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前編

「ねぇ、マスター」

 湯気ののぼるコーヒーカップを前に、夏川斗南(なつかわとなみ)は大きな背を丸めて頬杖をついた。呼びかける声は、客が途切れた静かな店内で、カウンター向こうの男へと届く。その凛々しい眉の下の、茶色の濃い瞳が自分に向けられたことを確認してから、続けて口を開く。

「おれマスターのこと好きみたいなんだけど」

「ハッ、コピルアクでも淹れるか?」

 カウンターから投げられた告白に、皿を拭く男──この喫茶店のマスターは鼻で笑って返した。

「コピルアクって?」

「ジャコウネコのフンから採取したコーヒー豆」

「……その心は?」

「控えめに言って」

 ラックに皿を置いてから斗南に戻した男の目は、ひどく冷めている。

「──クソくらえ」



  ※ ※ ※



 賑わう大学食堂にて、斗南は友人と向き合っていた。

「いやまじすごいでしょ? 人生で『その心は』とか言う機会あるとは思わなかったぁ」

 つるりと目前で、友人──藤井(ふじい)の割り箸からうどんが落ち、汁が少し飛び散る。

「は? え? 今失恋の話されてる?」

「まじでうける」

 斗南は言って、カツ丼を頬張った。

「待て待て、あそこのオマエがよく行くカフェのマスターって男前って言って……オマエ、そういう?」

 なんだか落ち着きをなくした藤井を見つめ、斗南はゆっくりとした咀嚼を続けた。数秒のちに飲み込み、ようやっと反応を返す。

「そういうってどういう?」

 斗南には藤井の動揺の原因が分からなかった。

「男が……好きなの?」

「さぁ」

「さあ!?」

 なにか小さく問われた一言にあっさり返して、斗南は首を傾げる。

「え、だって自分の守備範囲とか分かってる?」

「二十年も生きてりゃ分かるだろ!?」

「えー。今お騒がせのあの熟女女優、いける?」

「え。……好みではないけど、……一晩とかならアリよりのアリ」

「おれはちょっと怖くてむり。じゃあ大失恋かましたあの子といたせるってなって、そこに見学者十人いたら?」

「無理だろ! そんな特殊性癖ねぇよ!」

「おれも。結局TPOで男なんて使い物にならなかったり、思わぬ暴走するんだから、守備範囲とかよくわからなくない? 別にケースも精々両手の指の内じゃん。えーっと……そうそう、サンプルサイズ少なすぎ」

「恋愛傾向で統計学用語持ち出すやつ初めて見た……」

 衝撃だったのか、おかげで逆に落ち着いたのか、藤井が食事を再開するのに合わせて、斗南もカツを口に放り込む。肉は薄っぺらいが、出汁でベチャベチャの衣が斗南は気に入っている。米と卵も追い討ちで掻き込めば、食感や食材の味がごちゃごちゃに混じって雑においしい。

「いやっ流されかけたけど、それでオッサンなのは逸脱率高すぎるだろ! エラーだろッはじけよ!」

 汁を飲み切ったプラスチックどんぶりをトレイに叩きつけ、藤井が叫んだ。会話であってある程度セーブされているとはいえ、いくらか注目を集めている。外れの端の席でさえ、さすがに大っぴらに話す話題でもない。どう収めたものかと思いながら、斗南は口の中のものを飲み込む。

「神の見えざる手による介入が」

「おれらのとーちゃんアダム・スミスも全力で宇宙猫顔になるわ。機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナとちゃうぞ」

「……でうす?」

 経済学部鉄板ネタ、経済学者アダム・スミス提言の『神の見えざる手』を全力で誤用した誤魔化しが、よく分からない返し方をされた。おかげで斗南は最後のカツの一切れが口に入れられない。

「あ、うん、すまん。古い演劇でむちゃくちゃな展開になってもちゃぶ台返しで全部収拾してくれる夢オチならぬ神オチって手段があって、神の見えざる手はそこまで万能ちゃうわっていう」

 何だか焦りのある早口解説に、なるほどと斗南は感心する。

「すげぇインテリ返し、さすが数式で今死にかけてる生粋の文系」

「……経済学部って何で文系扱いなんだろぉ」

「罠だね。おれは何の問題もないけど」

「この理系崩れが!」

 文系進路として提示される経済学部ながら、実は普通に理系並みの高校数学が必要とされる。それと知らずに入学した藤井のような純文系は、初年度から数式に苦しめられている。

