第18話 重心
ニュースの音が、給湯器の作動音に半分隠れていた。
グレアムはカップを取り出し、待機室の壁面画面へ目を向けた。
焼けた工場ステーションの映像が流れている。数日前にダリオとエレナが残骸を片付けに行った場所だ。
その下には、火星圏の安全を問う大きな文字が出ていた。
『この頃、ニュースをつけるたびに何か起きているでしょう? 仕事で港を使うので、やっぱり気になりますよ』
街頭で取材を受けた男がそう答えた。直後、映像がスタジオへ戻る。
隣に座っていたパティは、自分の端末から顔を上げた。
『実際に、事故そのものが増えているのでしょうか?』
ニュースキャスターの問いかけに、コメンテーターが答えた。
『通常事故の年間発生件数を見る限り、例年と大きく変わっていません。直近のテロ事件による不安と、通常事故の統計は分けて考える必要があります』
画面が二つのグラフに変わった。
年ごとの事故件数。その隣に、死亡や壊滅的な被害へ至った事故の割合が並ぶ。後者は上下しながら、長い時間をかけて下がっていた。
「全体としては危険性は減っているようです」
パティが言った。
「みたいだな」
グレアムはカップを机へ置いた。
コメンテーターが、グラフの途中へ印を付ける。
『転機の一つになったのが、10年前のセカンド・ホライズン事故です。ただ、あの事故を境に、すべてが一度に変わったわけではありません』
グレアムは画面を見たまま、カップの取っ手から指を離した。
『救難機関同士の連携に加え、管轄をまたぐ緊急介入の手順や、非常時に誰へ権限を移すかが整備されてきました。航路管制、現場の救難隊、医療拠点の間で、必要な情報を共通の形で渡せるようにする。そうした積み重ねも、この数字に表れています』
『つまり、事故が起きても、被害を抑えられるようになってきた、と?』
『そうです。もちろん、テロへの不安を通常事故の数字で否定することはできません。一方で、ニュースを見て受ける印象と、事故の件数や結果が同じように動いているとも限りません』
古い事故の映像へ切り替わる前に、パティが口を開いた。
「緊急時の連絡先と、引き継ぐ条件が決まっている。その効果は大きいですね」
「毎回、そこから相談してたら間に合わねえからな」
今は出動前に受け入れ先が動き、現場の報告がそのまま向こうへ届く。グレアムが普段使っている手順にも、あの後で変わったものがあった。
それを自分が作ったわけではない。窓口の向こうで、続きを片付けた人間がいる。
「それでも、事故がなくなったわけじゃない」
カップを持ち上げたところで、呼出音が鳴った。
パティの端末に救難要請が開く。
グレアムもカップを戻し、自分の端末を取った。
『グレアム、ダリオ。多数傷病者案件だ。カリガと一緒に出てもらう』
マーカスの声に、待機室の空気が変わった。
『地球へ向けて出たコンラッド級の貨物船、乗員36名。出港後に本加速に入った直後、姿勢を崩している。多数負傷、与圧は維持。主推進は停止したとの報告だ』
「負傷者は動かせるのか?」
『自力移動できない者がいる。人数と場所は確認中。船側とMROCCの回線をつなぐ』
出動画面に、カリガと二機の編成が出た。専門救難隊、医療班の準備状況も、その下で更新されていく。
「パティ、情報収集を頼む」
「取得します」
パティはもう立っていた。
グレアムも椅子を押し戻す。飲み口に触れてもいないカップが、机に残った。
格納区画では、箱型の救難船の船首へ資材が運び込まれていた。
中型救難船【カリガ】級。
厚い上下のデブリシールドが開かれ、正面の大きな接舷口が見えている。固定された医療機材の脇を、専門救難隊員が通り抜けていった。
左右の外部連結部には、それぞれグラディヴスとサルースCを付ける準備が進んでいた。
エレナがサルースCの足元から片手を上げた。
「コーヒー、飲めた?」
「持ち上げるところまではやった」
「私たちは、お湯が出る前よ」
先を歩くダリオが振り返った。
「帰ってから入れ直しましょう。置いていくと、誰のか分からなくなりますから」
