第35話 フォボス・グルント7
ダリオが次の船を呼ぶ前に、港湾管制から連絡が入った。
『全体へ通達。非常指揮所より、全面退避の拡大停止が出た。各区画の残留は、施設維持と復旧に必要な要員に限る。一般者の再入域は引き続き認めない』
ダリオは、前方に係留された船を見た。
船腹の接続口はまだ開いている。港湾職員から届く内側の映像では、手すりを伝う人々が、その奥へ入り続けていた。
「乗船中の便は、このまま出していいですね?」
『出してくれ。準備中の便も同じだ。すでに出港した船は、そのまま受入先へ向かわせる』
返答を聞き、ダリオは出港予定を変えずに残した。
後席のエレナが、船側へ確認を回す。
「乗せている人は全員、そのままお願いします。こちらの接続を外す時は連絡します」
船から了解が来た。
接続口の手前にいた職員が、足を止めた乗客へ手を差し出す。乗客は一度背後を振り返り、荷物を先へ送った。
さっきまで、その後ろには次の一団が待っていた。
今は、人が通り過ぎても新しい列が続かなかった。
ダリオは港の見取図を開いた。
残る乗船者の連絡先と、各区画から届いた残留要員の確認が並んでいる。空いた通路には、医療班や保守員が戻っていた。しかし、一般の乗客を呼び戻す案内は流れていない。
「急に空きましたね」
「船はまだいるわよ。そっちを見てて」
「大丈夫です、見てます」
ダリオは、船腹と接続通路の間へカメラを戻した。
サルースCは、その脇に留まっていた。エレナの扱うアームが通路を支え、係留側の職員が最後の確認をしている。
『乗船完了。船側、ハッチを閉鎖する』
映像の中で、人影が途切れた。
扉が閉まっても、ダリオは機体を動かさなかった。気密確認の声を待ち、通路が切り離されるまで同じ位置を保つ。
エレナがアームを戻した。
「保持解除。離れていいわ」
ダリオは船尾側の作業員をカメラで確かめ、サルースCを退かせた。
「作業範囲、空きました」
船がゆっくり離れ始めた。
その先には、外周誘導を引き継いだ機体が待っている。ダリオが係留場所へ視線を戻しても、次の船を急いで入れてくれという声は来なかった。
港湾職員が、空になった接続口を閉じていた。
「ここの次は?」
「受入れを止めて、点検に回すそうです。残ってる便は、向こうで出します」
ダリオが別のバースを示すと、エレナはそちらの作業状況を開いた。
出港準備中の船と、まだ乗船を続ける船がある。そばへ付いている作業機の呼出しを確かめてから、彼女は内側の職員へ回線をつないだ。
「こちらの通路は空きました。次の作業に移って大丈夫です。そばを離れます」
『了解。助かったよ』
返答の向こうに、人を呼ぶ声は重ならなかった。
ダリオは機体を反転させ、残る便の側へゆっくり進めた。
港の明かりは、さっきと同じだった。
その下を動く船が減った分だけ、外殻に沿って続く空の係留場所が見えるようになっていた。
◇
グレアムの前から、作業機の呼出し表示が一つ消えた。
保持を手伝ったファーベルだった。保守側への引き継ぎを終え、自分の整備先へ向かうという。
グレアムは了解と返し、その機体が担当していた台車へカメラを向けた。
フォボスの軌道変更用大型AEドライブは、それまでと同じ明るさで光っていた。
台車は、大型軌道レール上の新しい位置に留まっていた。
「こっちの記録は、渡せたか?」
「はい。差分の受信も終わっています。今、保守側の記録と照合中です」
後席のパティが、引き継ぎ先の画面を前へ出した。
移動前の位置から、最初に留めた場所、相手機と力を合わせた区間までが並んでいた。それぞれに付いているのは、グラディヴスの測定だけではない。現地計器の値と、誰が固定を確かめたかも残っている。
『この保持位置は、途中で止めた時のものか?』
保守員から問い合わせが来た。
パティは台車の記録を開き、途中の保持と最後の再固定を示した。
「はい。現在位置はこちらです。最終確認は、現地の計器とグラディヴスの位置測定が一致しています」
『分かった。監視側にも、その情報を入れる』
向こうの画面に、現在の位置が残った。
