第4話 35分
その後も試験は続いた。
通常航行。
姿勢変更。
推進モジュール単独での機動。
AEドライブによる速度同調。
マスリデューサー出力を変化させた際の応答確認。
機体に何ができるのかを、一つずつ身体へ覚え込ませていく。
試験項目が進むたび、数字では知っていた性能が少しずつ手足の感覚へ変わっていった。
もっとも、そのほとんどを実際に制御しているのはパティだった。
グレアムが覚えなければならないのは、何をどう動かすかではない。どこまで要求できるのかだった。
サルースCであれば、機体の限界は身体に染み付いている。
これ以上噴かせれば推進器が苦しい。
これ以上マスリデューサー出力を深くすれば熱が危ない。
あとどれくらい動けるか。
帰りに何を残さなければならないか。
長年乗っていれば、計器を見る前に感覚で分かることも多い。
グラディヴスには、それがない。
限界が遠すぎた。
どこまで行けるのか分からない機体というのは、性能が低い機体とは別の意味で怖い。
余裕があることと、余裕を読めることは違う。
『こちらMRSS管制。グラディヴス、聞こえるか』
突然、通信が入った。
「どうした?」
『至急、ダリオ達の支援に向かって欲しい。マーカスからの指示だ』
グレアムの表情から、試験中の緩さが消えた。
試験用の画面を閉じる。
「対象地点、救助対象のデータをくれ」
『今、送った』
「データ受信しました。モニターに出します」
パティが通信データを展開する。
救難地点。
対象情報。
現在位置からの距離と、必要な軌道変更量。
グレアムは一通り目を走らせた。
場所はフォボス宇宙港。
現在位置から、軌道に沿っておよそ4,000km。
どう考えても近くではない。
救難対象は、火星向け医療品を満載した定期貨物船。
独自の社会を築いた火星でも、医療品にはなお地球圏からの供給に頼るものが多い。この貨物を失えば、その影響は一隻の損失では済まない。
「俺が言うのもなんだが、今から行っても相当時間が掛かる位置だぞ。通常の救難艇なら3時間近い。マーカスを疑うわけじゃないが……」
『だろうな』
サルースCを全力で飛ばしても、簡単には埋められない距離だ。
だが今乗っているのは、サルースではない。
「パティ、どのくらいで着く? 余力も考えろよ」
グレアムは正面表示を見たまま続けた。
「短時間なら機体10Gまで掛けてもいい」
パティが即座に軌道を計算する。
推進剤。
電力。
蓄熱量。
マスリデューサー出力運転余裕。
到着後に必要となる救難作業分の予備。
帰還余力。
必要な数値が画面の上で次々と更新されていく。
「初期加速20秒。到着前減速20秒。現行軌道からの遷移を含め、到着予測は約35分です」
管制側にも同じ数字が送られた。
一瞬、通信が止まった。
数字だけが先に届き、向こうが意味を飲み込むまでの間だった。
『……35分? 何を言ってるんだ』
「残リソース確認。問題ありません」
パティは平然と答えた。
グレアムは口元を上げる。
「だそうだ」
四本の推進モジュールが動き始める。
試験機動のために開いていた四肢が、加速方向へ揃っていく。
「グレアム機、【グラディヴス】。これより現場へ向かう」
『了解。……気をつけろよ』
「救難任務へ移行します」
パティが各系統を切り替える。
試験用表示が消え、代わって救難地点への航路が正面へ伸びた。
「パイロット保護用マスリデューサー出力、加速プロファイルを設定します」
「頼む」
グレアムはシートへ身体を預け、ハーネスの当たりを確かめた。
ほんの少し前まで、10Gという数字は機体性能を確かめるためのものだった。
今度は違う。
3時間掛かる場所にいる人間へ、35分で手を伸ばす。そのための10Gだった。
「行くぞ、パティ」
「はい」
四基の反動推進器が火を噴いた。
グラディヴスは身を翻し、ダリオ達の待つ救難現場へ向けて加速を開始した。
◇
「ダリオ、なんかおかしい!」
「わかっています! くそっ!!」
ダリオとエレナの乗るサルースCは、既に熱限界へ近づいていた。
通報内容は、制御システムの故障による操作不能。だが現場へ着いた時点で、問題は単なる航行不能ではなくなっていた。
