第34話 フォボス・グルント6
大型軌道レールの向こうに、動く作業灯が増えていた。
グレアムは、接近してくる機体へカメラを向けた。
黄色い注意帯の付いた工具腕と、その反対側に張り出した貨物保持器。建設用の作業クアドリガ、ファーベルだった。
少し離れたところでは、港湾作業艇が船首の向きを変えていた。
どちらも、フォボスの軌道変更用大型AEドライブが並ぶ外周へ向かっている。
『各班、作業手順を送った。担当する台車と機体の組み合わせは、現場の保守員に確認を取れ。移動許可は区画ごとに出す。準備が出来次第、報告を』
保守責任者の声に、別々の回線から返答が来た。
グレアムが送った作業記録には、いつの間にか他の機体の保持位置が書き込まれていた。彼が一機で掴んだ場所を、二機で受け持つ図もある。
「俺たちは、どこへ入る?」
『次の台車だ。外側の保持を手伝ってほしい。現地のファーベルと挟んで運ぶ』
後席のパティが、呼ばれた場所を画面へ出す。
グレアムは自機の熱余裕と推進剤を確かめ、移動を始めた。
見送る側になった最初のAEドライブは、まだ光っていた。その横を通るファーベルが、短く姿勢制御の光を散らした。
『そっちは、もう動かしたやつか?』
「ああ。今は、公転する方へ押してる」
『了解。こっちも続く』
工具腕がゆっくり振られた。
グレアムは自機の腕を動かす代わりに、作業灯を一度そちらへ向けた。
パティの作業図に、接近中の機体が次々と加わっていく。
フォボスの裏側にも、保守班が現物を確かめた台車の印が増えていた。台車の自動走行を切り離した区画から、保持と移動の連絡が続いた。
現地計器の測定が届き、火星航路運用調整センター――MROCCの外部観測が重なる。
図の脇には、フォボス全体をどちらへ押しているかを示す矢印があった。動き始めた台車が増えても、まだ公転を妨げる向きに長く伸びている。
「それ、こっちが動くたびに変わるんだな」
「はい。ただ、同じ位置まで運んでも、減る力は同じではありません」
パティは、現地で測った出力をそれぞれの印へ添えた。
グレアムはそろっていない値を見てから、次の台車へ視線を戻した。
「終わった数だけ見てても、駄目か」
「動いている最中の力も合わせて見ます。外からの観測と合うまでは、配置を確定しません」
通信の向こうで、最初に返事をしたファーベルの操縦者が移動開始を告げた。
作業図の端で、その機体と台車が並んで動きだした。
担当する台車の内側には、すでに別のファーベルが付いていた。
グレアムは、その機体をレール越しに見ながら外側へ入った。保持器は台車の低い位置を掴み、機体の影が外殻へ落ちている。
『外側を頼む。こちらの位置は、このままでいいか?』
「そのままでいい。俺が合わせる」
グレアムは腕を伸ばした。
相手の保持器と干渉しない場所をパティが示す。手前のアームを先に掛け、もう片方を回り込ませると、台車の両側に支えができた。
保守員が保持状態を確かめてから、固定を解いた。
二機に挟まれた台車の上で、AEドライブは動き続けている。
『そちらに合わせる。送りを出してくれ』
「よし、ゆっくり行くぞ」
グレアムはレールに沿って力を加えた。
反対側のファーベルも動き、台車が滑り始める。向こうの操縦者が短く送りを告げるたび、腕に掛かる力が変わった。
グレアムは自分だけで先へ運ぼうとせず、相手の機体が進む分へ合わせた。
「外側、少し進みすぎです」
パティに言われて、入力を緩めた。
画面ではわずかなずれだった。それでも両側から掴んだ台車には、レールに沿わない力が掛かり始めていた。相手が追いつくのを待つと、アームの荷重が戻っていく。
『合った。そのままで頼む』
グレアムは相手の声を聞きながら、もう一度送りを入れた。
保守側から、給電と冷却は継続していると連絡が来た。
グレアムの前ではレールの継ぎ目がゆっくり流れ、遠い区画の通信では再固定の確認が始まっていた。こちらが次の確認位置へ着く前に、そちらの機体は台車から離れた。
全体の矢印が、先ほどより短くなった。
グレアムは一度だけその変化を見て、掴んだ場所へ目を戻した。
目の前の台車は、まだ運び終えていなかった。
外殻の曲がりに沿って姿勢を変えると、相手のファーベルが台車の陰へ隠れた。パティが別角度の映像を前へ回す。声だけは、さっきと変わらず届いた。
『内側、位置保持。そちらを待つ』
「悪い。もう少し腕を回す」
関節の角度を変え、自機の船体を寄せた。
台車をこじらずに進める姿勢へ戻してから、グレアムは移動を再開した。
窓の端に、港を離れる船の光が見えた。
