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閑話7 二度測り、一度だけ切れ



――20XY年3月7日、東京/ロンドン/メンローパーク/各家庭のリビング


土曜日の朝、世界は子どもの前に置かれた。


それが一番まずかった。


大人は、分からないものを分からないまま、しばらく持っていられる。少なくとも、持っているふりができる。新聞を読む。専門家のコメントを聞く。会議を開く。態度を保つ。怖くない顔をする。分からないことを、難しい言葉で包んで棚に置く。


子どもは、そうはいかない。


子どもは聞く。


あれは何。


来るの。


悪い人なの。


天使なの。


宇宙人なの。


どうして浮いてるの。


なんで羽があるの。


大統領府ってどこ。


日本には来ないの。


学校行っていいの。


夜、寝てる間に来るの。


テレビを消したら、来ないの。


そして大人は、そこで初めて、自分が何も分かっていないことを家庭の照明の下で見せられる。


会見室では言える。


確認中です。


専門家と協議しています。


現時点で大規模な被害は確認されていません。


しかし、朝食のテーブルで、牛乳を飲みながらこちらを見る八歳の子に同じ言葉は使えない。


使った瞬間、たぶん大人の方が泣きそうになる。


だから土曜日、人類は子ども向けの言葉を探すことになった。


子ども向けの言葉は、簡単な言葉ではない。


逃げられない言葉だ。



午前五時四十分、東京。


公共放送の教育番組センターには、普段より早い時間に明かりがついていた。


廊下の壁には、色あせた番組ポスターが並んでいる。歌う野菜。踊る文字。宇宙服を着た犬。歯みがきをする恐竜。泣いている子どもに傘をさしかける黄色いぬいぐるみ。


その中の一枚に、ポコがいた。


丸い。


青い。


耳のようなものが二つあるが、何の動物かは決まっていない。子ども向け番組のキャラクターは、しばしばそういう形をしている。うさぎとも犬ともクマとも言い切れない。言い切れないから、多くの子どもが自分の好きなものを入れられる。


ポコは、二十三年続いている。


三枝玲奈は、そのポスターの前で足を止めた。


自分の顔も一緒に写っている。


十年前の顔だった。


若い。


というより、まだ「子ども向け番組のお姉さん」と呼ばれることを少し照れている顔だ。今はもう、照れはない。慣れたわけではない。照れが仕事の邪魔になることを覚えた。


子どもは、大人の照れを見抜く。


見抜いたうえで、容赦なく利用する。


だから、子どもの前では、ふざける時も真面目にふざける必要がある。


玲奈は会議室へ入った。


もう人がいた。


構成作家の森山航。


心理監修の白石澄子。


番組プロデューサーの横井。


着ぐるみ担当、という呼び方を本人が嫌うため、社内では「ポコ操演」と呼ばれている久保田健。


それに、法務、編成、報道連携、デジタル配信担当、字幕担当、手話監修。


子ども向け番組の朝会としては、人数が多すぎた。


世界史が来ると、会議室はすぐ狭くなる。


机の中央には、今日の臨時特番の台本が置かれていた。


タイトル案。


《ポコといっしょに考えよう 空から来るかもしれないお客さん》


玲奈は、そこで少しだけ眉を動かした。


「お客さん?」


横井が先に答えた。


「柔らかくしようと思って」


「柔らかすぎませんか」


森山が言った。


「お客さんって言うと、歓迎前提になる」


「じゃあ、“来る人”」


法務が首を振る。


「人と断定するのは避けたいです」


「“来訪者”」


「子どもには硬い」


「“あの人”」


「人」


「“あの子”」


「年齢を固定する」


「“画面に出た白い服の存在”」


玲奈は思わず笑った。


笑ってから、笑う場所ではないと思って口を押さえた。


白石澄子だけが、少しだけ笑っていた。


臨床心理士として、災害時の子ども支援にも関わってきた人だった。六十代半ば。白髪を短く切り、いつも小さな布のバッグを持っている。会議で一番静かな人ほど、時々一番重いことを言う。


