第30話 フォボス・グルント2
設備通路の壁に、制御盤の蓋が開いたまま留められていた。
復旧班の作業員が、端末を支持具へ固定する。制御システムから届く情報の一部に、新しい時刻が入った。
「応答があったぞ!」
「その画面から動かすなよ、現地の計器と合わせるまで待つんだ」
隣の設備員が、係留制御盤の方を指した。
制御システムからの命令は、すでに遮断してある。
現地の制御盤から照会し直すと、固定状態を示す応答が返った。
外で係留具を見ていた作業員からも、同じ状態の報告が来る。
「よし、合ってる。現地からの制御を維持。制御システムとの接続は戻すな」
端末の一覧とは別に、確認した装置と時刻が記録された。
使える設備の欄が、一つ増えた。
通路の奥へ、別の復旧班が器材を運んでいた。軌道変更用AEドライブの担当者が、それを受け取った。
「これで現地制御盤までの経路は確認できた。これならドライブの停止操作へ進めるかもしれないぞ」
返事をした設備員は、器材の固定を外して、次の作業へ取りかかった。
◇
港から次々と届く報告に、グレアムはコクピット内で少し肩を下げた。
さっきまで食い違う値ばかりだったところへ、実物と合ったという返答が混じり始めていたからだ。
『係留設備は、確認の済んだところから現地で動かせる。軌道変更用AEドライブも、制御システムからの命令を切って停止できるか調べている』
マーカスの声だった。
「止めるところまで行けそうか?」
『見込みはある。現地制御と独立計器を、一つずつ合わせている。AEドライブはシステムを通さず、直接制御する方針だ。』
パティが観測像を更新した。
外殻に据えられた大型AEドライブ群は、まだ高出力で動いている。グレアムはその映像を脇へ残し、待機中の船へと視線を戻した。
「グレアム、規程の休憩時間に入りました。少し手を離せませんか」
「んなことしてる場合かよ。出港を始めるんだろ?」
パティはそれ以上言わず、港の連絡先を出した。
グレアムは時刻を見ないまま、出港予定の船を選んだ。
『港湾管理局からの調整です。現地確認の済んだバースから、定期便の出港を早めます』
接舷したまま待っていた旅客船に、予定変更の通知が入った。グレアムの画面にも、前倒しの対象者と利用できる便が出る。
観光客には、空席のある便へ出発を繰り上げる案内が出ている。
乗継客は、先に目的地へ向かえる便へ振り替える。
短期滞在者にも出港を勧める。フォボスに残る必要のない勤務者も、その対象だ。
移動に助けが要る人には、現地職員が付き添う。
まだ、全員が街を出ろという指示ではなかった。旅客船へ届いた説明も、大規模な設備点検に伴う運航調整だった。
『追加の貨物は積まなくていいんですね。こっちは予定より早く出ろと言われていますが、いいんですか?』
『はい。現在の積載状態で準備を進めてください。出港許可は、現地確認が完了してから出します』
グレアムは船の離れる方向を確かめ、外側の待機船との間隔を見た。
係留を解く連絡が来る。船体がゆっくりと架台から離れ、港の壁面に隠れていた船首が現れた。
「離脱を確認した。その先は空いてるぞ」
旅客船が進むにつれ、グレアムは機体の向きを合わせた。船側の報告と自機の測定が同じ動きを示していることを確かめ、次の出港船へ視線を移す。
港から外へ通じる経路が、ようやく一つ使えた。
ダリオから通信が来た。
『グレアム。こちらは次の便へ回ります。荷役を止めた分、通路が使えます。人を乗せる準備だけ、先に進めるそうです』
「荷物は待てるからな。そっち、手は足りてるか?」
『今のところは。エレナさんが現地の職員と確認しています』
貨物の予定が順に保留へ変わった。
一方で、出港を繰り上げる旅客便は増えている。
船の回線では、何の点検なのかという問い合わせが続いた。港内からも、出る便ばかり増える理由を尋ねる声が管制へ届いていた。
MROCCは入港制限を維持したまま、火星圏の船へ照会を始めた。
『旅客船、貨客船、地表往還機、および補給船、作業船へ。現在位置、安全に収容できる人数、フォボスへ到達可能な時刻を報告してください』
異なる航路から、返答が来た。
すでに近くにいる船は、乗員以外を何人乗せられるか確認している。
多くの人を乗せられる船からは、到着まで時間が掛かるという報告があった。