パティが開いていた港側の回線から、出港完了の報告が流れる。続いて聞こえたのは、ダリオの声だった。
『こっちは次の便を出すところですけど、外はどうです?』
「今、全員で無理矢理AEドライブを移動させてる」
『見えてます。ずいぶん人を集めましたね』
「なるはやでやるなら、もっと欲しいくらいだ。暇だったらこっちへ来い」
グレアムは外へ目をやった。
離れたレールで作業艇の灯が動いていた。そのさらに先にも光はあるが、何をしているかまでは見えなかった。
『暇なわけ無いでしょ。乗船中の便は、そのまま進めるわ。結果が出たら知らせて』
エレナの声に、グレアムは了解と返した。
港側の回線が、避難船の誘導へ戻った。
移設を終えた台車から腕を離すと、次の要請が来た。
今度は、保持位置を変える作業機の代わりに台車を支える仕事だった。グレアムが受け持っている間に、その機体はレールに沿って位置を変え、別の保持部へ掛かり直した。
保守員の確認が済むと、グラディヴスは離れた。先へ運ぶのは、そちらの班だった。
自分が手を離した後も、台車は動いていく。
グレアムは次の経路を確かめながら、その小さな印を見送った。
次の台車へ取り付く頃には、同じ報告を聞く回数が増えていた。
保持、移動、再固定。声の主は入れ替わり、こちらを呼ばずに終わる作業もあった。
パティの図で、長く伸びていた矢印が少しずつだが更に短くなっていった。
『MROCCより各作業班。逆行方向の合成推力は減少を続けている。フォボスの減速も、観測上明確に鈍化した』
グレアムは返事をする前に、前方の表示を見た。
台車の位置から組み立てた見込みを、外から測った変化が追っていた。
「あと、どこだ?」
「今動いている班の結果を待ちます。こちらは指定位置で保持してください」
グレアムは新たに掴んだ台車を留めた。
移す準備をしていた別の班にも、待機の指示が届く。移設の開始が重なっていた頃より、動いている印は少なかった。
やがて、外殻の向こう側から位置到達の報告が来た。
パティが現地計器と作業機の位置測定を照合する。その間、グレアムはレール上の目印が動かないことを確かめ続けた。
『逆行方向の合成推力、ほぼ相殺。配置を維持してくれ』
MROCCの声が届いた。
遠くで誰かが、了解と答えた。保守責任者は各班の保持状態を求めた。
グレアムは、短くなった矢印の先を探した。
その脇にあるフォボスの予測軌道は、まだ危険な領域へ入っていた。
『速度の喪失分は残っている。現配置のままでは、危険条件を外せない。次の調整を送る』
「……まだ先があるな」
グレアムは腕を緩めず、返ってきた図を開いた。
MROCCが示した移動先は、今いる場所から少し先だった。
反対側でも、別の班が同じように位置を変えている。パティの図では、釣り合いかけた力が、公転を助ける側へわずかに傾いた。
『標準軌道への復帰は、制御を取り戻してからだ。今は直近の危険を外す。復旧作業に必要な時間を確保できたところで、加速を打ち切る』
「聞いたか、パティ。欲張るなってよ」
「グレアムも、指定位置で留めてください」
「分かってる」
保守側の許可を待って、グレアムは台車を送った。
先ほどまでとは違い、レールの先へ運び切る仕事ではない。手前に置かれた印へ近づくたびに入力を弱め、目印が合うところで移動を止めた。
後席から、位置保持を確認する声が来る。
グレアムは片側のアームへ寄っていた力を抜き、反対側へ配った。台車を動かさずに機体の姿勢だけを整えると、向こうの班からも到達の報告が届いた。
『順行側の合成推力を確認。その配置を維持』
短い矢印が、公転と同じ向きに伸びた。
グレアムはその先を見た。台車を運んだ距離はわずかなのに、フォボス全体へ加わる力は、ようやく速度を取り戻す側へ回っていた。
すぐに次の連絡は来なかった。
AEドライブの光が、フォボスの外板を照らし続ける。
グレアムはアームの荷重を見て、台車の位置を見て、もう一度全体図へ目を戻した。予測軌道は更新されるたびに少しずつ形を変えていた。
「まだか?」
「観測を待っています」
パティは、手元の計算で先に出した線を確定表示にしなかった。
現地から届く出力値を受け取り、MROCCからの測定と重ねる。グレアムの作業図には、動かしてよいという指示は出なかった。
彼は、台車を留めたまま待った。
港側の回線では、乗船口を閉じたという声がした。
続いて聞こえた誘導の声は、先ほどと同じ速さだった。
予測軌道の上から、危険を示す印が外れた。
グレアムは画面へ顔を寄せかけ、背を座席へ戻した。