「呼び方は、番組内で決めつけない方がいいと思います」


白石が言った。


「子どもたちは、もう“アンドロ”と呼んでいます」


デジタル担当が言う。


「検索でもその呼称が圧倒的です。番組で使わないと、逆に届かない可能性があります」


「使わないのではなく、扱うんです」


白石は、台本の余白を指で叩いた。


「“アンドロって呼んでいる子もいるね。でも、本人がそう呼んでほしいかはまだ分からないね”と」


会議室が少し静かになった。


それは、子ども向けであると同時に、大人向けでもあった。


名前をつける前に、相手に聞く。


できそうで、人類はたぶんまだできていない。


横井がメモする。


「呼称は、決めつけない」


森山が、台本の一ページ目を開いた。


「問題は冒頭です。ポコが怖がって、玲奈さんが“大丈夫だよ”と言う流れにしてあります」


白石がすぐに首を振った。


「そこは変えたいです」


「“大丈夫”は駄目ですか」


「駄目ではありません。でも、今は大人も全部は分かっていない。大丈夫と断定すると、子どもは大人の顔と現実のズレを感じます」


「では、“怖くないよ”も」


「言わない方がいいです」


久保田が、ポコの手袋を膝に置いたまま言った。


「ポコ、怖がっていいんですか」


「むしろ、ポコが怖いと言ってくれた方がいい」


白石は答えた。


「子どもが怖いと言える場所になるから」


玲奈は、台本の一行を見た。


ポコ「こわくないよね?」


玲奈「うん、こわくないよ」


その二行が、急に嘘に見えた。


嘘ではないかもしれない。


でも、言えない。


彼女は赤ペンを取り、二行を消した。


代わりに書く。


ポコ「ぼく、ちょっとこわい」


玲奈「うん。こわいって思ってもいいよ」


書きながら、胸の奥が少しだけ重くなった。


子ども番組で、ポコに怖いと言わせる。


それは、いつもの仕事より少しだけ難しかった。



午前六時二十五分、ロンドン。


公共放送の子どもニュース編集部でも、似たような会議が行われていた。


画面には、日本、韓国、カナダ、オーストラリア、ドイツの子ども向け番組担当者が小さく並んでいる。公式な国際会議ではない。番組関係者同士の緊急共有だった。


「怖がらせないことと、嘘をつかないことは違います」


英国側の編集者が言った。


「映像は使いますか」


韓国の担当者が聞く。


日本側の横井は、東京から参加している。画面の端で玲奈も聞いていた。


「うちは、最初の数秒だけにします」


英国側。


「顔のアップや翼の強調は避ける。反復再生もしない。大人が横にいる前提の時間帯で」


「うちは、絵に置き換えるかもしれません」


カナダ側が言った。


「本人の映像をそのまま見せると、幼児が夜に思い出す可能性がある」


「絵にすると、可愛くなりすぎませんか」


ドイツ側。


「そこが難しいです。可愛くしすぎると、模倣が増える」


「怖くしすぎると、眠れなくなる」


「中立の絵なんて描けますか」


誰もすぐには答えなかった。


子ども向けの画面は、いつも過剰に意味を持つ。


色。


丸さ。


音楽。


間。


目の大きさ。


声の高さ。


説明するつもりがなくても、全部が説明になる。


「危険なまねについては?」


配信担当が言った。


「羽根を背負って高い場所から飛ぼうとする動画、耳を加工する動画、白い目薬やカラーコンタクトを勧める投稿が出始めています」


その場の空気が少し硬くなった。


具体的な方法は出さない。


しかし、危険があることは伝えなければならない。


横井が言った。


「うちは、“体を傷つけるまねはしない”“高いところから飛ばない”“大人に相談する”を入れます」


「直接的すぎませんか」


「直接的でないと、届かない」


玲奈は、そのやり取りを黙って聞いていた。


高いところから飛ばない。


たったそれだけの文が、今週の人類には必要になっている。


白い翼の少女が、ほんの少し地面から浮いていたから。


その少しが、子どもの想像力へ入り込んだ。


想像力は、宝物であり、危険物でもある。


会議の最後に、英国側の編集者が言った。


「共通して言えるのは、たぶん四つです」


画面の向こうで、彼女は指を折った。


「見続けなくていい。怖いと言っていい。まねしなくていい。信頼できる大人と話していい」


誰かがメモを取る音がした。


玲奈も書いた。


見続けなくていい。


怖いと言っていい。


まねしなくていい。


大人と話していい。


短い。


子ども向けの言葉は、短くなければ届かない。


だが、短くするために、大人は長い会議をしなければならない。



午前七時二分、東京。


スタジオには、いつものセットが組まれていた。


丸いテーブル。


低い椅子。


色のついた棚。


床に描かれた小さな星。


手前には、ポコの立ち位置を示すテープが貼ってある。子ども向け番組のセットは、画面で見るよりずっと線が多い。ここに立つ。ここで止まる。ここから先は照明が落ちる。ここはカメラに映る。ここは映らない。