 そんな中、物理は良いが、地学と生物が嫌いで理系を離脱した斗南は涼しい顔だ。

「おやおや、おれにそんな口きいていいのかね、藤井くん。さっきのマクロの授業、板書に追いついてない様子だったけどぉ」

「のちほどノートお貸しくださいませ、文系男子の救世主さま!」

「なら失恋して悲しいからって、なんかオモロイ話しろとかムチャぶりやめてな」

「そういや発端、オレだったわー……」

「関西のやつらって何ですぐオチとかオモロイ話とか言い出すの?」

「ほんとっ、ほんまにっ、すいません!」

 実際、あまり考えずに口にするタイプの斗南は何度か藤井に「で?」と言われたことがある。コント的なノリのやりとりはまだしも、話題にオチをつけろはムチャぶりだ。

 平身低頭、謝りだした藤井を前に、斗南はようやく最後のカツを口に入れた。

 その時、視界の端に知り合いの姿を見つける。視線が合って、トレイを抱えて近寄ってくる。

「──なぁなぁッ、『天落』閉店したの知ってた!?」

 『天落』、商店街脇へ入ったところのラーメン屋だと斗南は記憶を掘り起こす。興奮している知人のトレイに乗っているのもラーメンで、どうやら遅い昼食は空振りで外から帰ってきたかららしい。

 藤井の隣に腰掛けた知人を前に、斗南はぬるい水をゴクリと飲み干して口を(から)にした。



  ※ ※ ※



「──閉店した人気ラーメン店の謎?」

 木目の内装を、ステンドグラス調のペンダントライトが暖かく照らす。店内はテーブル席が二つ、カウンター席が五席だけで狭い。それでも客の入りは夕方の割にいい方で、思い思いの席で静かに時を過ごしている。

 そんな空気を壊すのは──カウンター席でマスター相手に話しかけ続けている斗南だ。

「そう。不思議じゃない?」

 『天落』は斗南の通う大学の学生愛用の、山盛り系ラーメンだ。斗南も一度行った。確かに味はおいしかったし、行列もできていた。ただ周りと食べるスピードが違い過ぎて困ったので、それ以来行ってはいない。

 そんな人気店の突然の閉店。

「大将のご不幸とかかなぁっておれらは」

 SNSアカウントは生きていたが、特にお知らせはなかった。あれから続々と常連だった学生も話に加わったが、誰一人事情を知るものはいなかった。

 不思議だと、斗南はマスターに繰り返し言いながら、その実大して不思議がってもいない。

 個人店の経営がどうなっているかなんて、客には分からないし、店主の個人的事情ならなおのこと知るすべなどない。なので斗南は、そのラーメンをもう食べることはできないという事実だけを受け止めている。つまり理由については考えても無駄というスタンスだ。

 それでもここでこんな話題を振っているのは、完全に話のタネに使っているだけだ。

 多分三十歳を過ぎたくらいの男相手に、斗南が興味を引ける話題はこれくらいしかない。

 予測通り、斗南の内心よりはきちんと考える素振りを、マスターは見せている。腕を組み、顎先を指で撫でている。

 こちらに注意がないのを良いことに、斗南はじっくりと男を観察する。

 黒一色で揃えられたシャツとパンツ、それから腰巻きのエプロン。シャツの袖はまくられており、肘の先、腕の途中から手首があらわだ。筋張った男らしい腕と手で、斗南はそちらの方こそ不思議に思う。

 自分がなぜ──なのか。

「SNS、覗いてたら多分そのうち良い知らせあるとは思うが」

「え?」

「ん? 食いたいんだよな?」

「あ、うん」

 知人たちがと、斗南は他人事でうなずく。

「多分、ミクロ以前の問題だろうな。経営学とか、商学とかですらなく」

「……どういうこと?」

「外したら恥ずいから言わない」

 そう言って浮かべるのは、言葉とは裏腹に自信を含む意地の悪い、もったいぶった笑みだ。でも柔らかく、愛嬌のようなものがある。そういう笑顔一つに垣間見える深さを、斗南はより不思議に思う。