貨物のための空間しか残っていない船は、その広さを定員には加えなかった。
返答が、画面の一覧へ加わっていく。
パティは、グレアムが見ている出港船の記録もそこへ入れた。
「今の便、離脱まで思ったより掛かったな。慣れて次から早くなる、とは思わないほうが良さそうだ」
「現地での確認時間を含めます。搭乗に介助が必要な場合も、別に見込んでいます」
画面に、使えるバースの予定が並んだ。
一隻が入って人を乗せている間、その場所へ次の船は着けられない。前の船が離れたところで、ようやく次の枠が始まるからだ。
パティは到着の順番に沿って、枠を埋めていった。
復旧班から、新しい報告が来た。
『AEドライブの現地制御盤で、実機の状態を読めた。制御システムからの命令は遮断したことを確認している。この照合が通れば、現地で直接停止要求を出せる』
グレアムは、港の外殻へ目を戻した。
最初に見つけた推進器の光が、まだ残っている。
あれが消え、計器でも止まったと分かれば、船を集める仕事も途中で終えられるかもしれない。
作業が無駄にはなるが、事故になるよりはいいとグレアムは思った。
「もう少しだな」
「はい。強制避難がパニックを誘発する事を考慮すると、ドライブの停止作業を待つだけの根拠があります」
パティの答えを聞き、グレアムは息を吐いた。続く緊張感が、流石に彼にも疲労を与えているようだった。
だが、グレアムの前へ出された画面は、復旧の報告ではなかった。
フォボスの予測軌道に、新しい測位情報が加わった。それによると公転方向の速度が失われ、予測する軌道も少しずつ内側へ変わっていた。
「……パティ。このまま止まらなかったら、どうなる?」
「現在の推力が継続した場合の予測ですね」
「ああ。落ちた後まで見せてくれ」
パティが、フォボスの予測軌道を延ばした。
画面の中で、小さな衛星が火星へ近づいていく。やがて赤い地表へ重なったところで、映像が切り替わった。
衝突点から、同心円状に色の付いた帯が広がっていく。
グレアムが見慣れた地表の地図だった。都市の位置を示す印が、次々と警告色に変わる。
火星の都市というものは、地球に比べると都市同士が離れた場所に存在している。それらが、予測円にどんどんと飲み込まれていった。
「……おい、ちょっと待て。パヴォニス山に、山頂の火口よりでけえ穴が開いてんぞ」
「衝突地点には大きな不確実性があります。これは現在の条件から計算した想定例です」
パティが表示を拡大した。
地表を伝わる衝撃、大気中へ放出される物質、その後の輸送網への影響。別々の色で示された予測範囲は、衝突地点をはるかに越えていた。
「ここまでかよ……」
「はい。被害規模は衝突時の条件によって変動します。現状のまま衝突すれば、その衝突エネルギーは約5×10の22乗ジュール、TNT換算で12テラトンになります。また、途中でフォボスが崩壊した場合、衝突エネルギーは分散されますが被害範囲は更に広がる可能性があります」
グレアムは、もう一度軌道図へ目を戻した。
今も、あのAEドライブは動き続けている。
MROCCが外から測った値と、グラディヴス自身の観測は合っていた。
「フォボスの減速は続いています。現状の推力がこのまま続く場合、安全に入出港が出来る条件も変わります」
パティは、その計算と並べて退避の予定を出した。
船が来るまでの時間。
各区画から人が移動し、乗船するまでの時間。
港を離れた人を、安全な受入先へ運ぶ時間。
それらをつないだ予定の終わりは、画面の先まで伸びていた。
「これは、全員を避難させる場合か?」
「はい。現在報告されている滞在者と、集められる船で計算しました。今すぐに始める場合と、判断を1時間待つ場合です」
現在時刻から始まる予定には、遅れを吸収する空きが残っていた。
開始を後ろへずらすと、同じ人数を運ぶための枠が詰まる。
安全に輸送を続けられるタイムリミットへ収めるには、船の到着も乗船も、予定からほとんど遅れられなくなった。
「1時間待っても、移動中の船はその間に近づくだろ?」
「船は来ます。ただ、区画全体の人流の移動は、全面退避を決めるまで始められません。港の準備だけ進めても、到着した船へすぐに避難民全員を乗せられるわけではありません」
グレアムは、先ほど港を離れた旅客船を見た。
すでに出港を予定していた船でも、現地確認と乗船を済ませるまで動けなかった。