世界は、子どもの前に出る時ほど、大人の細かい線で支えられている。


久保田は、ポコの頭部を抱えていた。


青い丸い頭。


大きすぎない目。


口は動かない。声は別室の声優が当てるわけではない。久保田本人が中で声を出す。だから、ポコの声には時々息が混じる。長く見ている子どもは、その息を好きになる。


玲奈は、ポコの顔を見た。


「今日、怖がれる?」


久保田はポコの頭を抱えたまま、少しだけ考えた。


「ポコは、怖がるの得意じゃないんです」


「そうなの?」


「ポコは、いつも子どもが怖い時に横にいる役なので。ポコ自身が怖がりすぎると、子どもが不安になる」


白石が近くで聞いていた。


「怖がりすぎなくていいです」


彼女は言った。


「怖いけど、一人じゃない。そこまで」


久保田は頷いた。


「ポコ、泣いてもいいですか」


横井が即座に言う。


「泣くのは強すぎる」


白石も頷く。


「涙は使わない方がいい。小さい子には、その表情だけで引っ張られる」


「じゃあ、声を小さくする」


久保田はポコの頭を見ながら言った。


「いつもの半分くらい」


玲奈は、台本を見た。


冒頭。


ポコが、画面の隅からゆっくり出てくる。


いつものように跳ねない。


玲奈が気づく。


ポコが言う。


「玲奈ちゃん、ぼく、昨日からテレビを見すぎて、胸のところがぎゅっとする」


玲奈が答える。


「そうなんだね。ポコ、こわかった?」


ポコ。


「うん。ちょっとこわい。あと、見たい気持ちもある」


ここが大事だった。


怖いだけではない。


見たい。


子どもは、怖いものを見たがる。


見たい自分を責めないようにする。


でも、見続けなくていいと伝える。


玲奈は、その流れを何度も口の中で確認した。


子ども番組は、簡単に見えて、文の重心が少しずれるだけで危うくなる。


「怖いなら見ないで」と言うと、見たがる子が悪いように聞こえる。


「見てもいいよ」と言うと、見続ける子を止められない。


「大丈夫」と言うと嘘になる。


「危険」と言うと夜に残る。


「分からない」と言うと突き放しになる。


「一緒に考えよう」と言うと、少しだけ近づける。


その少しだけが、今日の仕事だった。



午前八時二十分、メンローパーク。


プラットフォーム企業の子ども安全チームでは、子ども向け番組との連携窓口が開かれていた。


昨日まで、放送局とプラットフォームは、しばしば敵のように見ていた。


違法アップロード。


切り抜き。


広告収益。


子ども向けコンテンツの表示。


コメント欄。


おすすめ。


古いメディアと新しいメディア。


だが今日は、同じ問題を違う画面で抱えている。


メンローパークのリナは、日本の公共放送から届いた短い文案を見ていた。


《あの人のまねをして、体を傷つけたり、高いところから飛ぼうとしたりしないでください。やってみたいと思ったら、まず近くの大人に話してください。》


直接的。


だが、必要。


リナは、安全ラベル案に転記する。


《模倣注意:この動画の人物や外見をまねる行為には危険が伴う場合があります。体を傷つける行為や危険な場所での行動はしないでください。》


硬い。


でも仕方ない。


ポリシー文は、いつも少し硬い。


「これ、子どもに届きますか」


若い担当者が聞いた。


リナは、画面を見た。


「届かない」


「じゃあ」


「でも、大人には届く。大人が止めるための言葉になる」


「子どもには?」


「子ども向けは、放送局と学校とクリエイターに任せる」


彼女は少しだけ笑った。


「全部、自分たちでやるとろくなことにならない」


担当者も少し笑った。


世界史の中で、自分たちが万能ではないと認めること。


それも、この会社には珍しい進歩だった。



午前九時。


