第7話:主人公の違和感
──摩耗する日常
朝、目が覚めると、枕元に置いてあったはずの目覚まし時計が消えていた。
探し回ったが、どこにもない。それどころか、棚の埃のつき方を見れば、そこには「最初から何も置かれていなかった」ことがわかる。
職場へ向かう電車の中でも、奇妙な感覚は続いた。
吊革を掴む自分の左手。そこにあるはずのない日焼けの跡が、まるで火傷のように熱を帯びている。昨日、あの大学時代の知人と名乗る女が言った言葉が、頭の中で反芻される。
『あの日、一緒にいたのは私だよ』
俺は、何かを忘れている。それも、人生の根幹を揺るがすような、決定的な何かを。
だが、思い出そうとするたびに、脳の奥で鋭い針が突き刺さるような痛みが走り、思考が霧に包まれる。
──「普通」を求める依頼人
夜、吸い寄せられるように無銘雑貨店へ足を運ぶと、先客がいた。
疲れ果てた表情の中年男性。彼は、自身の「類まれなる才能」を消してほしいと訴えていた。
「私は、ピアノの才能なんていらなかった。これがあるせいで、家族との時間も、友人との普通の生活もすべて犠牲にしてきたんです。……ただの、どこにでもいる人間になりたい」
店主は、感情を排した瞳で男を見つめていた。
「才能とは、あなたの魂が世界と繋がるための接点です。それを消せば、あなたは誰からも特別視されなくなりますが、同時に、あなたを形成していた輝きの半分を失うことになります」
「それでもいい。……普通になりたいんだ」
抽出が始まる。
瓶の中に溜まっていくのは、白鍵と黒鍵が織りなす極彩色の旋律。それは男の指先から、魂を削り出すようにして引き出されていった。
俺はその光景を見ながら、不意に口を開いていた。
「……消してしまえば、それで終わりなんですか? その才能を愛してくれた人たちの記憶はどうなるんです?」
店主の手が、一瞬止まった。
「……彼らの記憶もまた、世界の『帳尻』に合わせて書き換えられます。最初から、この男に才能などなかったという歴史に。……それが救いだと、あなたも言ったではありませんか」
──鏡の中の空白
店主の言葉には、刺すような棘があった。
依頼人が去った後、店内には重苦しい沈黙が流れる。
「店主。あんたを見てると、胸が痛むんだ」
俺は、隠しきれなくなった感情をぶつけた。
「ただの店主と店員の関係じゃない……そんな気がしてならない。俺は、あんたに何を売った? 俺の左手のこの跡は、誰のためにあったものなんだ!」
店主はゆっくりと立ち上がり、カウンター越しに俺の顔を覗き込んだ。
その顔は、昨夜見せた「激昂」の残滓を微かに残しながらも、今は深い諦念に満ちている。
「……君は、あまりに優しすぎた」
店主は、名前を呼ぶ代わりに「君」と言った。
「他人の悲しみに耐えきれず、自分の責任さえも『悲しみ』として切り離してしまった。……私はそれを買い取り、君の代わりにこの店という檻に閉じ込めたのです」
店主が棚の一角を指差す。
そこには、ラベルのない、透明な液体で満たされた瓶があった。
他の瓶のように光ることも、揺れることもない。ただ、そこにあるだけで周囲の空気を凍てつかせるような、圧倒的な「虚無」の瓶。
「それが、君の半分です」
俺がその瓶に手を伸ばそうとした瞬間、店内の古時計が激しく鐘を鳴らした。
現実と虚構の境界線が、音を立てて崩れ始めていた。




