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閑話8 適度に理解する


――20XY年3月8日、ニューヨーク/ジュネーブ/東京/六つのブース


日曜日、世界は少しだけ声を落としていた。


休んでいたわけではない。


市場は閉まっていても、金融当局は休んでいない。学校は休みでも、教育委員会は資料を直している。教会も寺院もモスクも人で埋まり、スーパーは開店前から列ができ、政府機関の地下では眠っていない人間が眠っていない顔で水を飲んでいる。


けれど、街の声だけは少し低かった。


大声で断言するには、もう全員が疲れていた。


初日は叫べた。


二日目は説明できた。


三日目は投稿できた。


四日目は笑えた。


五日目は問い直せた。


六日目は記事にできた。


七日目は子どもの前で怖いと言えた。


そして八日目。


世界は、言葉そのものに疲れていた。


疲れた世界の言葉を、それでも別の言葉へ移さなければならない人々がいる。


通訳者である。


彼らは、目立つことを仕事にしていない。


むしろ、目立たないほど仕事がうまくいく。発言者の声が聞こえ、意味が届き、聞き手がそちらを見る。通訳者の存在は、うまくいけばいくほど透明になる。


だが、透明な仕事ほど、割れた時に破片が見える。


白い翼の来訪者が世界の画面を奪ってから八日目、国連の通訳ブースは、透明でいることを初めて怖がっていた。



午前六時二十分、ニューヨーク。


国連本部の会議棟は、日曜日の朝らしくなかった。


警備の列が長い。


記者の列も長い。


普段なら週明けに向けて整えられるだけの廊下に、臨時の案内板が立っている。各国代表部の職員、事務局、技術スタッフ、通訳、翻訳、議事録担当、音響、警備、清掃。世界を動かす人間ほど、朝が早い時はみんな同じ顔をしている。


眠い。


だが、眠いと言える立場ではない。


エリザベス・ハロウェイは、紙のカップを持ったまま、通訳室の前で足を止めた。


中へ入る前に、いつも一度だけ手を止める。


習慣だった。


会議場へ入る前ではなく、ブースへ入る前に止まる。そこから先は、別の耳になる。別の口になる。自分の意見ではなく、他人の発言を運ぶ。運ぶだけではない。意味の速度を落とさず、重さを変えず、刃を丸めすぎず、毒を勝手に薄めず、曖昧なところは曖昧なまま、鋭いところは鋭いまま渡す。


通訳者は、橋ではない。


橋なら、ただ渡ればいい。


実際には、渡るものが変形しないように両手で支える仕事だった。


通訳室の中には、もう何人かがいた。


英語ブース。


フランス語ブース。


スペイン語ブース。


ロシア語ブース。


アラビア語ブース。


中国語ブース。


六つの公用語のブースが、同じ会議をそれぞれ違う危険として待っている。


エリザベスは英語ブースの主任だった。


五十代半ば。


国連通訳として二十年以上。


戦争も、停戦も、飢饉も、感染症も、制裁も、難民も、気候危機も、虐殺という言葉が出る会議も、聞いてきた。


何度も、人間の言葉に失望した。


それでも仕事は続いた。


言葉に失望しても、言葉を運ばない理由にはならないからだ。


今朝の会議資料には、太字でこう書かれていた。


《来訪者接触に関する非公式高級実務協議》


非公式。


高級。


実務。


協議。


国連の文書は、時々、言葉を重ねることで何も決めていないことを隠す。


だが今日は、それが必要でもあった。


正式な特別総会を開けば、議席と演説と拒否権と撮影位置と発言順が全部政治になる。もちろん、非公式でも政治になる。けれど、少なくとも今日の午前中だけは、世界が全員で同じテーブルのふりをする必要があった。


エリザベスは、配布された用語表を開いた。


Visitor.


Unidentified entity.


Extraterrestrial intelligence.


Contact.


Representative.


Welcome.


Non-hostility.


Observation.


Exchange.


Humanity.


Sovereignty.


Lower civilization.


Technological asymmetry.


South Lawn.


Andro.