「俺のは机にある」
「なら、なおさら行方不明になりますね」
エレナが笑い、搭乗口へ向かった。
グレアムも前席へ身体を滑り込ませる。
後席の固定が終わると、パティが接続を確認した。外部映像の片側を、カリガの平たい側面が占めている。
連結部が噛み合い、振動が一度だけ座席へ伝わった。
「連結確認。推進方向をカリガの船体軸へ合わせます」
四本の推進アームが位置を変える。
向こう側のサルースCも、船尾へ噴射を通せる姿勢に収まった。
『両舷、準備はいいか。今日はちゃんと両側にいてくれよ』
カリガの操船席から、リック・ハーランの声が入った。
「途中で降りる予定はないさ。現場まではな」
『そこから先は降りてもらわないと困る。受け入れの準備はこっちでやる』
別の回線で、事故船の報告が始まった。
『船橋から居住区まで、複数箇所で負傷者が出ています。動ける乗員が固定を手伝っていますが、全員の確認はまだ――』
『分かっている区画から送ってください。自分で返事ができるか、出血があるか、どこを打ったか。確認できない項目は、そのままで構いません』
救急医療責任者のミレイユ・サヴァンだった。
区画図に印が付き、カリガ側の受け入れ欄へ引き継がれる。
『主推進は止めましたが、まだ揺れます。通路を動かすのは難しいです』
『無理に一か所へ集めず、今の場所と固定の状態を知らせてください。こちらから入る手順を組みます』
グレアムは、事故船の接舷口を図面で確かめた。
船が回っていても、グラディヴスだけなら取り付く場所を探せる。だが、その先に運び込む人間と機材がある。
『船内固定完了。出せます』
カリガから準備完了が上がった。
リックが進路を確認し、出港の応答を返す。
グレアムの画面に、救難編成全体の推力配分が出た。カリガの主機に、左右から二機の推力を加える。グラディヴスだけを先に走らせる時とは、上げ方が違った。
「サルースと合わせろよ?」
「現着後の保持作業を含めて配分しています。両機の熱と推進剤の余裕も監視します」
グレアムは設定を確かめ、前を向いた。
「グラディヴス、準備よし」
『サルースC、準備完了です』
『では、急ごう』
船体を伝わる響きが太くなった。
カリガの後方へ揃った推進器が噴き、格納区画の灯りが遠ざかっていった。
事故船の記録は、初期加速の開始時までは問題がなかった。
直後、貨物の固定状態に異常が出る。
近くの固定部にも、続けて警告が立つ。
その後で、姿勢制御の噴射が増えていた。
「主要貨物は地球向けのミスリル合金です。固定異常は貨物区画の一部に集中しています」
パティが積付図へ時系列を重ねた。
多数の貨物ブロックのうち、一群だけが本来の位置を外れている。最初の保持が外れた後、ずれた荷を受けた隣の固定部への荷重が跳ね上がっていた。
そこから先の配置は、船側の記録だけでは埋まらなかった。
「最初に荷が動いたのか、やっちまったな」
「その可能性が高いです。主推進の停止前から、予定した姿勢変化と実際の動きが一致していません」
船側から新しい報告が入った。
『貨物区画は乗員区画から分離されています。与圧殻への貫通はありません。負傷した者は、急に船が振られた時に、壁や設備へぶつかっています』
声の後ろで、別の乗員が誰かの名前を呼んだ。
遠くから返事があった。短く、苦しそうな声だった。
『姿勢制御を切ると、回転が残ります。戻せば一度は収まるんですが、その後でまた別の方へ持っていかれる。今も補正が続いています』
「無理に元へ戻そうとしなくていい。こちらで状態を見る。主推進は止めたままにしてくれ」
グレアムは記録を開いた。
滑らかになるはずの線が、噴射のたびに別の曲がり方をしている。
『カリガから両機へ。このままでは接舷できない。手前で待つ。先に頼む』
「了解。入れるようにする」
無線ではミレイユと事故船のやり取りが続いていた。
まだ空欄の残る区画図を見てから、グレアムは接近用の計器画面を前へ出した。
貨物船は、外から見る限り形を保っていた。