定期貨物船は、フォボス宇宙港への最終アプローチ中に制御を失っていた。加速も減速も出来ない。
そして既に、宇宙港への衝突コースに乗っている。
通常なら、フォボス宇宙港そのものの軌道をずらし、制御不能船との衝突を避けることが出来る。
しかし運悪く、今は年次の大規模メンテナンス期間だった。主軌道変更系は停止している。
交通量が少ないのは数少ない救いだったが、それは同時に、この宙域の救難体制まで薄くなっていることを意味していた。
先着したダリオ達以降の後続隊は、まだ現着していない。
『ようダリオ、困ってるようだな』
警告表示が増え続ける中、場違いなほど軽い声が通信へ割り込んだ。
「グレアム、今あなたの冗談に構ってる余裕はありません!」
『もう少しだけ持ちこたえろ、もうすぐ着く』
「はぁ!? 何ふざけた事言ってるんですか!? あなたは今、基地付近で……」
「急速接近する機体……? ねぇダリオ、あれ!」
エレナの声に、ダリオは接近警報へ目を走らせた。
新たな機影が一つ。
速い。
あまりにも速い。
識別情報が表示される。XQA-01【グラディヴス】。
ダリオは一瞬、自分の目を疑った。
見たことの無い機体名。来れるはずのない男の声。
表示上の距離だけが、冗談ではないと告げていた。
『待たせたな、手伝いに来たぞ』
「嘘でしょう、どれだけ距離があったと思ってるんです……?」
『驚くのは後だ。状況を寄越せ』
グレアムの声から、先ほどまでの軽さが消えた。
それに呼応してダリオもすぐに切り替える。
「貨物船の回転はほぼ抑えました。フォボス方向への相対速度も削っています。ただし、止め切れるほどの推力はありません」
『衝突予測は?』
「予測衝突時刻は延ばしました。ですが、このままでは回避不能です」
『十分だ』
「……何がです?」
『俺たちが来るまで持たせた。それで十分だ』
ダリオは一瞬だけ言葉を失った。
その間にも、サルースCの警告表示が増えていく。
「ダリオ、熱! クエンチ危険域来てる!」
「見えています!」
サルースCの固定具は貨物船の船体へ食い込んでいる。
それでも、その巨大な船体はゆっくりとフォボスへ近づき続けていた。
自分達はこの35分間、貨物船を止めていたわけではない。
そんなことは、最初から出来なかった。
出来ることだけを積み重ねて、衝突までの時間を削らせなかった。
回転を抑え。
船体の状態を調べ。
無事な構造材を探し。
そこへ固定具を掛け。
サルースCの推進器を必要な瞬間だけ限界近くまで焚き、MMRと姿勢制御を休ませないまま、ほんの僅かずつ相対速度を削る。
それだけだった。
だが、その僅かな差だけが、衝突までの時間を引き延ばしていた。
「グレアム、データを送ります。船尾側の主構造は生きています。俺達もそこへ荷重を掛けています」
『受信しました』
聞き慣れない女の声が通信へ割り込んだ。
かなり若く聞こえる。
ほぼ同時に、サルースCの共有表示へ貨物船の構造図が開く。
損傷箇所。
荷重を掛けられない場所。
自分達が固定している位置。
そして、新たに示された推奨固定点。
そのどれもが的確だった。
『ダリオ機から受信した船体挙動を反映。主構造の残存強度を推定します』
『どうだ、こいつで押せるか?』
『可能です。ただし、一点へ集中して推力を加えた場合、船体構造を損傷する可能性があります』
『へし折るわけにはいかないからな』
ダリオは貨物船の向こうへ視線を向けた。
フォボス。
火星の衛星であるそれは、今ではただの小さな岩石塊ではなかった。
岩塊の表面を覆い、そこからさらに宇宙へ伸びる無数の人工構造物。
ドック。
倉庫。
居住区。
タンク。
接舷施設。
火星圏を行き交う物資が集まり、また各地へ送り出されていく巨大な物流拠点である。
その一部では、警告灯が点滅している。
衝突予測区画では、既に避難が始まっていた。
本来なら、貨物船一隻が制御を失った程度で、あれほどの施設が慌てる必要はない。
フォボス宇宙港そのものが軌道を変えればいい。
だが今は、それが出来ない。
『貨物船との相対速度を同期します』
再び、女の声。
グラディヴスの四本の推進モジュールが動いた。
高速航行のため後方へまとめられていた四肢が開き、異なる方向へ向きを変える。