生放送が始まった。


番組の冒頭には、いつもの音楽が流れた。


ただし、少し短い。


いつもの明るさを完全に消すと、不安になる。


いつものままにすると、嘘になる。


音楽担当が夜中に何度も直した結果、少しだけ落ち着いた短縮版になった。


玲奈は、カメラの前に立つ。


「おはようございます」


いつもの声より、少し低く。


「今日は、いつもの遊びの前に、みんなと少しだけお話ししたいことがあります」


カメラの横で、横井が小さく頷いた。


スタジオの隅から、ポコが出てくる。


いつもなら、ぽん、と跳ねる。


今日は、ゆっくり歩く。


ポコの丸い体が、少しだけ小さく見えた。


「玲奈ちゃん」


ポコの声。


いつもの半分くらい。


「ぼく、昨日から、テレビとスマホをいっぱい見ちゃった」


玲奈は、しゃがむ。


子ども番組では、しゃがむ高さが大事だった。


上から見下ろすと、説教になる。


同じ高さまで降りると、会話になる。


「うん」


玲奈は言った。


「ポコ、何を見たの?」


「白い服で、羽があって、ふわってしてる人」


人。


法務が少しだけ眉を動かしたのが、玲奈には見えた。


だが、止めない。


ポコの言葉は、子どもの言葉だ。


「みんなも、見た子がいるかもしれないね」


玲奈はカメラを見る。


「テレビやスマホや、駅の大きな画面で見た子もいるかもしれません」


ここで、映像を出す予定だった。


最初の案では、来訪者の静止画を薄く背景に置くことになっていた。


だが、最終的にやめた。


画面には出さない。


出さなくても、子どもたちはもう見ている。


これ以上、番組が見せる必要はない。


「ポコは、それを見てどう思った?」


ポコは、少しだけ体を揺らした。


久保田の癖ではない。


ポコの迷いだった。


「きれいだなって思った。あと、見たいなって思った。あと……ちょっとこわい」


スタジオが静かになる。


玲奈は、ほんの少し間を置いた。


間を怖がらない。


白石から言われていたことだ。


大人はすぐ埋めたがる。


子どもは、間で考える。


「そっか」


玲奈は言った。


「ポコ、こわいって思ったんだね」


「うん」


「こわいって思っても、いいよ」


その一文を言った瞬間、玲奈の胸が少しだけ締まった。


全国のリビングで、何人の子どもが聞いているのか。


何人の大人が、その横で黙っているのか。


分からない。


でも、言う。


「見たい気持ちがあってもいい。こわい気持ちがあってもいい。どっちも、変じゃないよ」


ポコが、小さく頷く。


「でも、ずっと見てると、胸がぎゅってなる」


「そういう時は、画面を消してもいいんだよ」


玲奈は、ゆっくり言った。


「見続けなくてもいい。知らないことがあっても、ずっと見ていなくていい」


ポコが、カメラの方を向く。


「消したら、分からなくなっちゃわない?」


「大事なことは、大人たちがちゃんと調べて、あとで教えるよ」


言いながら、玲奈は少しだけ怖かった。


ちゃんと。


本当に、ちゃんとなのか。


大人たちは混乱している。


政府も科学者も報道も、全部まだ揺れている。


だが、ここで言う「ちゃんと」は、完璧という意味ではない。


逃げないという意味だ。


「だから、こわくなったら、テレビやスマホから離れてもいい。水を飲んだり、好きな本を読んだり、おうちの人や先生と話したりしていい」


ポコは、少し考える動きをした。


「じゃあ、ぼく、見ない時間を作る」


「いいね」


「でも、友だちが話してたら?」


「“ぼくは今はちょっと見ない”って言っていいよ」


「変じゃない?」


「変じゃない」


玲奈は言った。


「みんな、見る速さも、こわいと思う速さも違うから」


この文は、白石が最後まで残すべきだと言った文だった。


