第8話:創造主の断片
──兄妹という鏡
店内に漂う空気は、日に日に密度を増している。棚に並ぶ瓶たちが放つ微かな羽音のような振動が、耳の奥にこびりついて離れない。
その日の依頼人は、若くして家業を継いだという青年だった。
「……妹の記憶を、消してほしいんです」
彼の言葉に、俺の指先がぴくりと跳ねた。店主は、感情の読めない瞳で青年を見つめている。
「妹さんは、亡くなられたのですか?」
「いいえ。……生きています。でも、彼女は重い病で、私のことさえ分からなくなってしまった。献身的に尽くせば尽くすほど、彼女の虚ろな瞳が、私の人生を呪いのように縛り付ける。……彼女を愛していた記憶がなければ、私はもっと楽に、彼女を施設へ預けて自分の人生を歩めるはずなんだ」
青年の言葉は、身勝手なようでいて、切実な悲鳴だった。
店主はしばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。その動作はいつになく緩慢で、どこか危うい。
「……愛情を捨てることは、己の魂の形を削ることに他なりません。それでも、あなたは『空っぽ』になることを望むのですね」
──連鎖するフラッシュバック
抽出が始まった。
瓶の中に流れ込むのは、幼い頃に手を繋いで歩いた夕暮れ時、喧嘩をして仲直りした時の照れ笑い、そして、病室の白いシーツの上で、色が抜けていく妹の横顔。
その光を見た瞬間だった。
店主の身体が、激しく小刻みに震え出した。
「……あ、……ぁ……」
店主の口から、掠れた声が漏れる。
同時に、俺の視界も歪んだ。
店内の風景が、雨の降る国道へと上書きされる。
――激しいブレーキ音。
――回転する視界。
――「お兄ちゃん」と呼ぶ、幼い、けれど確かな声。
「店主!?」
俺は叫んで、倒れそうになった店主の肩を掴んだ。
その瞬間、俺の手を伝って、冷たい氷のような感触と、煮えたぎるような後悔の念が流れ込んできた。
店主の瞳の奥に、一瞬だけ「創造主」ではない、ただの「人間」としての絶望が宿った。
視線の先にあるのは、店の奥に置かれたあの、ラベルのない白いアルバムだ。そのページが勝手にめくれ、白く濁っていた写真の一枚が、一瞬だけ鮮明な色彩を取り戻す。
そこには、店主とよく似た面影を持つ、一人の少女が笑っていた。
──薄れゆく肖像
抽出が終わり、青年が虚ろな表情で店を去った後も、店主はカウンターに突っ伏したまま動かなかった。
「……今の、見えましたか」
店主が、顔を上げずに呟く。
「妹が、私を呼んでいました。……いや、私を呼んでいたのは、あの日からずっと、彼女だったのかもしれない」
店主が震える手でアルバムを開く。
そこにあった少女の姿は、先ほどの鮮明さを失い、またしても霧のように薄れ始めていた。
「消した記憶の質量はどこかで補填される。……私が彼女の『死の悲しみ』をこの世界から消し去ろうとした代償として、彼女の『存在そのもの』が、世界から削り取られていくのです」
店主が俺を見上げる。その頬には、初めて見る一筋の涙の跡があった。
「……あなたは、あの日、私の隣で何を見ていたのですか?」
その問いに答える言葉を、俺は持っていなかった。
左手の薬指の、白い日焼け跡が。
心臓を貫くような、鋭い痛みを放っていた。




