第12話 現場判断
避難モジュールが、ゆっくりと施設から離れていく。
「パティ、状況確認!」
「避難モジュールの完全分離を確認。気密、生命維持とも維持。非常帰還系が起動しています」
表示の上で、施設から離れていく白いモジュールに新しい航跡予測が重なった。
「帰還シーケンスは?」
「正常に移行。姿勢制御、デオービット系とも作動しています。火星地表への自律帰還を開始します」
グレアムは操縦桿へ掛けていた力を少しだけ抜いた。
少なくとも、今すぐ手を伸ばさなければならない状態ではない。
避難モジュールは、単なる退避場所ではない。施設そのものを放棄しなければならなくなった時、そのまま火星へ人を帰すための非常帰還艇でもある。
『避難モジュール、帰還シーケンス確認した』
現場管制の声が入る。
『こちらからもテレメトリを受信してる。現時点で帰還系に異常なし。地上の回収班へ連絡を回す』
「中は11人だったな」
『ああ。内圧も生命維持も正常だ』
「パティ、帰還条件は?」
「非常帰還時の認証定員は10名です。現在11名。設計保証条件から外れています」
「一人多いのか」
「はい。ただし短時間の避難収容としては生命維持能力を直ちに超過しません。帰還についても、標準体重の乗員1名分と想定可能な質量偏在を加え、再評価しています」
パティが表示を切り替える。
「もう一つ。非正規分離によって、接続カラーと支持部の一部がモジュール側へ残っています」
拡大された映像に、外周から僅かに突き出した構造物が示された。
大きな残骸ではない。
正常な分離なら施設側へ残るはずだった、接続部の一部だ。
「質量は?」
「材質と形状から推定しています。これも帰還計算へ反映済みです」
「11人目がどこにいるかは?」
「分かりません。モジュール内の乗員位置と拘束状態を、質量特性の算出に使える精度で取得することは出来ません」
「それ込みの計算だな?」
「はい。いずれも不確定幅として扱っています。帰還マージンは減少しますが、許容範囲内です。モジュールは自律帰還可能と判断します」
なら、普通ならここで終わりだ。
数字も手順も、そう言っている。
モジュールは帰還艇として地表へ向かう。
グラディヴスは事故施設へ戻り、まだ残っている救難作業へ加わる。
グレアムは機体を施設側へ向けかけた。
その時、モジュールの小さな姿勢制御噴射が光った。
白い船体が僅かに向きを変える。
止まり、少ししてまた光る。
「……」
「グレアム?」
「もうちょっと見てよう」
「帰還シーケンスに異常はありません。施設側では救難活動が継続中です」
「分かってる。ちょっとだけだ」
グラディヴスは距離を保ったまま、モジュールと並んだ。
また姿勢制御の噴射。
少し傾き、戻る。
「……パティ。こいつ、さっきから忙しくないか?」
「姿勢制御ですか?」
「ああ。吹いて、止めて、また吹いてる」
数秒。
正面モニターの端へ細かな数値が並んだ。
「姿勢偏差は許容範囲内です。角速度にも異常はありません。標準的な帰還シーケンスと比較すると、姿勢修正回数はやや多い傾向があります」
「原因は?」
「特定出来ません。11名搭乗による質量偏在、分離時に残った接続構造、非正規分離による微小な質量特性変化。いずれも単独では現在の挙動を異常と判定する量ではありません」
「それらが全部重なったら?」
「その組み合わせも不確定幅へ含めています。現時点では帰還可能という判断は変わりません」
グレアムはモジュールを見た。
また、小さく噴く。
戻る。
異常ではない。
だが一度気になった小さな噴射が、今度は妙に目に残った。
余裕のある飛び方にも見えなかった。
その時、通信へダリオの声が入った。
『グレアム、モジュールは大丈夫ですか?』
「帰還系が生きてる。そのまま地上へ降りるそうだ」
『わかりました、ならこっちをお願いします。未確認がまだ2人います。第3区画も作業機だけじゃ心許ないですから』