長い貨物区画の端を、細いトラスが走っている。船橋も機関区も、あるべき場所にあった。大きな破片が飛び散っているわけでも、空気が白く噴き出しているわけでもない。
それなのに、船体の端が落ち着かなかった。
機関部の輪郭がゆっくり横へ流れる。
小さな噴射が灯ると、その動きが鈍る。次には船首が、それまでと違う方向へ振れ始めた。
『こちらで待機する。両舷、分離準備』
カリガが安全距離で減速を終えた。
グレアムは連結部の荷重が抜けたことを確かめ、解除を返す。
「分離します」
パティが固定を解いた。
画面を占めていたカリガの側面が離れる。反対側へ出たサルースCも、船尾を避けて事故船へ向かっていた。
グレアムはまず、船体の動きに並んだ。
接舷口の縁が一定の速さで流れた後、不意に横へ逃げる。今のカリガをここへ入れれば、正面を合わせる前に船首が押される。
「外部観測記録を取り込みました。貨物の積付データ、現在の回転、噴射履歴を合わせます」
パティの表示で、積付図と実測の線が重なった。
貨物を元の場所に置いた計算では、噴射した後の動きが合わない。位置をずらすと差は縮まるが、その配置のままでは次の動きを説明できなかった。
「どうやら、重い物がまだ中で動いてるな……」
「はい。重心の位置だけでなく、回しにくさも変わっています。船側は貨物を固定した状態の制御モデルを使っているため、補正が実際の状態に追いついていません」
加速中に貨物がずれれば、船を押す力の通り方が変わる。回転を抑えようとしても、その間に荷が動けば、同じ噴射で同じ結果にはならない。
船は、さっきまで正しかった位置へ、自分を戻そうとしていた。
「向こうに任せたままだと、荷物を追っかけ続けるわけか」
「推定配置で船側の制御を更新する案はあります。ただし、貨物が再移動すれば、またずれます。自動補正を止め、こちらの2機で実測を見ながら回転を抑える方が、接舷までの動きを管理できます」
「止めた後は?」
「残った回転はそのままです。貨物の動きでも変化します。急に制動すると、固定部と船体へ荷重が集中します」
グレアムは船首から機関部までを見た。
貨物を積み直すには人を入れなければならない。その人を入れる船が、まだ近づけない。
「外からやる。完全に止めるより、カリガが入れる状態を先に作るぞ」
パティが制御案を作業画面へ移した。
「MROCC、貨物船の自動姿勢補正を止めたい。主推進停止を維持して、勝手に噴射が再開しない状態にしてくれ。切替は船側と合わせる」
『了解。船側へ確認中。外部安定化への移行手順を共有します』
グレアムはダリオへ回線を切り替えた。
「俺は船首寄りを取る。後ろ側、選べるか」
『今、見ています。機関区の手前なら、構造へ荷重を流せます。ただ、最初の候補は貨物の支持部に近すぎます。もう一つ後ろへ回ります』
サルースCが、細いトラスの陰へ滑り込んだ。
エレナから接触部の映像が届く。
『ここなら、壊れた固定部を引っ張らずに済むわ。外板は避けて、内側の主構造で受ける。荷重を見るから、こっちの固定が済むまでは引かないで』
「分かった。そっちの条件が出てから合わせる」
パティが二つの接触点を結んだ。
片側から大きく押す案が消え、前後へ離れた二点に推力の矢印が出る。方向も長さも同じではなかった。
『貨物船、切替準備できました。主推進停止を維持。自動姿勢補正を解除します』
MROCCの確認が続いた。
噴射履歴に立っていた細かな印が途切れる。
船体は回り続けた。
だが、突然向きを変える噴射はなくなった。
「外部安定化へ移る。船内へ伝えてくれ。これから動きを抑える」
『了解。全区画へ通達します』
グレアムは推進器の向きを変え、船首寄りの構造へ寄せた。
先に機体の動きを合わせる。固定具が届く距離へ入っても、回転を止める入力はまだ入れない。
「パティ、取れ」
腕が伸びた。
選んだ構造へ固定具が掛かり、離れた箇所にも支持が置かれる。荷重の表示が僅かに立った。
「固定確認。接触部の荷重、許容内」
『こちら、まだです。少し待ってください』
ダリオの声に、グレアムは推力を保った。
