丈夫です。でもコーヒーはホットで頼もうか」
二人は並んで、カウンターの手前側の二席に腰掛けた。
研吾は厨房側に戻り、向かって右を年上、左を年下と捉える。
「ブレンドコーヒー二つと」
「軽く腹減った」
「え、今ラーメン食べたよね……?」
「サンドイッチ系なら大体すぐ。ホットサンドはちょっと、パスタはそれなりにかかる」
「パスタは何ある?」
「ナポリタン、ボロネーゼ、和風」
「ホットサンドでガッツリしたヤツは?」
「ベーコンチーズピザ」
「それで」
「軽くとは……?」
年上側からの驚愕が滲む合いの手に、研吾は思わず笑みをこぼしながらオーダーに応じる。
先にコーヒーを二杯供してから、ホットサンドの調理にかかる。
「あそこのクリーミーとんこつ食べてきたの?」
焼きの工程で後は待ちになったところで、研吾は話題を振った。
「ああ、知ってます? 午前中やってたテレビでまんまと釣られて」
「うまかったが、替え玉って店じゃねぇな」
「やっぱり食べ足りてなかったのかぁ」
研吾は不躾にならない程度に二人に目を走らせる。年の離れ、方向性の違い、平日の午後に現れた男二人。
「この後はもう帰宅?」
「せっかく来たんでぶらつくつもりだったんだけど、この雨です」
「それなら」
手元のホットサンドプレートを、ひっくり返す。
「トナミ」
退屈そうだった斗南が、バネでも入っている勢いで背筋を伸ばす。見開いた目と視線を合わせて、研吾は雑誌のラックを指さす。
「タウン誌の夏号取って」
立ち上がる斗南の背中が珍しく真っ直ぐだ。相変わらずの素直さに、差し出された冊子を受け取った後、研吾は逆の手を伸ばした。
「悪いな」
軽く二度、頭の上で手を跳ねさせる。斗南は固まった。客の二人はその様子をすべて見ている。
「この辺のタウン誌で、この号は雨の日特集。渋いのなら、雨の庭が良い神社とか──」
研吾は冊子を開いてカウンターに置く。椅子の位置を寄せて、男二人は記事を覗いた。
斗南はしばらく、固まったままだった。
※ ※ ※
「結局おれは何に使われたの?」
乾杯の後、開口一番に問われ、研吾はグラスから口を離した。
「それの褒美の今日だろ」
「ご褒美は嬉しいけど、おれはまず納得してない!」
斗南はうまく言葉にできなかったが、求めるところはさしずめ対価と権利だ。利用された対価と、理由を知る権利。
「あの二人の接客のために、おれを使ったんだよね?」
あの日初めて『トナミ』と名前を呼ばれた。その上、雑だとしても頭を撫でられた。あの後バイトがあったので帰らざるをえなかったが、これはもう名前を教えてもらえるのではと翌日行ったら。
『あぁ、悪い。あの客向けの演出だ』
弄ばれた!と散々訴えてどうにか今日の食事に繋がったが、名前は未だ教えてもらえていない。何なら連絡先もまだだ。定休日の喫茶店前で待ち合わせて、言われるがまま移動し、気づけば個室の料理屋だ。
斗南が知るものより部屋が広くて、畳が青く、調度品も良い。隣の声も聞こえない。
二人きりなのは喜ぶことだが、斗南は少し落ち着かない。
「まぁ、雰囲気緩めるのに協力してもらっただけだ。──あの二人、多分恋人だったからな」
その一言に、斗南は箸を止める。
「何で?」
「……絶対悪用するなよ」
言って研吾が語るのは、斗南の知らない目線だ。
まず入店の際。
若い男と中年男に、濡れ方の差があった。若い男の方が随分濡れていて、手に持っていた上着も中のTシャツもびっしょりだった。対して中年男の濡れ方は軽く、パーマの髪もさほど水気がない。
「つまり若造の方が上着を中年のカッパがわりにさせたんだろうよ」
「おじさんの方が風邪ひいたら大変だからとか」
「俺を真っ直ぐ見ながら言うな」
次に椅子の座り位置。
中年男をゆるく引き留めて、若い男が奥側に腰掛けた。若い男の左に、中年男を座らせた。
「男は利き手側を空けて座ることが多い」
「それはさすがにこじつけじゃない? おれ彼女をそんなふうに扱ったことないよ」
「そんでお前の視線を、若造が座っただけで妨害できる位置。お前のお子様恋愛遍歴は知らん」
そして会話。
「午前中にやってたテレビ見て、すぐ一緒に動けるのなんざ、完全に一緒に住んでるだろが」
「……いや、親戚とか」
「対極レベルに似てなかったろが」
とどめに。
「揃いのイヤーカフしてた」
「確定だ!」
「お前にああいう構い方した後、それが当たりそうなくらい頭寄せて冊子見てた」
「それはおれ、記憶がない」
なにせ斗南の心境はそれどころではなかったので。
「うわぁそっかぁ。おれとマスターくらい年離れてたよね」
「喜ぶな。参考にしようとするな」
「全然気づいてなかった」
「まぁあからさまにしてる奴らは日本の日常には少ない。……にしてもお前、その洞察力で何で俺のこと気づいた?」
「え。あ、えーっと……」
研吾の性的指向に男が含まれると悟った、あの奇跡的な一幕に言及されていると分かって、斗南は珍しく考える素振りで難しい顔をする。
「おれ、あんまりうまく言えないから全部経験談の例え話になるけど」
「経験談の例え話って何だ。実際の話なのかそうでないのか、どっちだ」
「満員電車に乗るとおれ、浮くんだよね」
「聞いてねぇな。ま、そうだろな」
物理的な話ではなく、存在的な話。猫背になりようがない満員電車では、斗南の長身はあからさまに全体平均より大きい。
「それでよく柱扱いとかされたりするんだけど」
「……苦労してんな」
背が高いなりの苦労もあるとこの時初めて考えて、研吾は珍しく労りの言葉をかけた。
なお斗南は大して苦労とも思ってないので、研吾に優しく言葉をかけられた事実だけが残る。
「なんていうかな、もたれ方にも種類があって」
大別すると、嫌な感じの人とその他と、斗南は捉えている。
斗南を本当に柱扱いする者。人間として扱った上で遠慮のない者。斗南の体格の良さに敵意を持つ者。
流されるままもたれている者。避けられなくても、できるだけ斗南に負担をかけないようにする者。
「──その中で、たまに女の子がする反応があって」
研吾の箸が止まる。
「正面に来た子が多いかな。すっごい頑張ってどうにかもたれないようにしてたりするから、そういう時おれ『イヤじゃないなら、もたれてもいいよ』って言うようにしてて。そしたら、それでもたれかかって来る子の何人かに一人、なんかすごく急にリラックスする子がいて」
研吾はずっと動きを止めている。
「何だか考えたことなかったけど、マスターに触れた時に連動で、『あ、この人おれアリなんだ』って急に分かった感じで」
研吾が額に手を置いている。
「マスター? どうしたの?」
「黙れと言いたい」
「マスターが聞いたのに!?」
結