「分かってる」
『何かありましたか?』
返事をしようとして、グレアムは止まった。
何かあるのか。
警報はない。帰還系も動いている。
パティの計算も筋が通っている。
それでも、さっきまで「危険ではない」と見えていた場所が、見えていなかった何かで爆発した。
同じことを繰り返すのが、ひどく嫌だった。
正常という表示を見ながら、見えていない何かを待つのはもっと嫌だった。
「……分からん」
『は?』
「分からんけど、なんか嫌だ」
通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
『……子供のわがままですか?』
「うるせえ」
エレナの声が混じる。
『どこが嫌なの?』
「姿勢制御が妙に細かい。全部正常値だけどな」
『パティちゃんは?』
「帰還可能と判断しています」
パティ自身が答えた。
「11名搭乗による設計条件外を含めても、現在取得可能な情報では帰還マージンは維持されています。グラディヴスは施設救難へ残留することを推奨します」
それにグレアムは何も返さず、モジュールを見た。
また、小さく光った。
『……グレアム、どうするんですか?』
ダリオの声。
「ああ」
分かっている。
ここで追えば、グラディヴスは軌道上の事故現場から抜ける。
モジュールが普通に帰れるなら、ただの無駄足だ。
その間に施設側で何か起きれば、自分たちはそこには戻れない。
「パティ」
「はい」
「今のデータなら、お前なら残るんだな?」
「はい。モジュールの帰還成功見込みは十分にあり、施設側では救難活動が継続しています。現時点でグラディヴスを離脱させる客観的根拠は不足しています」
「……そうだよな」
グレアムもそう思う。
普通なら。
理屈だけなら、自分でも同じ答えになる。
それでも。
「悪い」
操縦桿を倒した。
「モジュールを追う。現場判断だ」
「推奨しません」
「ここまでで不測の事態が二回起きてる。この事故そのものが一つ目、このモジュールの分離が二つ目だ。二度ある事は、三度ある」
「三度目の正直という言葉もありますが」
「そうだな」
一拍。
「……了解しました」
グラディヴスの四本の推進モジュールが開いた。
『グレアム!』
「ダリオ。上、頼む」
『……第3区画へ作業機を1機追加します。こっちは捜索を切り上げ次第、構造側へ回ります』
「悪いな」
『外してたら、帰ってきた時に奢りですからね』
「安い酒ならな」
『楽しみにしています』
通信が切れる。
加速。
施設が後ろへ遠ざかっていく。
そこで続いている仕事まで、視界の外へ置いていく。
前には、火星へ向かう小さなモジュールだけがあった。
追いつくまで、それほど時間は掛からなかった。
グラディヴスはモジュールの斜め後方へ入り、相対速度を揃える。
「近くで見ても、残ってるのはあの接続部くらいか」
「確認出来る外形損傷は軽微です。接続カラーの残留部も、推定範囲内です」
「姿勢制御は?」
「継続しています。修正量は先ほどより増加しています」
「まだ正常か?」
「はい。ただし予測値との差が拡大しています」
モジュールの姿勢制御噴射がまた光った。
ほんの僅かに船体が揺れ、戻る。
だが、戻り方がさっきより遅い。
「パティ。こいつの姿勢制御、読めるか」
「制御プログラムそのものは取得出来ません」
「当たり前だ。どうズレて、どれだけ吹いて、どこへどう戻るか。その動きを見ろ」
「了解しました。観測を開始します」
グレアムは手を出さず、モジュールの横を飛んだ。
助けに来たのに、今は触らないことが仕事だった。
一度、傾く。
噴く。
戻る。
もう一度。
今度は反対側へ僅かにずれ、短い噴射が二度入る。
「まだ触るなよ」
「はい。応答特性を推定しています」
正面表示に、モジュールの姿勢偏差と噴射、角速度変化が重ねられていく。
「どうだ?」
「次の修正まで」
また噴いた。
パティが即座に表示を書き換える。
