第33話 フォボス・グルント5
グラディヴスの下を、保守艇の作業灯がゆっくり横切った。
その明かりが離れても、フォボスの軌道変更用大型AEドライブは光ったままだった。
グレアムは基部の映像を拡大し、作業開始の連絡を待っていた。
『今からでも主給電を切れば全てが止まるんだ! AEドライブもMMRも止まって、少なくともこれ以上減速させられることはなくなる! 先に電力を遮断すべきだ!!』
『切った後はどうする? 再起動できる保証はないし、再起動出来たとしてもその間の経済的損害は誰が取るんだ!? 経営者目線で考えろ!!』
保守班の回線で、二つの声が重なりかけた。
どうやら、この状況を解決するためにフォボスの主電源を落とすかどうかが議論の的になっているようだった。
今のフォボスは、MMRによる質量軽減によってAEドライブでの減速が補助されてしまっているようだった。
その全てを支えているのが、電力だ。それさえ無くしてしまえば、これ以上の落下を今すぐ防げるというのが、彼の主張だった。
『それは分かってる! だが、地表に落ちてしまったらそれどころの話じゃ無くなるだろ!?』
『全員の退避が終わっていないのに給電を切ったら、それこそ大惨事になるぞ! 生命維持だって止まるし、どれだけの人的被害が出るか……』
グレアムの前で、図面の一部が囲まれた。
給電を遮断する場所だった。そこから先へ線が伸び、AEドライブの基部につながっている。
しかし、給電を切るということはフォボスの全ての機能が失われるということでもある。今の状況でその決断を出来る人間はいないだろう。
近づくなとも、来てくれとも言われなかった。
しかし、グレアムは保守班員同士の言い争いを聞くためにいるのでもなかった。
「……揉めてんなぁ」
「非常時の争いは、作業の停滞原因となります」
グレアムは保守艇との間隔を保ち、回線を聞いたままカメラを下へ向けた。
「まぁそうなんだけどよ、みん必死だからこそ意見が衝突するってこともあんだよ。パティ、その足元も見せてくれ」
画面に、AEドライブを載せた台車が収まった。台車は大型軌道レールの上を移動できるようだった。
フォボスを覆う人工外殻上を伸びるレールの先は、地平線の向こうへ隠れていた。
パティから、保守側の配置図が送られてきた。
フォボスの中央制御システムが示した位置とは別に、現地で確かめた台車の位置が記されている。
彼女はグラディヴスの観測と照合できたものから、映像を添えていった。
「今のドライブ出力も分かるか?」
「現地計器の値と、外から見た運転状態を合わせています。確認できている範囲では、大きな変動はありません」
火星航路運用調整センター――MROCCの観測が重なった。
グレアムは、フォボスが公転する向きと、それを妨げている推力の向きを見比べた。図の中のフォボスを、台車の走るレールが囲んでいた。
彼は図を回し、今は見えない側を手前へ出した。
「取り込み中に悪いんだけどよ。このAEドライブの台車って、地平線の向こう側にも行くんだよな?」
『そうだ。フォボスに移動の必要が生じた際、要求される推力の向きに合わせてドライブごと移すんだ』
保守責任者が答えた。
グレアムは、反対側のレールを指した。
「なら、レールを使ってドライブをここへ運べばいいんじゃないか?」
図を見ていたパティが、一基の台車を反対側へ移した。台車から伸びる推力の矢印が、公転と同じ向きへ回る。
「対応する位置まで運ぶことが可能であれば、そうなります」
『そこまで動かす装置が正常なら、な。今はそれが指示を受け付けないんだぞ? どうやってやるんだよ』
「いや、動かすのはこっちだ。走行装置だけ制御を切り離して、グラディヴスで運べねえか?」
グレアムは機体の姿勢を少し変えた。
台車の横へ回り込める範囲が見え、レールへ近づく機体の影が図へ重なった。まだ触れる距離には入らない。
『それでは推力を出したまま固定を解くことになる。台車へ掛かっている力を、機体で受けられるのか?』
「そりゃ、あんなのと正面から押し合うのは無理だ。今の力をレールに受けてもらったまま、横へ送れないかって話だよ」
回線の向こうで、別の図を求める声がした。
給電図の脇に、台車の構造が開かれる。
「AEドライブへの対処は、そっちに任せる。俺が運べる荷物かどうか、そこだけ確かめたい」
保守責任者は、図の上で台車の保持部を示した。
『……掴むならここだ。だが、今の荷重で走らせていいかは、現物を見てから決める。こちらで調べてる間、作業場所で待機してくれ』
グレアムが返事をすると、後席でパティの手が動いた。
彼女が作った移動図では、反対側へ向かう途中にも矢印が残っていた。横を向いたところでは、公転を妨げる力が小さくなる代わりに、別の向きへフォボスを押している。
「そうか、移動途中でも推力は消えねえんだな」