見る速さが違う。


怖がる速さが違う。


それは子どもだけではない。


大人もそうだった。


次の場面。


ポコが、背中をちらっと見る。


「玲奈ちゃん」


「なあに?」


「ぼく、あの羽、ちょっといいなって思っちゃった」


スタジオの空気が少しだけ硬くなる。


ここが、一番難しい。


模倣。


真似。


憧れ。


危険。


言葉を間違えると、止めるはずの行動を逆に印象づける。


玲奈は、手元のカードを見ずに言った。


「きれいだなって思うことはあるよね」


「うん」


「でも、ポコの体はポコの体。みんなの体はみんなの体だよ」


ポコが自分のお腹を見下ろす。


「ぼくの体」


「そう。だから、あの人のまねをしようとして、体を傷つけたり、危ないところから飛ぼうとしたりしないでね」


具体的すぎない。


でも、必要なところは言う。


「やってみたいなって思ったら?」


ポコが聞く。


「まず、大人に話す」


玲奈は答える。


「おうちの人、先生、近くにいる大人。話すだけでいいよ。叱られるためじゃなくて、一緒に安全かどうか考えるために」


ポコは、少しだけ安心したように見えた。


「話すだけでいいの?」


「うん。話すだけでいい」


カメラの向こうで、どこかの子どもが同じ顔をしていてくれたらいい。


玲奈は、そう思った。


次の場面では、名前の話をする。


「ねえ玲奈ちゃん」


ポコが言う。


「みんな、アンドロって呼んでるよ」


スタジオの外で、法務が少しだけ体を動かした。


だが、台本通りだった。


玲奈は頷く。


「そう呼んでいる子もいるね」


「ポコも言っていい?」


「言っている人がいることを知っているのはいいよ。でも、本人がその名前で呼んでほしいかは、まだ分からないね」


ポコが首をかしげる。


「名前って、聞いてから呼ぶの?」


「本当は、そうできるといいね」


「でも、遠い人だよ」


「遠い人でも、近い人でも、名前は大事だよ」


ポコは、少し考える。


「じゃあ、今は?」


玲奈は言った。


「番組では、“画面に出た人”とか、“来ると言っている人”って言ってみようかな。でも、少し長いね」


ポコが、そこで少しだけいつもの声に戻った。


「長い!」


スタジオに、初めて小さな笑いが起きた。


生放送で笑いが起きると、少しだけ空気が戻る。


怖い話の中に、笑っていい場所を作る。


それも、子ども番組の仕事だった。



午前九時二十二分、埼玉県のマンション。


八歳の結衣は、リビングの床に座って番組を見ていた。


母親は台所にいる。


本当は、今日は番組を見せるかどうか迷っていた。


昨日の夜、結衣は寝る前に「羽の人、窓から入ってくる?」と聞いた。


母親は「入ってこないよ」と言いかけて、止まった。


入ってこない。


たぶんそう。


でも、昨日から大人は、たぶんをどう扱えばいいか分からない。


結局、「窓は閉まってるし、お母さんもいるよ」と言った。


答えになっていない。


でも、結衣は少しだけ安心した顔をした。


今朝、番組でポコが「ぼく、ちょっとこわい」と言った時、結衣は台所の方を見た。


「ママ」


「なあに」


「ポコもこわいって」


「そうだね」


「こわくてもいいんだって」


母親は、手を止めた。


「そうだね」


それ以上、何も言えなかった。


言わなくてもよかった。


結衣は、画面へ戻る。


ポコが、自分の丸いお腹を触っている。


《ポコの体はポコの体》


結衣は、自分の背中を少し触った。


羽はない。


昨日、友だちが「羽つけたい」と言っていた。


結衣も少し思った。


でも、ポコが大人に話すと言っている。


なら、今は話せばいいらしい。


「ママ」


「うん」


