表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無銘雑貨店 ~存在しなかった記憶の代償~【完結済】  作者: 伊勢吉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/15

第7話:主人公の違和感

──摩耗する日常


朝、目が覚めると、枕元に置いてあったはずの目覚まし時計が消えていた。

探し回ったが、どこにもない。それどころか、棚の埃のつき方を見れば、そこには「最初から何も置かれていなかった」ことがわかる。


職場へ向かう電車の中でも、奇妙な感覚は続いた。

吊革を掴む自分の左手。そこにあるはずのない日焼けの跡が、まるで火傷のように熱を帯びている。昨日、あの大学時代の知人と名乗る女が言った言葉が、頭の中で反芻される。


『あの日、一緒にいたのは私だよ』


俺は、何かを忘れている。それも、人生の根幹を揺るがすような、決定的な何かを。

だが、思い出そうとするたびに、脳の奥で鋭い針が突き刺さるような痛みが走り、思考が霧に包まれる。


──「普通」を求める依頼人


夜、吸い寄せられるように無銘雑貨店へ足を運ぶと、先客がいた。

疲れ果てた表情の中年男性。彼は、自身の「類まれなる才能」を消してほしいと訴えていた。


「私は、ピアノの才能なんていらなかった。これがあるせいで、家族との時間も、友人との普通の生活もすべて犠牲にしてきたんです。……ただの、どこにでもいる人間になりたい」


店主は、感情を排した瞳で男を見つめていた。


「才能とは、あなたの魂が世界と繋がるための接点です。それを消せば、あなたは誰からも特別視されなくなりますが、同時に、あなたを形成していた輝きの半分を失うことになります」


「それでもいい。……普通になりたいんだ」


抽出が始まる。

瓶の中に溜まっていくのは、白鍵と黒鍵が織りなす極彩色の旋律。それは男の指先から、魂を削り出すようにして引き出されていった。


俺はその光景を見ながら、不意に口を開いていた。


「……消してしまえば、それで終わりなんですか? その才能を愛してくれた人たちの記憶はどうなるんです?」


店主の手が、一瞬止まった。


「……彼らの記憶もまた、世界の『帳尻』に合わせて書き換えられます。最初から、この男に才能などなかったという歴史に。……それが救いだと、あなたも言ったではありませんか」


──鏡の中の空白


店主の言葉には、刺すような棘があった。

依頼人が去った後、店内には重苦しい沈黙が流れる。


「店主。あんたを見てると、胸が痛むんだ」

俺は、隠しきれなくなった感情をぶつけた。

「ただの店主と店員の関係じゃない……そんな気がしてならない。俺は、あんたに何を売った? 俺の左手のこの跡は、誰のためにあったものなんだ!」


店主はゆっくりと立ち上がり、カウンター越しに俺の顔を覗き込んだ。

その顔は、昨夜見せた「激昂」の残滓を微かに残しながらも、今は深い諦念に満ちている。


「……君は、あまりに優しすぎた」

店主は、名前を呼ぶ代わりに「君」と言った。

「他人の悲しみに耐えきれず、自分の責任さえも『悲しみ』として切り離してしまった。……私はそれを買い取り、君の代わりにこの店という檻に閉じ込めたのです」


店主が棚の一角を指差す。

そこには、ラベルのない、透明な液体で満たされた瓶があった。

他の瓶のように光ることも、揺れることもない。ただ、そこにあるだけで周囲の空気を凍てつかせるような、圧倒的な「虚無」の瓶。


「それが、君の半分です」


俺がその瓶に手を伸ばそうとした瞬間、店内の古時計が激しく鐘を鳴らした。

現実と虚構の境界線が、音を立てて崩れ始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