「はい。火星へ近づく向きや離れる向きだけではなく、重心から移動ルートを結ぶ放射状のあらゆる向きにも働きます。通る経路と、どれくらいの速さで進めるかを決める必要があります」
「雑に動かしたら、変な方向にフォボスが行っちまうって事か。まさに、お前の出番だな?」
「ドライブを対にし、同じ移動速度で順番に対称となるルートを取れば、推力変化を相殺可能です」
パティが経路案をMROCCへ送った。
グレアムは台車の図を寄せ、画面上のグラディヴスを指定された保持部へ合わせた。二本のアームで掴んだ姿勢のまま、外殻の曲がりに沿って動かしてみる。途中で片側の角度が厳しくなり、機体の位置を寄せ直した。
肩を張り続けていることに気づいて、彼は一度息を吐いた。
画面の中では、同じ姿勢を保ったグラディヴスが、台車の横に付いていた。
保守班から届く映像が、図面を少しずつ埋めていった。
作業員が現物の状況を確認し、外側にいるグレアムが台車の表示をカメラで捉える。同じ設備を見ていると確認してから、保守員は内部の接続をたどった。
その作業は、稼働中のAEドライブから離れた設備通路で行われていた。
『推進部への給電は残したまま、自動走行システムと固定装置だけなら、制御システムから隔離できそうだ』
保守側の図には、レールに沿って電気を運ぶ給電母線と、そこから無線給電で電力を受け取る台車の非接触集電器が描かれていた。台車を動かしても、基部の電力変換器へ電気を送り続けられる仕組みだった。
パティが、移動中も使えるという現物確認の記録を受け取った。
「ドライブへ接近すれば、相当量の熱が機体にも入ります。冷却はどうなりますか」
『そこはやってみないとわからない。一応仕様のデータはあるから、そちらで制御して欲しい』
返ってきたデータが、グラディヴスの作業図へ反映された。
グレアムは自機の推進剤と熱余裕を見てから、予定しているドライブへの接触姿勢データを送った。
それに対して、保守責任者から今の保持部を別の角度で見せてほしいと頼まれた。
グレアムは距離を保ったまま機体をずらした。影になっていた構造材が、作業灯の中へ出てくる。
『それだ。そこなら横に荷重を通せる。移動中も、AEドライブの推力は台車からレールへとかかる。くれぐれも脱線だけは避けるように』
「わかった、慎重にパティと見る。テレメトリデータもそちらに送るから、チェックしてくれ」
アームごとの力の向きが図に加わった。
保守側がそれを見て、経路上の荷重条件と合わせる。反対側にある設置予定箇所の確認も届き、MROCCの観測を基に、移動経路が一本に絞られた。
『この1基で試す。まず短く動かして、そこで保持。給電、冷却、荷重、推力の向きを確認してから先へ進む』
「分かった。用意が出来たらいつでも呼んでくれ」
対象区画の自動走行システムと固定装置が、中央制御システムから物理的に切り離された。
保守員が独立した計器で隔離を確かめ、台車を外から動かせる状態へ移した。
『グラディヴス、接近していい』
グレアムは機体を進めた。
AEドライブの推力軸正面を避け、台車の横へ入る。保持部へ近づくほど、ドライブの構造材が画面を占めた。
「パティ、反対側の腕を頼む。こっちからじゃ、先が見えねえ」
「こちらで見ています。あと少し寄せてください」
片方のアームが先に届いた。
その接触を保ちながら、グレアムは機体の傾きを直した。もう片方の把持部が構造材へ回り込み、パティから位置が合ったと声が来る。
両方で掴んだ。
アームの荷重が上がり、残る二本のアームの推進器が向きを変えて機体の姿勢を支えた。
「保持した」
『拘束を解除する。そのまま動かすな』
グレアムは操縦桿を保った。
解除の確認が届いても、台車の位置は変わらない。AEドライブは光り続け、グラディヴスの二本の腕が、その基部を載せた台車を掴んでいた。
グレアムは、レールに沿う向きへ少しだけ力を加えた。
「移動しています」
パティの声とともに、距離表示が変わった。
グレアムは窓の外から画面へ目を移す。台車を掴んだ機体も、一緒に動いていた。
『現地でも位置の変化を確認。そこで止めてくれ』
送りを弱め、台車を留めた。
片側へ寄りかけた荷重をパティが示し、グレアムはアームの角度を戻す。
給電継続の報告が来た。
荷重を確認する声が続き、冷却担当が運転状態を伝えた。グレアムは把持部を緩めず、返答がそろうのを待つ。
「推力の向きにも変化が出ています。現地の位置測定と、こちらの観測は一致しています」
パティが、移動前と後の位置を重ねた。
そこから伸びた矢印は、ほんの少しだけ違う方向を向いていた。MROCCからも、移動に伴う推力方向の変化を確認したと報告が来る。
『走行中の荷重は許容内。給電も冷却も続いている。予定経路で移設を開始してくれ』
保守責任者の許可が出た。
グレアムは、途中で止めた入力を入れ直した。