それまでパティの図を見ながら答えていた保守員が、自分の記録から次の台車を呼び出した。
グレアムは、掛けたままの回線を聞いていた。
別の担当者が、その位置での出力と冷却状態を読み合わせている。移動中の記録を求める声が来れば、パティが該当する部分を渡した。
引き継ぎ済みの表示が増えた。
パティの手元で開いていた画面も、少しずつ閉じられていく。
『よし、出力が変わった時の確認先は、これで足りる。配置の再調整が必要になった場合も、こちらから各班へ出せるな』
保守責任者が言った。
グレアムは、稼働を続けるAEドライブへ目を戻した。
「まだ、動かすことはあるんだな」
『あるかもしれない。今の釣り合いが続くかは、見ていかないといけないからな』
グレアムは作業図の外側を見た。
火星航路運用調整センター――MROCCから届く軌道の測定が、そこで更新されていた。保守責任者の側にも、同じ観測が送られている。
『こちらでは引き続き現地の値を追う。外からはMROCCに見てもらう。君らの手元だけに残っているものは?』
「機体側の原記録は保持します。作業に使った資料は、これで全部です」
パティが送信先と受領を確かめた。
保守側から照合完了の声が来た時、グレアムは次の呼出しを待つつもりで前を向いた。
『わかった。グラディヴス、外周の移設作業を終了してくれ。ここから先はこちらで受け持つ』
彼は、すぐには返事をしなかった。
台車のそばにある自機の印を見てから、もう一度保守側の画面を見た。
「……これで、離れていいんだな?」
『ああ。今のドライブ配置を保ちながら、次は中央の制御を正常に戻す。ここからは、こちらの仕事だ』
グレアムは口元を手で擦った。
「そっちは頼む。俺じゃ、主電源を落とす検討からやり直しになる」
『電源もフォボスも落とさずに残してくれたんだ、そのまま使えるようにするさ。お疲れ様、助かったよ』
保守責任者が、別の担当者を呼んだ。
フォボスの中央制御システムを切り分ける班だった。グレアムの名前ではなく、設備を担当する者の名前が呼ばれていく。
パティは、作業用に広げていた図を保存した。
現在位置と外部観測は残したまま、こちらから各班へ送るための表示を閉じた。
画面が静かになった。
グレアムは肩を動かした。
座席から背を離そうとすると、固まったところが引きつれた。どこからが痛みで、どこまでがただの疲れなのか、うまく分からなかった。
「……はぁ、長かったな」
「機体の点検も必要です。受入れ先へ、作業中の荷重記録を送ります」
「こいつも、ずいぶん腕を使ったからな。また点検で地球送りになるのは勘弁願いたいが」
グレアムは格納状態のアームを画面で確かめた。
さっきまで何度も動かした関節が、決まった位置に収まっている。入力すればまた動く。それでも、次の仕事を頼む前に見てもらわなければならなかった。
「ついでに、俺の肩も一緒に見てくれねえかな?」
「それなら私の肩部品と同型のものに変えましょうか」
「……肩コリが無くなるなら、それもいいかもしれねぇな」
狭いコクピットで伸ばしかけた腕を戻し、笑いながら彼は座席へもたれた。
MROCCの回線から、次の観測結果が届いた。
『軌道低下の進行停止を継続して確認。時間余裕も維持している。現配置での監視を続ける』
保守班がそれを受け取り、現地のデータを返した。
グレアムは、自分が口を挟まなくても事態が先へ進むのを聞いていた。
画面に示されたフォボスの軌道は、元の標準軌道からずれたままだった。
それでも、危険を示す印が戻ることはなかった。新しく届いた観測値が、前の観測値の後ろにつながっていく。
「ちゃんと保ってるな」
「はい。こちらが保持を解いた後も、変わっていません」
パティが、最新の観測を受領した。
グレアムは台車を映していた画面を閉じた。
港へ向かう経路を求めると、港湾管制は行き先と用件を聞いてきた。
一般の受入れは再開していない。グレアムはグラディヴスの点検と乗員の休息を伝え、整備側からの案内を待った。
その間に、ダリオから短い連絡が入った。