「羽、ほしいって思ったら、言っていい?」


母親は、今度はすぐ答えた。


「いいよ。言っていいよ」


「つけないよ」


「うん」


「でも、言っていい?」


「いい」


結衣は、少し満足した顔でテレビを見た。


母親は、台所で蛇口を止めた。


水の音が消える。


その静けさで、自分が少し泣きそうになっていることに気づいた。



午前九時三十七分、スタジオ。


番組は後半に入っていた。


ポコと玲奈は、床に大きな紙を広げている。


紙には、丸が三つ描かれている。


一つ目。


《みた》


二つ目。


《おもった》


三つ目。


《はなす》


白石の案だった。


子どもが不安になった時、自分の中に起きたことを分ける。


見たもの。


思ったこと。


話す相手。


難しい心理教育を、そのまま持ち込まない。


丸にする。


ポコが、一つ目の丸へカードを置く。


《しろいふく》


《はね》


《ふわっとしてた》


玲奈が言う。


「これは、ポコが見たことだね」


次に、二つ目。


《きれい》


《こわい》


《もっとみたい》


《わからない》


「これは、ポコが思ったこと」


三つ目。


《玲奈ちゃん》


《おうちの人》


《先生》


《友だち》


「これは、話せる相手」


ポコが言う。


「見たことと、思ったことって、違うの?」


「違うことがあるよ」


玲奈は答える。


「たとえば、“羽があった”は見たこと。“天使かもしれない”は思ったこと。思ったことは大事だけど、まだ決めつけなくてもいい」


この文は、子ども向けにしては少し難しい。


だが、白石は残した。


子どもは、難しいことを全部分かる必要はない。


大人が言葉を雑にしすぎない姿勢を見ることにも意味がある。


ポコは、カードを一枚持つ。


《わからない》


「これ、どこに置く?」


玲奈は聞く。


ポコは迷う。


「思ったこと?」


「うん。でも、話すところにも置いていいかも」


「どうして?」


「“分からない”って、人に話していいことだから」


ポコは、《わからない》のカードを二つに増やした。


一枚を、思ったこと。


もう一枚を、話す相手の丸へ。


それは、予定にない動きだった。


久保田のアドリブ。


玲奈は一瞬だけ驚いた。


でも、すぐに受けた。


「いいね。分からないは、一人で持たなくてもいいんだね」


ポコが頷く。


「わからない、って言いに行っていいんだ」


「うん」


その瞬間、スタジオの隅で白石が小さく頷いた。


たぶん、今日の番組はこれでよかった。



午前十時十五分。


放送が終わった後、スタジオには少し奇妙な沈黙が残った。


子ども向け番組の収録後は、いつも賑やかだ。


小道具を片付ける音。


スタッフの笑い声。


次コーナーの確認。


ポコの頭を外した久保田の汗だくの顔。


今日は、全員が少しだけ静かだった。


久保田は、ポコの頭を抱えたまま床に座っていた。


中から出たばかりで、髪が額に張り付いている。


「大丈夫?」


玲奈が聞く。


「暑いです」


「それはいつも」


「あと、怖かったです」


久保田は言った。


玲奈は、隣に座った。


「ポコが?」


「僕が」


彼はポコの頭を見る。


「子どもに怖いって言わせるの、怖いですね」


「うん」


「でも、言えてよかった」


「うん」


横井が、タブレットを持って近づいてきた。


「反応、来ています」


「見たくない」


森山が即答した。


「見ましょう」


横井は冷静だった。


画面には、保護者からの投稿が並んでいる。


《子どもが初めて怖いと言えた》


《“見続けなくていい”でテレビを消せた》


《名前を決めつけない話がよかった》


《もっと明るくしてほしかった》


《不安を煽るな》


