第3話:命の重さを天秤にかける
──止まったままの時計
その日の店は、いつも以上に空気が冷え切っていた。
棚に並ぶ硝子瓶たちは、外の曇天を反映したのか、くすんだ灰色に沈んでいる。
カウンターの奥で、店主は一冊の古いアルバムを眺めていた。
俺が近づくと、店主は音もなくそれを閉じる。一瞬だけ見えた。写真の数枚が、まるで水に濡れて滲んだように白く濁っているのを。
「店主、それは?」
「……ただの帳簿ですよ。世界から零れ落ちたものを記録するための」
店主の声は淡々としていたが、その指先がわずかに震えたのを俺は見逃さなかった。この中性的な店主が、初めて見せた「揺れ」だった。
──遺された者の傲慢
引き戸が激しく開き、一人の女性が飛び込んできた。
乱れた髪、充血した目。彼女が抱きしめているのは、小さな、けれど真新しいランドセルだった。
「消して……お願い、全部消して!」
彼女は、一週間前に交通事故で一人息子を亡くしたのだという。
朝、「行ってきます」と手を振った笑顔。玄関に残された泥だらけの靴。好物だったオムライスの匂い。それらすべてが、今の彼女にとっては喉を掻き切る剃刀に等しかった。
「忘れることで、あなたは息子さんの存在そのものを否定することになりますが」
店主の問いかけは、残酷なまでに公平だった。
「構わない! 覚えていたら、私が死んでしまう……!」
店主はゆっくりと立ち上がり、彼女の頭上に手をかざした。
抽出される記憶は、これまでの誰よりも鮮烈で、眩い。
――公園の砂場での泥遊び。
――初めて「お母さん」と呼んだ、幼い声。
――誕生日のケーキを前にした、弾けるような笑顔。
それらは純白の光の結晶となって、大きな瓶を満たしていく。
光が強まるたび、店の中の古時計が不規則に逆回転を始めた。キチキチと、悲鳴のような音が響く。
──禁忌の片鱗
抽出が半分を過ぎた頃、突如として激しい衝撃が店を襲った。
棚の硝子瓶が一斉に鳴り響き、足元から嫌な冷気が立ち上る。
「……っ、うわああああ!」
俺の頭の中に、鋭いドリルで穿たれるような激痛が走った。
視界が真っ赤に染まる。
雨のアスファルト。鳴り響く救急車のサイレン。
そして、誰かが俺の耳元で囁いた。
『……どうして、もっと早く呼んでくれなかったの?』
「やめろ……!」
俺は頭を抱えて蹲った。
店主が鋭い目つきで俺を一瞥し、即座に抽出を中断した。
「そこまでです。これ以上は、この場所が保たない」
──不完全な救済
女性は、夢遊病者のような足取りで店を出ていった。
息子に関する「具体的な記憶」は消えたが、その胸にはぽっかりと、名状しがたい喪失感だけが黒い穴のように残っていた。
「……店主。今の、何だったんだ」
汗を拭いながら俺が問うと、店主はいつになく沈痛な面持ちで、先ほどの白いアルバムを見つめていた。
「死者は、時間の外側にいます。彼らの記憶を弄ぶことは、世界の理に裂け目を作る行為だ」
店主は、アルバムの「白く濁ったページ」をそっとなぞる。
「……私も、あなたと同じ罪を抱えているのかもしれませんね」
その横顔は、初めて「兄」としての悲しみをおびているように見えた。
俺の胸の痛みは、記憶を売った代償なのか。それとも、まだ思い出せない「何か」への激しい自責の念なのか。
外に出ると、商店街の街灯が一つ、音を立てて弾け飛んだ。
世界の歪みは、もう無視できないほどに広がり始めていた。