『こちらの乗船便、また出ました。残ってる職員を作業場所へ送って、港側の確認を続けます』
「こっちは現地側へ引き継ぎが終わった。機体を見てもらってくるわ」
『ええ。人間の方も、休んでくださいよ』
「お前らもな。こういう時が一番危ないんだからな」
『区切りがついたらこっちも切り上げます。エレナさんが、先に飯だって後ろで騒いでます』
グレアムは、少し笑った。
「こっちも同じ話をしたぞ」
「それを言い出したのはグレアムです」
回線が閉じると、喉の渇きが気になった。
手元の飲み口を引き寄せ、水を少しずつ飲む。飲んでいる間にも、どこかから名前を呼ばれる気がして、通信表示を見ていた。
来ていたのは、整備側が受け入れられるという返答だった。
パティが作業記録を渡し、案内された待機場所を前へ出す。
「飯を食ったら、今度こそ寝るぞ」
「はい。私も、記録の整理を終えます」
「それ、もう渡したんじゃねえのか?」
「いえ、機体側に残す分です」
「程々にしとけよ」
グレアムは飲み口を戻した。
画面の向こうには作業灯が残り、ゆっくり移動する機体の影が外殻を横切っていた。台車のそばには、もう別の担当者が付いている。
彼は、受け取った帰投経路へ進み始めた。
◇
港側の最後の便を送り出すと、ダリオはサルースCを待機場所へ戻した。
作業指示の発信元が、港湾管制から設備側へ変わっていた。
次は、旧フォボス表面保存区だった。
点検に入る保安・設備班から、経路の安全確保と移動支援を求められている。各区画へ人員を分けると、支援に回せる者が足りないというからだった。
「中へ入る仕事ですね」
「ええ。機体はここで待機。降りる前に、向こうの集合場所を確かめてね」
「これ、残業分は出ますよね?」
「期待していいんじゃないの? 出なかったらネットに書き込んでやるわ」
「それはやめたほうが……」
ダリオは指示に付いた経路を開き、先方へ連絡した。
エレナが港側へ作業終了を伝える。サルースCを離れる準備をしている間に、次の班から返答が来た。
機体を降り、二人は点検班に合流した。
設備担当者が入口の状態を確かめるのを待ってから、保存区へ入る。
「あーっ!! 背中がガッチガチよ、もう!!」
微小重力環境を漂いながら、エレナはもがくように身体を動かしていた。
「せっかくの星空が台無しじゃないですか……」
「星空ぁ? ダリオって、思ったよりロマンチスト?」
「エレナさんがリアリスト寄りなんですよ」
見学路の上を、観光用与圧ドームが覆っていた。
柵の向こうには、岩肌と細かな土が広がっている。外殻や建物の下に隠れたフォボスの地表が、ここではそのまま見えるように残されていた。
観光客の姿はなかった。
後ろから入った設備担当者が、点検する場所を保安員へ告げている。ダリオはその声を聞きながら、班が進む見学路を確かめた。
「特に異常は無さそうね。与圧もきっちり保たれているわ」
「ですね。不審物も特に……ん?」
柵に、白いものが見えた。
紙だった。
保存された地表を眺める場所に、文字の書かれた紙がある。
冒頭の一行を読み、ダリオは足を止めた。
「エレナさん。あそこ、紙があります」
エレナが横へ来た。
彼女は紙へ目を向け、それから後ろの班に手を上げた。
「ここで待ってください。念の為、その紙には触らないで」
ダリオはその場から端末を向けた。
紙だけを大きく映す前に、柵と見学路が一緒に入る位置から記録する。発見場所を添え、足元から柵の向こうまで、周囲の状態も残した。
「位置と映像、送ります」
「……受け取った。保安側へ回すわ」
エレナは発見を報告し、火星圏航路保安庁――MNSAへも連絡を入れた。
ダリオは紙の手前に留まり、点検班がそこへ入らないようにした。
端末に残した像には、柵の向こうの岩肌も入っていた。
紙には、こう書かれていた。
【フォボスは人類のものではない】
【岩を覆い、削り、都市を築き、残った一部を柵の向こうへ置いて『保存』と呼ぶ】
【それは保存ではない。『標本』だ】
【我々はフォボスを、元あった火星の土へと還し、同時に地表を浄化する】
【――フォボスの土】