 斗南の告白はあれほどバッサリと切って捨てられた。なのにマスターとして向き合えば、男は平然と斗南を客として──年若くも馴染みの相手として心地よく扱ってくれる。

 明確な拒絶、完璧な接客。どちらにも隙はなく、斗南の感情は丁寧に行き場を奪われている。

 男はどこまでも理性的で、どこまでも堅固だ。


 あの一瞬の逸脱が、嘘だったかのように。


 ──あの日のことは、ちょっとした事故だ。

 カウンターを拭くマスター、話しかける常連、そのタイミングで入店した別の客。

 全部重なってよそ見しながら動かしたマスターの手がグラスを倒しかけていて、それに斗南が気付いた。

 だから台拭きを持つ手首を押さえ、安全のためにグラスも持ち上げた。すべてを背中から抱き込むように行なったことに他意はない。たまたまトイレから戻った時の、背後にいるタイミングだった。身長が高いがゆえの選択で、それが一番直線的で早かった。

 急接近にマスターは身体をすくませた。男が男に背後から抱かれる形になれば当たり前だ。

 斗南は親切とはいえ不躾さを謝ろうとして、──振り返った男の表情に悟ってしまった。

 近く覗いた、思ったより明るい茶色の瞳。そこに斗南が予感した反射的に出る恐怖や警戒はなかった。ひどく無防備な、安らいでさえいる表情。受け入れることを知っている眼差し。

 過ぎた数秒。狼狽に歪んだ表情は、見間違えかと思うほど一瞬だった。

 小さな礼の言葉を斗南に告げ、自然に身体を逃がしてマスターは接客を再開した。

 何事もなかったかのように、日常は戻った。

 ただ、一滴の色が斗南の心に滲んだ。


 この人は、自分が性的対象になる。


 それは多分、奇跡的な、マスターが一つも望んでいない以心伝心だったのだろう。

 今じっと観察する男に、そんな気配を欠片も斗南は見つけられない。

 ドアベルの音が響いて、男の精悍な顔が逸らされる。

「柿本さん、いらっしゃい。そっちの席でいい?」

 斗南ののろく開いた口は、話の続きをふることもできずに閉じる。語りたい相手はもう他の客の元へ行ってしまった。

 斗南はコーヒーを飲み干し、伝票を取った。



  ※ ※ ※



「でさァ、専門のトモダチ呼んでご飯食べるんだけど、ナミくん来ない?」

「トナミくん、今フリーだよね。ナースのたまごチャンとかいるよォ」

 扇状に円錐になった大教室の一角で、端の席に座った斗南は他学部の女子に囲まれていた。ちょうど講義の入れ替わりで気付かれた形だ。

 ちなみに隣の藤井からは、嫉妬の眼差しで睨まれている。

「いいよ、いつ?」

「来週末の金曜」

「あちゃぁ、ごめん。最近居酒屋バイト始めて、休前日はむりだ」

「えェ、マジ、うそォ」

 残念そうにしながらも、彼女らも次の講義があるため、やがて教室を出ていく。

 静かになってから、藤井は不服げに呟く。

「何でオマエ、モテんの?」

「結構失礼じゃない?」

 さすがに言外のマイナス評価を感じ取って、ゆるく斗南は藤井を睨む。

「だってオマエ、なんか、こう、ザ・イケメンみたいな感じじゃないじゃん」

「うーん。言われたことあるのはガッついてなくて安心できるとかかなぁ」

「オレは今傷ついた」

「自傷だね」

「……かもしれん」

 別に斗南に意図などない。なのにわざわざないところから言葉のナイフを拾って自分に刺し、凹んでいる藤井が斗南はよく分からない。被害妄想が過ぎる。

「あとは身長高いわりに怖くないとか」

「ああー、それは分かる。たまにオマエがデカいこと忘れる。近づいて行きながら、『あっ、思ったよりデカい』ってなる」

「おれ、猫背だしね」

「そうそう、こうやって座って並んでると忘れる」

 そんな会話をしているうちに教授が来た。話を止めて、ベルで始まる講義に集中する。

 高校までとは違って、大学の一コマは長い。二年目になって慣れはしたものの、時々意識がはぐれることもある。

 経済学部は簡単に言えば、金の巡りを学ぶところだ。横で藤井が頭を抱えている数式も、金の順路を考えることに用いられる。国家的な大きな枠組みをマクロ、企業や個人などの小さな枠組みをミクロとして捉えている。