『直近の危険条件を外れた。復旧作業に必要な時間余裕を確認。順行加速を終える。各班、釣り合い位置への調整を開始してくれ』
保守責任者が応じ、作業許可が回った。
グレアムは指定された範囲を見て、台車をわずかに戻した。
動かしていることより、止めて待っている時間の方が長くなった。
公転方向の矢印は短い。
だが、パティが図を回すと、別の向きに残る力が見えた。火星へ近づける向きと、公転している面から押し出す向きにも、打ち消し切れていない成分がある。
「こっちだけ合わせても、終わらねえのか……」
「向こうの台車と組で調整します。こちらを動かすと減る力が、別の向きでは増えます」
パティは、外殻の向こうにいる班へ位置の照合結果を送った。
返ってきた保持位置が、グラディヴスの位置と並んだ。互いの機体は見えない。画面の中では、同じフォボスを挟んでいた。
『こちらは動かせる。そっちはどうだ?』
「こっちも行ける」
保守側の許可が出ると、グレアムは台車を送った。
目印がわずかにずれる。位置を留め、現地計器の確認を待つ。向こうの班も台車を動かし、止めた。
パティが結果を重ねた。
横へ残っていた矢印が縮み、その代わりに公転方向の矢印が少し伸びた。
次の指示を受けて、また動かした。
グレアムは何度目かの位置保持で、操縦桿に当てた指を一本ずつ緩めた。入力を変えないよう持ち直しても、すぐ同じところへ力が入った。
次に機体を寄せる時は、先に息を吐いた。
「今の位置で保ってください。外部観測がそろうまで、動かさないでください」
パティの声がした。
グレアムは目印の脇を見た。継ぎ目の影は、さっきから同じところにある。
向こう側の班から、保持中だと報告が来た。
給電を見ている保守員が応じ、冷却担当の声が続いた。どのAEドライブからも、停止したという報告は来なかった。
パティの図で、三方向に残っていた矢印が短くなっていた。
そこへ、MROCCの観測が重なった。
『合成軌道変更推力は、実用上ゼロとみなせる範囲に入った。各班、現在位置を維持。再固定へ移ってくれ』
その瞬間、無線が静まり返った。
グレアムは台車を掴んだまま、保守側の作業を待った。
固定確認の報告は、一斉には来なかった。こちらの確認が済んでも、外殻の向こうではまだ保持を続けていた。
保持の力を少し抜く。
台車は、位置を変えない。
『こちらは固定確認。グラディヴス、保持を解除してくれ』
二本の把持部を開き、腕を引いた。
近すぎた台車の輪郭が、ようやく画面に収まった。グレアムは距離を取ってからも、その位置を見ていた。
相手側の再固定が終わった。
外殻の向こうで、組になっていた作業機の印が台車から離れる。
外から測ったフォボスの軌道が、もう一度更新された。
『MROCCより。危険な軌道低下の進行停止を確認。現配置で時間余裕を維持できている』
『……確認したのか?』
どこかの班員から声が上がった。
『確認した。軌道低下は止まっている』
『よっしゃあ!!』
『止まった! 止まったぞ!!』
突然、回線が騒がしくなった。
『おい、やったぜ!! 俺達がフォボスを止めたんだ!!』
歓声と笑い声が重なり、誰かが何度も同じ確認を求めている。別の回線では、保守員が仲間の名前を呼んでいた。
『各班、落ち着け! 固定状態の監視は継続だ!』
保守責任者の声が飛んだ。
だがその声色も、少し上ずったものだった。
グレアムは返答を待つように、少し黙っていた。
各班から了解が返った。聞き慣れたファーベルの操縦者が、その後で長く息を吐いた。
グレアムも、背を座席へ預けた。
「……止めたな」
「はい」
後席の返事を聞いてから、港側の回線を開いた。
「ダリオ、聞こえたか?」
『聞こえました。こっちの便は出し続けます』
「わかった、頼む」
それだけ言って、グレアムは口を閉じた。
遠くで、避難船の光が港から離れていった。
保守責任者が、フォボスの中央制御システムは依然として復旧していないと告げた。各班には、今いる場所で待機するよう指示が出た。
画面の中のフォボスは、元の標準軌道には戻っていない。
グレアムは、腕を折り畳む途中で手を止めた。
窓の外には、さっきまで掴んでいた台車がある。その向こうの作業灯も、消えずに残っていた。
「パティ。今の位置、残しておいてくれ」
「記録しています。外からの観測も、一緒に」
グレアムは頷き、残りの腕を収めた。
AEドライブの光を背に、作業機がそれぞれの台車から離れていく。急いで次へ向かう機体は、もうなかった。
回線を切らないまま、彼は操縦桿から片手を離した。