「標準モデルとの差を確認しました」
「何かわかったか?」
「モジュール側の制御は正常に働いています。ただし同じ補正噴射に対する実際の姿勢応答が、推定値より僅かに小さく、さらに一方向だけ戻りが遅れています」
「11人目のせいか、残骸のせいか……」
「判別出来ません。両方を含む実際の質量分布と慣性特性が、概算モデルから僅かに外れている可能性があります」
「だが今は戻せてる」
「はい。真空中では姿勢制御系が吸収出来ています」
「そこに空気が当たったら?」
「残留構造による空力モーメントも加わります。現在の差が同じ方向へ重なった場合、姿勢制御余裕を想定以上に消費する可能性があります」
「どのくらい危ない?」
「まだ帰還中止を要する値ではありません」
「そう来ると思ったよ」
「ですが、先ほどより不確定幅の上限に近づいています」
グレアムはモジュールを見た。
どれか一つなら問題ない。
十一人目も、小さな接続構造も、非正規分離のずれも。
一つずつなら許容出来るものが、同じ機体の中へ重なっている。
全部が少しずつ、同じ方向へ余裕を削っている。
「上層大気までは?」
「まだ時間があります」
「もう少し見るぞ。観測と予測を更新し続けろ」
「はい」
モジュールは火星へ落ちていく。
やがて、目に見えない大気が機体へ触れ始めた。
「外気密度上昇」
モジュールが僅かに傾く。
姿勢制御が噴いた。
戻り切る前に、もう一度噴く。
「パティ」
「姿勢修正要求、増加。先ほど推定した応答特性からの予測を上回っています」
「やっぱりか」
「現在の傾向が継続した場合、大気圏進入中に耐熱姿勢の維持余裕が規定値を下回る可能性があります」
今度は、数字にも出た。
「モジュール内部と話せるか?」
「回線を接続します」
短いノイズ。
『……こちら避難モジュール』
さっきの女性の声だった。
「MRSSのグレアムだ。帰還系は動いてる。ただ、姿勢制御の余裕が少し足りなくなりそうだ。こちらで補正しながら一緒に降りるぞ」
『私たちはどうなるんですか?』
「帰れるさ。そのために来た」
少し間があった。
『……お願いします』
「任せろ」
同じ言葉だった。
今度は、さっきより重かった。
「パティ。保持出来る場所を2点出せ。残り2本は姿勢制御に使う」
「構造図と現在の外形から抽出します」
表示上に、モジュールの外周構造へ二つの点が示された。
「そこか」
「局所荷重は許容範囲です。モジュール側の姿勢制御は停止させません」
「止めない?」
「モジュール自身が戻せる分は任せます。先ほど観測した応答特性から、設計時の想定との差だけをこちらで補正します」
「つまり、足りない分だけ押すんだな」
「概ねその理解で問題ありません。補正量と方向は連続して更新します」
「よし、そっちは俺がやる。指示をくれ」
「その前に確認します。ここからモジュールを保持したまま本格降下へ入れば、降下前減速と大気圏内運用で推進剤を消費します。この任務中、自力での軌道復帰は出来ません」
「仕方ねえだろ」
「はい」
グレアムは一度だけ、遠ざかった事故施設の方向を見た。
「ダリオなら大丈夫だ。行くぞ」
「了解しました」
グラディヴスがモジュールへ近づく。
二本の推進モジュールを前へ伸ばし、マニピュレーターを開く。
「相対速度、もう少し落とす」
「そのまま。保持姿勢を表示します」
誘導表示へ機体を合わせる。
「ここか」
「はい。接触」
一本目。
続いて二本目。
二点でモジュールを保持する。
「荷重は?」
「許容範囲。保持力を上げすぎないでください」
残る二本は自由なまま、外側へ開く。
モジュールの姿勢制御噴射が短く光った。
「モジュール側、右修正。こちらはまだ入れません」
「了解、待つ」
船体が戻る。
戻り切る少し前、また右へ流れ始める。
「今です。左回頭方向へ補正。小さく」
グレアムが操縦桿を当てる。
自由な二本の推進モジュールが僅かに向きを変えた。
「これくらい?」
