第4話:幸せすぎる記憶の毒
──消えない音、消えない色
店先に立っていたのは、泥をかぶったような顔をした男だった。
彼の周囲には、焦げたゴムの匂いと、アスファルトを叩く激しい雨の幻聴が漂っている。
「……助けてくれ。あの音が、耳から離れないんだ」
男は数ヶ月前、凄惨な交通事故の第一発見者になったという。
深夜の国道。ひしゃげた車体。そして、雨の中に広がっていく、言葉にできないほど鮮烈な「赤」。
救急車を待つ間の、永遠とも思える数分間。その恐怖が、男の生活を侵食していた。目を閉じればあの光景が蘇り、眠ることも、まともに食事を摂ることもできなくなっていた。
「それは、あなたが負うべき傷ではありませんね」
店主が、男の背後に立つ。その声は、同情よりも「観測」に近い響きを持っていた。
「抽出しましょう。その記憶は、もうあなたには必要ありません」
──救急要請の「遅れ」
抽出が始まる。
瓶の中に吸い込まれていくのは、暗闇の中で明滅するハザードランプの光と、男の震える指先。
だが、その光景が俺の視界にも重なった。
――あの日。雨。
――スマホを握る俺の指も、同じように震えていた。
――「早く、早くしろ」と自分を罵りながら、番号を打ち間違えた。
――俺のたった数秒の「遅れ」が、誰かの命を。
「……う、っ!」
胸を貫くような鋭い痛みに、俺はカウンターを掴んで耐えた。
視界の端で、店主がこちらを向いた。その瞳には、射抜くような鋭さと、深い悲哀が混在している。
「……あなたは、その『痛み』をどこから持ってきたのですか?」
店主の問いは、逃げ場を塞ぐように静かだった。
──存在しないはずの知人
男の記憶の抽出を終え、彼が憑き物が落ちたような顔で去った後のことだ。
商店街の入り口、あの制服の少女がうずくまっていた場所に、
一人の女が立っていた。そこで彼女は、俺を待っていた。
「……やっぱり君だ。こんなところで何してるの?」
見覚えのないはずの顔。けれど、彼女が俺に話しかけた瞬間、脳内の「空白」が激しく脈打った。
「誰、ですか」
「何言ってるのよ。大学のサークル一緒だったじゃない。……忘れたの? あの事故の日、一緒にいたのは私だよ。あなたが必死に救急車を呼ぼうとしてたの、隣で見てたんだから」
女の言葉に、全身の血が凍りつく。
事故。サークル。救急要請。
パズルのピースが、強制的に嵌め込まれていく。
「君、あの日からおかしくなったよね。自分を責めて、それで……」
「……やめてくれ」
俺は彼女の言葉を遮り、店の中に逃げ込んだ。
──共犯者の視線
店の中では、店主が男から抽出した「赤い記憶」の瓶を、棚の奥深くにしまっていた。
店主は、俺が外で誰と何を話したか、すべて理解しているようだった。
「……私の妹は、雨の日に死にました」
店主が、背を向けたまま呟いた。
「誰のせいでもない。けれど、誰もが自分を責めずにはいられない、そんな日でした」
店主がゆっくりと振り返る。その姿が、一瞬だけ、かつて見たはずの「誰か」と重なった。
中性的で、どこか浮世離れした美しさを持つ店主。
その「妹」を殺したのは、他でもない。
……救急要請を一瞬だけ遅らせた、俺なのではないか?
「思い出してはいけません。……それが、私とあなたの約束だったのですから」
店主の言葉が、呪いのように耳に残った。
世界の歪みは、もはや店の中だけでなく、俺という存在そのものを崩壊させようとしていた。