街にいる人間は、まだ自分がどの船へ乗るのかも知らない。
「このリミットは、越えたらフォボスが地表へ衝突するってことじゃねえんだな?」
「違います。遅れや故障に対処できる余地を残して、全員を退避させるための判断期限です。衝突する時刻より先に来ます」
パティが、遅れを見込んだ分を示した。
今なら、来られなくなった船の乗客を別の便へ回せる。
介助に時間が掛かれば、その次の乗船予定をずらせる。
1時間後の計画では、その空きがほぼなくなる。
「復旧を期待して待てば、退避しなくて済む可能性があります。ただ、復旧不能となった時には、待った分だけ退避の余裕が失われます」
グレアムは復旧班の報告を開き直した。
確認済みの欄は増えている。作業が進んでいるのは、事実だろう。
しかし、期限が迫っているのも事実だ。
「ここまで来てるなら、止まる方に賭けたくなるな」
そう言ってから、開始を遅らせた方の退避計画へ目を戻した。
予備の枠を削れば、全部収まる。紙の上なら、まだ間に合う計算だった。
「……その賭けを外した時に困るのは、これから乗る連中か」
グレアムは、データの送信先をマーカスとMROCCに指定した。
「現地の進捗も、こっちの観測も付けて一括で管制へ渡してくれ。退避の計算だけで話を決めてもらうわけにはいかん」
「条件の不確かなところも添えます」
パティが送った資料には、到着や定員の確認が済んでいない船も区別してあった。まだ来るか分からない船を、必ず使える輸送力として数えてはいなかった。
ほどなく、フォボス行政と港湾管理を含む非常指揮所から照会が来た。
『データを見させてもらった。ドライブ停止の見込みを、復旧担当からも受けている。その時間を待ってからでは、余裕を戻せないのか?』
「待ってる間も、人を出すのに必要な仕事は減らねえ。こっちの測定じゃ、フォボスの減速も続いてる」
グレアムが答えると、パティが計算の条件を示した。
「輸送力が増えれば更新できます。ただ、未確認の船を前提にはできません」
そこに港湾側から、使える設備を増やしているとの補足が入った。現地での確認を省けば回転は速くなるが、それは退避計画の前提にはできないという。
『人を動かし始めれば、その途中で混乱を出すわけにはいかない。復旧が間に合うなら、無理に移動させる危険も避けたい』
行政側の言葉に、グレアムはうなずいた。
外にいて、船を一隻動かすだけでも確認が必要な項目は多い。
あの街全体を動かす判断が軽いわけはなかった。
『復旧担当から報告。現地操作の照合を継続中。制御システムからの命令との切離しを確認した設備が増えている。停止の見込みは維持』
誰も、その報告を否定しなかった。
しかしパティが更新した退避計画では、発令を待っている間の時間が引かれていた。
非常指揮の回線が、いったん静かになった。
そして、行政と港湾管理局の決定が伝えられた。
『……フォボス全域からの人員全面退避を決定する。復旧班は停止作業を続行。退避の開始は、その結果を待たないこととする。区画別の移動時刻と指定ドックを通知する。要支援者と医療搬送を優先。MROCCは輸送船の進入・離脱を調整、MRSSはその救難支援に当たれ』
グレアムは了解を返した。
フォボス内で、住民向けの放送が始まった。
軌道変更設備の異常と停止作業の継続を伝えた後、各区画へ移動の指示が出た。
『端末と区画掲示で、移動開始時刻と指定ドックを確認してください。手荷物は指定の範囲に限ります。介助が必要な方は区画担当者へ連絡し、誘導をお待ちください』
MNSAから、区画誘導を支える配置の連絡が流れた。
医療班は、搬送先と使える通路を確認している。
港湾の担当者は、貨物のために残していた枠を旅客へと明け渡した。
グレアムの前の予定表から、貨物優先の表示が消えた。
空いた枠へ、避難輸送の船が割り当てられていく。
『こちらダリオ。エレナさんと港内の対応へ入ります。そっちは外をお願いします』
「わかった。出す船が決まったら、情報を早めに寄越せよ」
パティがMROCCの割当を受け取り、自機の観測情報へ照らし合わせた。
航路図の遠い側で、一隻の進路がフォボスへ変わる。別の船からも、到着予定を添えた引き受けの返答が来た。
軌道変更用大型AEドライブ群の運転は、まだ続いていた。
グレアムはその映像を残したまま、これから来る船の進入方向へ機体を向けた。