 『ミクロ以前』と、斗南は言われた言葉を思い出す。

 消費者行動理論、生産者行動理論、市場均衡。ざっくりと浮かべるそれらが関係のない、人気ラーメン店の閉店理由。

「昼後の講義ヤバいわ。ねむすぎ……」

 終わりのベルと同時に藤井が机に伏せる。

「次、三木教授だから移動早くしないと、真ん前座ることなるよ」

「ヤベ、真ん前であのアルファ波は安らかにいける自信ある」

 だらだらしつつも最大限急いで廊下へと出る。

「──斗南っ!!」

 大声で呼ばれ、斗南は藤井と揃ってそちらに顔を向けた。



  ※ ※ ※



「もう閉店だぞ、お客さん」

 その日、斗南が喫茶店に顔を出したのは、客もおらず、そろそろ店じまいというタイミングだった。ドアベルを鳴らして入った斗南は、背中に普段より重そうなリュックを背負っている。言葉は無視してずんずんと店に踏み入り、そこから取り出したものをカウンターに並べていく。

 種類も雑多な、缶ジュースやペットボトル飲料だ。

「……うち飲食店なんだが」

 カウンターを拭いていたマスターは、それを見つめて状況が分からずに動きを止める。

 飲食店に飲料を持ち込むのは普通にマナー違反だ。

「感謝のしるし」

「……という名の嫌がらせ?」

「え、何で?」

「何でが何でか、ちょっと一から話してもらえるか?」

 眉間に(しわ)を寄せているマスターに、斗南は顛末を語った。

 これらは斗南からの感謝ではなく、斗南の先に無数にいた、ラーメン店『天落』の愛好家からのものらしい。マスターからの話を広めた結果、希望を捨てずに『天落』アカウントに張り付いていた面々が、移転のお知らせという新しい投稿に沸き立った。

 結果、大学生らしいノリと勢いによる感謝の手段で、今ここにジュースが並んでいる。斗南はその運び屋になっただけだ。

「いやそこは客で来いよ」

「うるさくするからダメ」

 斗南はここに知り合いを呼ぶ気はない。ここは斗南の居場所だ。

「にしても感謝がジュースとか、困るだろ」

「飲まない?」

「甘いのは飲まない」

「そっかぁ」

 なら仕方ないと並べたジュースを斗南は再びリュックに回収し始める。コーヒーがなかった辺り、気遣われたのかどうなのか、マスター側からは判別つかない。

 ため息を吐きながらも、清掃を再開する。

「移転だっていうのが、予想してたこと?」

「まぁ」

「何で分かったの?」

 合間に切り出され、閉店作業の手は止めずにマスターは応える。

「人気店になって起こるのは良いことだけじゃない。行列に違法駐車。遅くまでやってたなら騒がしさも、周りからは嫌がられただろうな」

 マスターが床を掃こうとする動きに合わせて、斗南は椅子をどける。

「変に商店街近くだ。大家はもともとそっちと仲良くしてるだろうし、どっかで決裂したんだろ」

 ラーメン店側としては、色んな労力を考えるとできればその場所のまま続けたい。近隣住民や商店街に配慮しながらどうにかこうにかと交渉を続け、ぎりぎりまでねばって、結局契約更新ができない事態に陥った。だからこその急な閉店、だからこその遅れてなされた移転のアナウンス。