《政府広報みたい》


《ポコが怖がる姿でうちの子が泣いた》


《泣かなかった。むしろ安心していた》


《危険なまねの注意は必要》


《具体的に言いすぎ》


《言わないとやる子がいる》


全部ある。


当然だった。


子どもは一人ではない。


保護者も一人ではない。


ある家で救いになる言葉が、別の家では不安になる。


子ども向け番組は、いつもその不可能の上に立っている。


白石が、タブレットを見て言った。


「これでいいです」


「批判も多いです」


横井が言う。


「批判があることと、間違っていることは違います」


白石は静かに答えた。


「もちろん、直すところは直します。でも、全員を同じように安心させることはできません」


玲奈は、その言葉を聞きながら、スタジオのセットを見た。


丸い椅子。


色の棚。


紙のカード。


《わからない》


それだけが、床に一枚残っていた。


誰かが片付け忘れたらしい。


玲奈はそれを拾い、机の上に置いた。


捨てなかった。



午後一時、東京。


番組の切り抜きは、すぐにネットへ流れた。


ポコ「ぼく、ちょっとこわい」


玲奈「こわいって思ってもいいよ」


この二十秒が、最初に広がった。


次に、


《見続けなくてもいい》


《名前は本人に聞くまで決めつけない》


《ポコの体はポコの体》


が広がった。


そして、当然のように、悪意ある切り抜きも出た。


ポコが怖がっている部分だけを繰り返し、恐怖を煽る見出しをつけたもの。


玲奈が「あの人」と言った部分だけを抜き出し、政府が存在を認めたとするもの。


危険なまねについての注意だけを切り出し、逆に真似を煽るコメントをつけたもの。


メンローパークのリナは、それらにフラグを立てていた。


削除。


制限。


文脈ラベル。


おすすめ抑制。


番組本体へのリンク。


切り抜きに対して、元の文脈を戻す。


それは、消火というより、散らばった紙片を拾って元の本へ挟み直す作業に近かった。


間に合わない。


でも、やる。


リナは、番組本体の動画に固定コメントを追加する提案を承認した。


《この動画は、子どもが不安なニュースや映像と向き合うための説明です。怖くなったら、信頼できる大人と話してください。危険な模倣はしないでください。》


硬い。


でも、必要。


その下に、誰かがコメントしていた。


《ポコ、ありがとう》


リナは、そのコメントに少しだけ目を止めた。


削除対象ではない。


保存対象でもない。


ただのコメント。


でも、今日はそういうものの方が大事に見える。



午後四時二十分、ロンドン。


各国の子ども向け番組担当者の共有チャットには、日本のポコの切り抜きが貼られていた。


《This works. The puppet says fear first.》


《Should we let our mascot say it too?》


《Careful. Too much fear from the mascot may upset younger children.》


《The “don’t keep watching” line is strong.》


《Name consent angle is interesting.》


名前の同意。


そんな言葉になるのか、と横井は画面の前で思った。


ポコと玲奈の会話が、国際会議の言葉へ翻訳されている。


子ども番組のぬいぐるみが、世界のメディア倫理に少しだけ食い込んでいる。


馬鹿げている。


でも、悪くない。


横井は、返信した。


《Poko is not telling children what the visitor is. He is modeling how to not know.》