前方。
側方。
後方。
それぞれが短く噴射するたび、急速に接近してきた機体から速度が消えていく。
「速い……」
エレナが呟いた。
4,000kmを一気に駆けてきた灰色の見慣れぬ機体が、今度は巨大貨物船の横で、嘘のように細かな姿勢修正を繰り返している。
速いだけではない。
四本の推進モジュールが独立して動き、貨物船との相対速度を一つずつ消していく。
サルースCにも似た動きは出来る。
だが、同じではない。
一つ一つの修正が細かい。
速い。
それでいて、動きに迷いがなかった。
『相対速度、許容範囲』
『よし、固定に入る』
グラディヴスが貨物船へ近づいていく。
ダリオの共有表示にも、先ほど示された固定点が残っている。
『あと3メートル』
『見えてる』
『2メートル』
『……よし』
接触。
グラディヴスの作業用固定具が、船尾寄りの主構造へ噛み合った。
ダリオの表示へ新たな荷重点が加わる。
衝撃らしい衝撃は、ほとんど検出されていない。
『固定確認』
『荷重を掛けるぞ』
『……待って下さい』
また、あの女の声だった。
『ダリオ機の推力と同期します。現在、サルースCは船体の回転抑制も同時に行っています。グラディヴスのみで推力を増加させた場合、再び回転が発生します』
『なるほどな。ダリオ、まだ動けるか?』
「誰に聞いているんですか」
即答した。
「動けるけど、長くは無理! 冷却がもう限界だから!」
エレナが横から釘を刺す。
「……聞いた通りです」
『十分だ。回転だけ頼む。前へ押すのはこっちでやる』
「了解しました」
ダリオは推力配分を切り替えた。
サルースCの四本の推進アームが動く。
それまで貨物船の姿勢と相対速度の両方へ振り分けていた推力を、回転抑制へ寄せていく。
『ダリオ機の推力ベクトルを取得。同期します』
グラディヴスの四本の推進モジュールが、ゆっくりと後方へ向きを揃えていく。
共有表示に二本の線が伸びた。
一つは、貨物船の現在の進路。
その先にはフォボス宇宙港。
そしてもう一つ。
これから作るべき、新しい進路。
『必要なのは停止ではありません』
女の声が言う。
『衝突軌道から外れるだけの速度変化を与えます』
『そうだ、それが正解だ』
ダリオにも分かっている。
宇宙では、完全に止める必要はない。
ほんの僅か、進む方向を変えればいい。
数メートル毎秒。
場合によっては、それ以下。
それだけの差が、数分後、数十分後には何百メートルものずれになる。
だが、その僅かな速度を、この巨大な貨物船全体へ与えなければならない。
『推力を掛ける』
『反動推進器、出力上昇。マスリデューサーはグラディヴス機体のみ通常救難設定。固定部荷重を監視します』
『ダリオ、いくぞ!』
「いつでもいけます!」
直後、グラディヴスの四基の反動推進器が点火した。
固定部の荷重表示が跳ね上がる。
巨大な貨物船を挟んだ向こう側から、はっきりとこちらへ力が伝わってきた。
当然、貨物船は目に見えて動かない。
あまりにも重い。
それでも固定具を通して伝わる力だけは、確かに増えている。
数秒後、共有表示に新しい数値が現れた。
『貨物船加速度、検出』
女の声が告げる。
表示された数字は、笑ってしまうほど小さい。
それでも。
『衝突予測点、移動開始』
赤い印が、僅かに動いた。
「……動いた」
思わず、ダリオは呟いていた。
グラディヴスの推力がさらに上がる。
貨物船を介して伝わってくる荷重も増していく。
固定具から振動が伝わってきた。
もちろん、真空越しに音が聞こえるわけではない。
だが、サルースCの船体まで伝わる振動が、巨大な貨物船全体へ力が掛かっていることをダリオへ知らせていた。
「グレアム! 船首が流れています!」
『補正する。そっちで回転を止められるか!』
「やっています!」
『ダリオ機、推力方向を現在位置から12度左へ』
女の声から、新しい指示が飛ぶ。
ダリオはすぐに機体を振った。
サルースCの推進器が噴く。
貨物船の回転を抑える。
グラディヴスが押す。
サルースCが向きを支える。
二機の仕事が噛み合った。
赤い衝突予測線が、少しずつフォボスから離れていく。
『まだだ』
グレアムの声。
『まだ足りねえ』
『はい。現在も港湾外縁部との交差可能性があります』