「少し強いです。3割抜いてください」
「了解、抜く」
「そのままです」
モジュールが目標姿勢へ戻った。
「モジュール側の追加噴射、減少」
「どうだ、制御は合ったか?」
「先ほどより予測応答へ近づいています。補正モデルを更新します」
もう一度、モジュールがずれる。
「右下方向へ流れます。モジュール側が先に修正。待ってください」
「了解」
「……機首を僅かに左。補正入力を表示します」
グレアムが表示へ合わせて操縦桿を動かす。
機体側の制御が、自由な二本へ必要な推力を配分した。
「どうだ?」
「良好。モジュール側の制御と干渉していません」
パティはモジュールの動きを読み続ける。
グレアムはその指示を受け、グラディヴスを動かす。
やがて空気が濃くなるにつれ、接続部の小さな残留構造が作る偏りも大きくなっていった。
「補正量、増加しています」
「まだ持てるだろ」
「保持2点の荷重は許容範囲。他2本の姿勢制御余力も維持しています」
「じゃあ行くぞ」
「はい」
パティがモジュールとの回線を開く。
「モジュールへ。こちらで姿勢制御を補助しています。帰還系はそのまま維持してください。全員、拘束状態を確認して衝撃に備えてください」
『り、了解しました!』
薄い光が機体の周囲を流れ始める。
真空の黒だった窓の外に、初めて大気の存在が見えた。
「モジュールの耐熱姿勢は?」
「維持。現在の補正で本来の進入軌道へ収束しています」
振動が強くなる。
モジュールが横へ逃げようとする。
「右へ流れるぞ!」
「モジュール側の修正開始。待って――今。左へ補正、先ほどの7割」
「7割!」
グラディヴスが力を加える。
「戻った!」
「そのまま維持してください」
モニターに映る青白い光が太くなる。
グレアムは操縦桿を握り込み、目の前の姿勢だけを見る。
パティはモジュールの減速用エンジンの噴射と実際の動きを追い、次のずれを読む。
火星の空が、黒から赤へ変わり始める。
長かった。
姿勢表示と噴射指示だけを追っている間、時間の感覚が薄れていた。
だが、いつまでも続くわけではなかった。
速度が落ちるにつれて振動が弱くなり、青白い光も薄れていく。
「高熱流域を通過」
「……抜けたか?」
「はい。ただし終末降下が残っています」
「分かってるよ」
グレアムは肩から力を抜く暇もなく、下を見た。
赤茶けた地表が広がっている。
モジュールの非常帰還系が終末降下へ移る。
「帰還艇側の減速系、作動確認」
「後はそのまま任せていいか?」
「作動自体は正常です。現在の姿勢偏差も収束しています。ただし11名搭乗による着地荷重を考慮し、グラディヴス側でも降下率を補助することを推奨します」
「今度は行けって言うんだな?」
「今更でしょう」
「そりゃそうだ」
グレアムは笑った。
「保持したまま下ろす。接地前に離すぞ」
「了解。モジュール側の降下制御を優先し、こちらは不足分のみ補います」
モジュールの降下に合わせ、自由な二本の推進モジュールが推力を足す。
「高度」
パティが読む。
「速度」
グレアムが合わせる。
地面が近づく。
「モジュール接地まで10秒。姿勢安定」
「保持を抜く」
「左右均等に。モジュール側の姿勢制御を確認しながら」
グレアムが二本のマニピュレーターに掛けていた力を少しずつ抜いていく。
「荷重解放。モジュール側のみで姿勢維持を確認」
二本の腕が同時にモジュールから離れた。
グラディヴスはすぐ横へ退き、四本の推進モジュールを着地姿勢へ開く。
「接地まで――」
最後の数字を聞く前に、グレアムには分かった。
「今だ」
モジュールの減速系が最後の力を使う。
鈍い衝撃とともに、モジュールが火星の地面へ降りた。
少し遅れて、グラディヴスもその横へ四本の脚を着く。
砂塵がゆっくりと舞い上がり、二つの機体の足元を赤く霞ませた。
『……着いた?』
通信の向こうから、誰かの声がした。
「ああ」
グレアムは息を吐いた。
「火星だ」