ポコは、来訪者が何かを教えているのではない。


分からないでいる方法を見せている。


送信してから、自分で少し気に入った。


たぶん、今日の番組はそういうものだった。



夜、東京。


三枝玲奈は、帰宅してから番組を見返した。


仕事としてではない。


一人の大人として。


画面の中の自分は、思ったより落ち着いていた。


ポコは、思ったより小さく見えた。


子ども向け番組のセットは、いつもより少し広く見えた。


来訪者の映像は一度も出てこない。


それでよかった。


世界中が彼女の姿を繰り返している。


この番組まで、同じ画面を見せる必要はなかった。


玲奈は、途中で停止した。


ポコが《わからない》のカードを二枚に増やした場面。


予定外の動き。


久保田のアドリブ。


その時の自分は、一瞬だけ驚いている。


でも、すぐ受けている。


よかった。


受けられていてよかった。


彼女はスマートフォンを見た。


妹からメッセージが来ている。


《見た。うちの子、ポコが怖いって言ったところで泣いたけど、そのあと寝た》


玲奈は、返信欄を開いた。


《ごめん》


と打ちかけて、消した。


謝ることではない。


たぶん。


代わりに書く。


《見てくれてありがとう。怖がったら、また話を聞いてあげて》


送信。


すぐ既読がついた。


返事はなかった。


それでよかった。


玲奈は、窓の外を見た。


東京の夜は、まだ明るい。


ビルの窓。


コンビニ。


信号。


配送車。


どこかの部屋で、子どもが眠っている。


どこかの部屋で、眠れない子もいる。


どこかの親が、「大丈夫」と言えずに困っている。


どこかの子が、「アンドロって名前でいいのかな」と考えている。


どこかの子が、白い羽の絵を描いている。


どこかの大人が、その絵を止めるべきか迷っている。


世界は、まだ子どもの前に置かれたままだ。


それを完全に片付けることはできない。


でも、少しだけ一緒に持つことはできる。


玲奈は、机の上に置いた台本を開いた。


赤ペンで消された二行がある。


ポコ「こわくないよね?」


玲奈「うん、こわくないよ」


その下に、新しい二行。


ポコ「ぼく、ちょっとこわい」


玲奈「こわいって思ってもいいよ」


たった二行。


だが、その二行を直すために、大人が何人も集まり、法律と心理と放送と配信と教育と保護者の反応を全部持ち寄った。


子ども向けとは、そういう仕事だった。


簡単にすることではない。


子どもに渡せる重さまで、世界を小さく折ることだった。


折りすぎれば嘘になる。


大きすぎれば潰れる。


その間を探す。


玲奈は、台本の最後に小さく書き足した。


《分からないを、一人にしない。》


翌日の打ち合わせで使うかは分からない。


でも、残しておきたかった。



その夜、ポコの短い切り抜きは、世界中で翻訳された。


《It’s okay to feel scared.》


《You don’t have to keep watching.》


《Your body is your body.》


《We don’t know what name they want yet.》


言葉は少しずつ変わった。


ニュアンスも揺れた。


文化ごとに、子どもへ言えることと言いにくいことが違った。


それでも、どこかに届いた。


誰かが画面を消した。


誰かが親を呼んだ。


誰かが先生に聞いた。


誰かが羽の工作をやめた。


誰かが、それでも絵を描いた。


誰かが、描いた絵の横に「なまえはまだきいてない」と書いた。


人類はまだ、来訪者の正体を知らない。


技術も、意図も、身体も、名前も、何も分からない。


だがその日、子ども向け番組がひとつ、世界の片隅で小さく言った。


怖いと言っていい。


見続けなくていい。


まねしなくていい。


分からないと話していい。


それは、宇宙へ向けた返答ではなかった。


子どもへ向けた返答だった。


けれど、もしかすると、人類が最初に学ぶべき交流の形は、そこにあったのかもしれない。


相手を決めつけないこと。


自分の怖さを隠さないこと。


名前を急がないこと。


そして、分からないを一人にしないこと。


ポコは、その日、世界で一番小さな声で怖いと言った。


その小ささが、たぶん必要だった。



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