「……人流的には、人気店を起点に商店街の再興とか」

「馬鹿だな。落ちぶれるには理由がある。そして歳を取ると人は余計に新しいものを受け入れなくなる」

 斗南はシャッターが閉まったままの店舗も多い商店街の様子を思い出す。

「経済なんて呼び方で金回りを俯瞰するのは良いが、結局そいつを回すのは人間だ。人間が不合理なもんだってことを忘れると、痛い目を見るぞ」

 何でもないことのように言って、マスターは掃除用具をしまいに一度引っ込む。

 なんだか、斗南はもやもやした。

 戻ってきたマスターが笑う。

「変な顔してるぞ」

 全部顔に出ていた。

「なんか、ちょっと、……いや、結構」

 顔には出ているのに言葉にはならない。

 数式を習う。人の選択を数式で予測する。価格変動と需要の相関を数式で表す。企業の利益を最大化する方法を数式で算出する。

 それがすべてではないと当然斗南も頭のどこかにはあった。この世はもっと曖昧で不確定なものだと。

 その上で今、斗南はその感情を抱いている。

「──それをやるせないって言うんだよ」

 あっさりとマスターは言ってのける。斗南とは違うちゃんとすべて飲み込んだ少し諦めた目で、それでも笑っている。

 目の前のこの人は、知っているのだ。感情も経験も持った上で、それらを定義し、分析し、いなす知恵を持っている。

 斗南の抱いていたもやもやがかき消えて、一つの形あるものが残った。

 マスターが厨房側からカウンターを出てくる。その手にはケーキの箱がある。

「残りもんだがサンドイッチ持って帰るか?」

 中にはサンドイッチが入っていた。店で出す用にテイクアウトしたケーキの空き箱だ。夜食にする予定だったサンドイッチは雑な造りだが、食べ盛りの大学生には何の問題もないだろうとマスターは箱を掲げて見せる。心ばかりの、感謝らしきものを運んでくれた対価だ。

 斗南の両手が、箱に添えられる。

 そっと持ち上げて──それから横のカウンターに置いた。

 マスターはケーキの箱の行先を目で追って、どういうことか分からずに目を瞬く。戸惑っているうちに、ふいに身体を包み込む熱があって硬直する。正面に戻した視界は暗く、いつの間にか近づいていた影は大きい。

「おれやっぱマスターのこと好き」

 急速に確定した感情に、斗南は従った。

「……ふざけて」

「ないし、マスターがゲイかバイだって知ったからってからかってもない」

 はっきりと断言すると、ゆるく回した腕の中で男は身を強張らせる。

 あの事故が発端だ。

 可能性があると──意識されていると悟って、斗南も意識し始めた。けれど何だか自分のことながらよく分からなくて、だから手始めに告白したり、話す時間を取ろうとした。

 今は、意識はしてもはっきりしなかったものが、はっきりとした形になった。

 原因と結果を直線で結ぼうとしたり、不変の公式を求める方が、感情を分析する上では間違っているのなら。

「いつまでも本気にしてくれないなら、痛い目見せる気あるよ」

 相手を抱きしめたいという衝動があって、自分より深い知性をかっこいいと思う感情さえあれば、それで恋する理由には充分だ。

「……馬鹿言うな。親のすねかじり坊っちゃんが」

 普段冷淡なほどの拒絶を吐く声が、少しかすれている。

「それは大学出たら付き合ってくれるって約束?」

「冗談。選考にも値しないって宣告だ」

「大学出たら選考には値するんだ」

「全部ポジティブに返すな……っ」

 斗南は無害そうと女子によく言われる。

 実際、無害であるとは、付き合った彼女に言われたことはない。そう、勝手に思われているだけだ。斗南はわりと直情的だ。単にとても火がつくのに時間がかかるだけで。

 どんなに言っても、今この瞬間マスターは斗南から逃げようとしていない。

 だから斗南は少し圧を加える。マスターはあっさり体勢を崩し、咄嗟にカウンターに手をついた。

 斗南も腕を解いて、親指同士を絡めるように並んで自分も手をつく。自然と身体は寄り、顔も近い。呼吸のぎこちなさが伝わる。ステンドグラスの照明のような、奥に光を湛える茶色い瞳が、揺らいで惑っている。

「とりあえず名前教えて、マスター」

「……この状況で教えると思ってんのか」

「おれはトナミって呼んで」

「……名字、か?」

「ねぇマスター」

 斗南はトロいとよく言われる。逆に言うと、周りに急かされても絶対に自分のペースを変えない。

「今は駄目なら駄目でいいし、選考は大卒になってからでもいいから」

 だからこそ動き出したら、周りに配慮して止まることもしない。


「──今から全力で口説かせてね?」


 いつも眠たそうだった瞳の強さに、マスターは──マスターである岸研吾(きしけんご)は、背中を震わさずにはいられなかった。


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