サルースCは接触点と一緒に回りながら、片側の固定具を置き直している。
『その位置なら振られても縁に当たらない。……固定よし』
『サルースC、保持できます。こちらの推力条件を送ります』
パティの表示が更新された。
グレアムは荷重の上がる方向と、カリガの待機位置を見比べる。
「ゆっくり掛ける。変わったら言え」
『こちらも合わせます』
推力を上げた。
固定具から、低い振動が来た。
貨物船の輪郭は、すぐには止まらない。グレアムは回転を追う入力を残したまま、接触部に掛かる力を増やしていった。
船体の向こう側で、サルースCが別の方向へ噴く。
画面の中を流れていたトラスが、少しずつ遅くなった。
「角速度、低下しています。今の配分を維持してください」
グレアムは返事の代わりに、手を止めた。
待機中のカリガが、外部映像の隅に見えている。船首はまだ閉じていた。
荷重の線が揺れた。
下がり始めていた回転の表示に、別の軸の動きが混じる。
「貨物が動いた可能性があります。こちらの接触部、荷重上昇」
グレアムは押し返しかけた手を緩めた。
船の端が、また僅かに流れ始める。
『こっちも出てるわ。ダリオ、横を抜いて』
『抜きます。グレアム、こちらは向きを変えます。元の配分には戻さないでください』
「分かってる。パティ、今の動きで組み直せ」
サルースCの推力の矢印が回った。
グラディヴス側の矢印も短くなり、少し向きを変える。
「この方向なら、支持部の荷重を抑えて続けられます。ただし、制動に時間が掛かります」
「構わない」
もう一度、ゆっくり力を掛けた。
上がりかけた荷重が収まり、船体の動きも鈍る。ダリオは一度抜いた推力を、前と同じ強さには戻さなかった。
『こちら、今の状態なら維持できます』
「こっちもだ。リック、見えてるか?」
『見えてる。もう少し、今の動きを続けてくれ。接舷口の振れ方を取り直す』
グレアムはカリガへ目をやった。
全体の回転は小さくなっている。それでも、長い船体の途中にある接舷口は動く。
パティが予測線を延ばす。
リックから返された接近線が重なった。
『この姿勢なら入れる。これ以上、正面をこっちへ向け直さなくていい』
「パティ」
「接舷可能域です。完全停止にはまだ時間が必要ですが、現在の残留運動ならカリガ側で追従できます。2機の保持を継続することが条件です」
船側の回線で、誰かが医療班の到着を尋ねた。
ミレイユが、接舷の準備に入っていると答える。
「今の状態を保つ。ダリオ、そのままいけるか?」
『いけます。こちらの接触部も落ち着いています』
「よし。リック、来てくれ」
了解という声の少し後、カリガの船首が開いた。
上の厚いシールドが持ち上がり、下の一枚が下方へ退く。二枚に隠れていた大型ドッキングポートが、事故船へ向いた。
その奥に、照明のついたエアロックが見える。
『専門救難隊、進入準備完了』
『医療班、受け入れ準備完了』
短い声が続いた。
グレアムは固定部の荷重から、カリガまでの隙間へ視線を動かす。
箱型の船体が近づいてきた。
まっすぐ入ってくるように見えて、事故船の口に合わせて僅かに横へ流れている。
リックは残っている動きを消そうとせず、接触する時に差が残らないよう、船首の位置を変えていた。
『ここから横へ振らないでくれ。そっちが止め切るのを待つより、今の動きで合わせる』
「変える時は先に言う」
パティが、二機と二隻の動きを一つの画面へまとめた。
サルースCの保持点は船体の陰にある。見えない側から届く荷重の記録と、ダリオの短い応答が、途切れずに続いていた。
接舷口の縁が、カリガの船首に重なる。
グレアムは操作器を握り直した。力を足すためではない。同じところを、同じ強さで保つためだった。
「後席、保持継続できます」
すぐ後ろから声がした。
『サルースC、保持継続』
向こう側からも返ってくる。
グレアムは、最後の隙間を見た。
「今だ、入れ」
カリガが、開いた船首を事故船の接舷口へ寄せていく。
クアドリガの二機は、外で船を支え続けていた。