さっきまで後ろにあった継ぎ目が、画面の端へ抜けていった。
視界の中で変わっていくのは、機体の下を流れるレールと外殻だけだった。グレアムは画面だけを見ていると、自分が何を動かしているのか分からなくなりそうだった。
パティが示す台車の位置へ目を戻す。
保守艇のそばにあった印は、経路に沿って移っていた。グラディヴスの印も、その横に付いている。
「右側の荷重が増えています。機体を少し寄せてください」
グレアムは腕を突っ張ったまま押すのをやめ、自機の位置を合わせ直した。
保持部との間隔が戻り、レールを横へこじる力が減る。彼は二本のアームに掛かる力を確かめてから、台車を送った。
外殻の曲がりに沿って、機体の向きも変わっていく。
残るアームの推力配分をパティが調整し、グレアムは掴んだ場所を離さずに運んだ。少し先を見る余裕ができると、また次の姿勢へ変えなければならなかった。
出発点の作業灯は、もう見えなかった。
『次の確認位置まで、その速さを維持してくれ』
保守班の声がした。
グレアムは短く応じ、目の前の荷重表示を追った。
途中で一度、位置を留めた。
現地から届く測定をパティが照合し、MROCCの観測が更新される。AEドライブへの給電は途切れず、その一基が公転を妨げる力は、移動前より小さくなっていた。
「たった一基だが、移動させたことで少なくとも減速方向の推力は減ってるってことか」
「はい。ただ、まだ別の向きへ掛かる力があります。次の区間は、この速度でお願いします」
パティが、保守側とMROCCの確認を受けた条件を前へ出した。
グレアムは動かし始める前に、その先の曲がりを見た。
機体を沿わせる。
腕に無理が掛からなくなってから、送る力を足す。
公転を妨げる推力成分が、さらに減っていった。
やがて、推力の矢印が横を向く位置を通る。AEドライブの光は変わらず、別の向きへ働く力をMROCCが追っていた。
グレアムは決められた移動条件を守り、機体の熱余裕を確かめながら先へ送る。レールが外殻を回り込むにつれ、矢印が少しずつ公転と同じ向きへ傾いた。
「ここより、順行側へ入りました」
パティが言った。
グレアムは台車の位置を一度見て、アームへ視線を戻した。
「あとは、置く場所だな」
「保守班が確認しています。もう少しです」
反対側の固定箇所が、画面へ入った。
グレアムはその場所を拡大せず、台車と一緒に見える倍率を保った。
保守側の誘導に従い、グレアムは送りの速度を落とした。
目印が近づいてくる。行き過ぎる前にさらに弱め、現地から位置が合ったと声が届くところで留めた。
『よし。固定が終わるまで、そのままで頼む』
グレアムはアームを動かさなかった。
保守班の操作を待つ間、握り続けた手に力が入りすぎていることに気づいた。機体の入力を変えないよう、指の当て方だけを直す。
アームの荷重が変わった。
固定機構へ力が移ったと報告が来ても、まだ掴んでいた。
『保持を少し抜いてくれ。こちらで位置を見る』
グレアムは両側の力をゆっくり緩めた。
台車は動かなかった。現地計器で再固定が確かめられ、グラディヴスから測った位置も変わらない。
『よし、そのまま保持解除していい』
二本の把持部が開いた。
グレアムは腕を引き、台車から距離を取った。ようやく基部全体が画面に収まる。
AEドライブは、まだ光っていた。
出発した時と同じように動き続けているのに、パティの図では、公転を助ける側へ力を出していた。
『MROCCより。対象AEドライブの順行側推力を確認。フォボス全体の逆行推力は減少した。全体の減速は継続している』
グレアムは、運んできた台車をもう一度見た。
「……後は時間との勝負か」
「はい。まずは、残るAEドライブとの均衡を取りましょう」
パティが図の範囲を広げた。
一基を反対側へ移しても、まだ動いていない台車の印が残っている。グレアムは、その一つから伸びるレールへ目を移した。
『グラディヴス、そのまま待機してくれ。今回のデータを各区画へ回し、他の機体でも再現できるようにする』
保守責任者が、別の班を呼び出した。
同じ隔離と拘束解除ができるか、必要な給電と冷却を保てるか。それぞれの現物を確かめるよう指示が出る。
パティは、保守班から届いた設備側の記録へ、自機の位置と荷重の記録を添えた。最初にわずかだけ動かした箇所も、途中で留めた位置も、そのまま残して送った。
『使える作業機、特にファーベルを上げてくれ。建設と保守、港湾の分もだ。台車を保持できる装備か、こちらで確認するぞ』
回線の向こうで、応答が増えた。
まだ全区画を動かせると決まったわけではない。返ってくる機体と装備の情報を、保守側が一件ずつ台車の図へ合わせていく。
グレアムは、次の報告を聞きながら機体を留めていた。
新しく届いた映像にも、止まらないAEドライブの光が映っていた。