『じゃあ続ける』
『グラディヴス熱蓄積上昇』
『限界になったら言え』
『サルースCは既に限界域です』
『そっちかよ!』
「聞こえていますよ!」
ダリオは怒鳴り返した。
『だったらもう下がれ、危ねえぞ!』
「今止めたらまた回ります!」
『おい、エレナ!』
「知ってるでしょ、言っても聞かない!」
エレナが投げやりに答える。
通信の向こうから、一瞬だけグレアムの笑い声が聞こえた。
ダリオも口元を歪める。
何年一緒に仕事をしてきたと思っているのか。
救えるものが目の前にある。
そんな時に限界だから下がれと言われて、本当に下がる人間なら。
たぶん、自分もグレアムも、今ここにはいない。
『二機とも壊さず、船も壊さず、港にもぶつけない方法を出せ』
『要求条件が過剰です』
『承知の上で聞いてんだ』
僅かな間。
『可能です。実行します』
『上等!』
ダリオの表示へ、次の推力指示が送られてくる。
従う。
また次が来る。
従う。
グラディヴスが押し、サルースCが支える。
赤い線が動く。
少しずつ。
少しずつ。
フォボスの外縁へ。
そして、その外側へ。
『衝突予測更新』
あの女の声が響いた。
『フォボス本体との衝突可能性、回避』
ダリオは息を吐きかけて、止めた。
まだ赤い線が残っている。
『港は?』
グレアムも同じところを見ているらしい。
『外部港湾施設との交差予測が残っています』
『わかった、続けろ』
『了解しました』
推進器が燃え続ける。
サルースCの警告表示は、もう見慣れた色で画面の端を埋め始めていた。
「ダリオ、本当にそろそろまずい! セーフモードに入りそう!」
「あと少しです!」
共有されているグラディヴスの状態表示を見れば、向こうも熱を溜め込んでいることが分かる。
それでも二機は押し続けた。
やがて。
最後の赤い交差線が消えた。
『……衝突軌道を離脱しました』
女の声が告げる。
だが、グラディヴスの推進は止まらない。
『再確認』
『計算中』
数秒。
推進器を止めた後の静けさの中では、妙に長く感じた。
『フォボス本体、および現在展開中の港湾施設すべてとの安全距離を確保。現在軌道で衝突の可能性はありません』
『ダリオ、どうだ?』
ダリオは貨物船の姿勢情報を確認した。
回転は収束している。
これなら、手を離しても再び暴れ出すことはない。
「貨物船の姿勢、安定しています」
『……よし』
グラディヴスの四基の推進器から火が消えた。
ダリオも遅れて推力を落とした。
推力が落ちた途端、身体に入っていた力まで一緒に抜けたような気がした。
貨物船は、もうフォボスとの衝突軌道にはいない。
ほんの僅かに進路を変えただけだ。
その僅かな差が、巨大な貨物船を。
その中にいる乗員を。
積まれた医療物資を。
そしてフォボス宇宙港を救っていた。
「……まったく」
自分でも驚くほど疲れ切った声が出た。
「……本当に35分で来る人がいますか」
『来いって言われたから来たんだよ』
「普通は来られないから言っているんです」
『それはマーカスに言ってくれ』
いつもの調子で返してくる。
ダリオは深く息を吐いた。
視線の先には、貨物船へ取り付いた灰色の試作機がいる。
ついさっきまで4,000kmの彼方にいたはずの機体。
あれが来なければ、自分達がどれだけ粘っても、最後の一押しは出来なかった。
だが。
気になっているのは、それだけではない。
救難が始まってから何度も通信へ入ってきた、聞き慣れない若い女の声。
正確に船体の状態を読み。
的確に推力を割り振り。
グレアムの無茶な要求へ、ほとんど間を置かず答えていた。
少なくともダリオの知っている限りは、MRSSにあんな人間はいなかった。
「……ところでグレアム」
『なんだ?』
「さっきから話してる、後席の人。誰なんです?」
僅かな間があった。
『ああ』
それから、何でもないことのようにグレアムが答える。
『パティ。俺の新しい後席だ』
「……新しい?」
『まぁ、話すと長い』
「そういうのは先に説明してくださいよ……」
ダリオはもう一度、灰色の試作機を見た。
機体だけではないらしい。
どうやらグレアムは、自分の知らない間に随分と面倒なものを任されたようだった。




