第9話:共犯という言葉
──分かち合えない罪
その夜の依頼人は、どこか卑屈な笑みを浮かべた男だった。
彼はある汚職事件に関与し、自分だけが罪を逃れるために、主犯格である上司との「密約の記憶」を消し去りたいのだという。
「私が忘れれば、あの日交わした約束も、裏金を受け取った感触も、すべてこの世から消える。そうすれば、私はもう一度、清廉潔白な人間としてやり直せるんだ」
男の語る「やり直し」は、これまでの依頼人たちが抱えていた切実な悲しみとは異なり、醜悪なエゴに満ちていた。だが、店主は拒むことなく、淡々と準備を進める。
「……店主、こんな身勝手な理由でも受け入れるんですか?」
俺の問いに、店主は抽出用の硝子瓶を磨きながら、感情のない声で答えた。
「この店に善悪の基準はありません。あるのはただ、記憶の質量と、それに見合う代償だけです。……それに、忘れたからといって、犯した行為そのものが消えるわけではない。彼はただ、自分の罪という重石を、誰かに押し付けるだけだ」
──共犯者の連帯
抽出が始まると、瓶の中には濁った泥のような光が溜まっていった。
男が記憶を失うたびに、彼の顔からは焦燥感が消え、代わりに不気味なほど無垢な、子供のような表情が浮かび上がる。
「……ああ、そうだ。私は何もしていない。何も知らなかったんだ」
男がそう呟いて店を去った瞬間、俺は激しい吐き気に襲われた。
誰かの罪を消す手伝いをすること。それは、その罪を自分たちが肩代わりしているのと同じではないのか。
「……ねえ」
店主が、背を向けたまま俺に語りかけてきた。
「あなたは、彼を軽蔑しましたね。自分の責任を他人に押し付け、記憶ごと逃げ出したあの男を」
「……当然だ。あんなのは、ただの逃げだ」
店主はゆっくりと振り返った。その瞳には、射抜くような鋭さと、底知れない寂しさが同居していた。
「では、自分の耐えきれない『後悔』を消すために、他人の存在ごと世界を書き換えた人間はどうでしょう。……それも、同じように軽蔑しますか?」
──檻の正体
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
左手の薬指にある日焼けの跡が、またしても熱を帯びる。
思い出せない「誰か」との約束。あの日、俺が呼ぼうとした救急車。
「店主、あんた、何を……」
「あなたはあの日、絶望に暮れる私に言ったのです。『悲しみを消せるなら、まだ生きていける』と。……そう提案したのは、他でもないあなただった」
店主の手が、カウンターの上に置かれた一際大きな「虚無」の瓶に触れる。
「あなたは私の提案を受け入れ、共に禁忌を犯した。私の妹の死を『なかったこと』にするために、彼女に関わるすべての悲しみを抽出し、世界に代償を支払わせた。……その結果、彼女は世界から薄れ、私は人間性を失い、この店の番人となったのです」
店主の言葉が、鋭い刃となって俺の記憶の封印を切り裂いていく。
俺がこの店で働いているのは、偶然ではない。
俺自身が、この「正しく失うことを拒んだ世界」を創り出した張本人だったのだ。
「あなたは、私の共犯者でしょう? ……だからこそ、私はあなたをここに繋ぎ止め、あなたが売った『責任の記憶』を、この瓶の中で守り続けているのです」
店主の口から漏れたその言葉は、優しさではなく、逃れられない呪縛の宣言だった。
外では、また一つ街の輪郭が崩れ、漆黒の虚無が商店街の奥へと侵食していた。