最後の語だけ、斜体になっていた。


注釈。


《非公式呼称。本人呼称ではない。使用注意。》


エリザベスは、そこに赤ペンで線を引いた。


使用注意。


便利な言葉だった。


世界中のほぼすべての単語に貼りたいくらいだった。


ブースの扉が開き、カミーユ・ルフェーヴルが入ってきた。


フランス語ブースの主任。


エリザベスより少し若い。いつも香水をほんの少しだけつけている。今日はつけていない。本人は気づかれていないと思っているかもしれないが、エリザベスは気づいた。


「寝た?」


エリザベスが聞く。


「三時間」


「勝ちね」


「あなたは」


「二時間半」


「では私の勝ち」


二人は短く笑った。


通訳者の笑いは短い。


長く笑うと、喉が疲れる。


カミーユは用語表を見た。


「Representative」


「そこね」


「そこよ」


フランス語では、représentant。


代表者。


代理人。


表象する者。


「人類の代表者」と言えば、誰が誰を代表するのかが問題になる。


「各国代表」と言えば、国家の集合になる。


「人間側の出席者」と言えば、来訪者を人間ではないと先に置く。


「地球側」と言えば、人類以外の生物を勝手に含めるか、除外するかが曖昧になる。


「代表」という単語は、今回、あまりにも重かった。


エリザベスは言った。


「英語でも逃げ場はないわ」


「Welcome は?」


「もっと悪い」


歓迎。


受け入れ。


挨拶。


お越しいただきありがとうございます。


ようこそ。


その一言だけで、国によっては属国のように聞こえ、別の国では礼儀に聞こえ、また別の国では宗教儀礼に近づく。


カミーユが言った。


「“We welcome the visitor” をそのまま訳すと、もう一部の国が怒る」


「“We acknowledge the visitor’s stated intention to make contact”」


「長い」


「長い方がいい日もある」


「短くしないと同時通訳では致命的」


「それは、そう」


二人は黙った。


同時通訳には、長さの限界がある。


正確な言葉は、たいてい長い。


政治家は短く言う。


通訳者は、その短さの中に隠れている爆弾を、瞬時に別の言語へ置き直す。


爆発させずに。


かといって、不発弾に見せすぎずに。


「今日、主語を落とさないで」


エリザベスは言った。


カミーユが顔を上げる。


「それ、全ブースで共有した?」


「これから」


「いいと思う」


主語を落とさない。


通訳では、ときどき主語を補う。


英語でははっきり出る主語が、別の言語では不要なことがある。逆に、日本語のように主語が曖昧な発言を英語へ移す時は、誰がそう思っているのかを補わなければならない。


だが今日は、補うのも落とすのも危険だった。


「我々」と言ったのは誰か。


国か。


政府か。


人類か。


国連か。


安全保障理事会か。


科学者か。


宗教者か。


大人か。


人間か。


そして、「彼女」と言ったのか、「それ」と言ったのか、「来訪者」と言ったのか。


主語は、政治になる。


代名詞は、倫理になる。


省略は、逃げになる。


エリザベスは、用語表の余白に手書きした。


《Do not drop the subject.》


主語を落とさない。



午前七時十六分、ジュネーブ。


欧州側の通訳支援チームでは、ニューヨークから送られてきた用語表を各言語で確認していた。


直接本会議を担当するわけではない。


だが、各国代表団、専門機関、WHO、ITU、UNESCO、UNHCRなどから関連協議が次々入っている。国連という組織は、一つの会議だけでできていない。水面下の打ち合わせ、準備会合、非公式ブリーフ、記者向け説明、加盟国との個別協議、全部が同時に走る。


言葉は、会議場の外で先に疲れる。


中国語ブース担当の林雪は、用語表を見ていた。


「来訪者」をどう置くか。


访客。


来访者。


未知实体。


外来智慧体。


自称来自仙女座方向的存在。


どれも少しずつ違う。


访客は、客である。


来访者は、来る者。


未知实体は、物のように聞こえる。


外来智慧体は、SF用語に近い。


自称来自仙女座方向的存在は長すぎる。


隣のロシア語担当が、額に手を当てている。


「下位文明、どうする?」


「使わない方がいい」


「原文が出たら?」


「逃げられない」


「низшая цивилизация は強すぎる」


「lower civilization も十分強い」


「彼女は“下位として扱わない”と言った」


「否定しても、語は残る」


林雪は頷いた。


否定された言葉ほど、時々強く残る。


戦争ではない。


侵略ではない。


救済ではない。


取引ではない。


下位ではない。


人間は、否定形の中に置かれた名詞を忘れない。


通訳者は、その名詞を別の言語へ運ばなければならない。


持ちたくない刃物を、刃物のまま渡す仕事だった。



午前八時、ニューヨーク。


ブース技術の確認が始まった。


マイク。


ヘッドセット。


リレー音声。


床言語。


各チャンネル。


予備回線。


録音。


障害時の手信号。


同時通訳の現場には、いつも少しだけ航空管制に似た空気がある。


一人で喋っているようで、実際にはチームで飛ばしている。


発言者の言語を直接訳せない時は、別のブースの通訳を聞いて訳すリレーが起きる。英語を聞いてフランス語へ、フランス語を聞いてアラビア語へ。意味は次々に手渡される。どこかで少しずれれば、そのずれも運ばれる。


今日は、それが怖かった。


来訪者の言葉は、初日に世界中の人間へ直接、それぞれの言語で届いた。


通訳者を必要としない声。


それは、多言語サービスの理想のようでもあり、通訳者の存在理由を静かに否定しているようでもあった。


エリザベスは、そのことを誰にも言わなかった。


言えば幼稚に聞こえる。


だが、たぶん多くの通訳者が同じことを思っている。


彼女は、私たちを飛ばして話した。


世界中の耳へ直接入った。


誤訳もなく。


訛りもなく。


疲労もなく。


喉も使わず。


交代もいらず。


では、国連のブースはまだ必要なのか。


エリザベスは、ヘッドセットを手に取った。


必要だ。


そう言い切れるほど単純ではない。


だが、不要だと認めるには、まだ早い。


来訪者が世界へ直接話せるとしても、人類同士はまだそうではない。


人類は、互いの言葉すら簡単には越えられない。


だから今日も、ブースは要る。


それは敗北ではなく、現状だった。



午前九時三分。


非公式協議が始まった。


会議場には、各国代表が座っている。


正式な総会ではないため、発言席は少し簡略化されている。それでも、国名表示板が並ぶと、世界はすぐにいつもの顔を取り戻す。


国は、座席に強い。


座る場所があるだけで、国家は少し落ち着く。


事務総長が最初に発言した。


英語。


床言語として流れる。


エリザベスは聞く。


まだ訳さない。


英語ブースは、英語以外から英語へ入る時が仕事の中心になる。だが今日は、英語の発言も聞く。どの単語が他言語で火を噴くか、先に拾うためだ。


「We meet not to decide for humanity, but to prevent humanity from being spoken for too quickly.」


人類のために決定するためではなく、人類が早急に代弁されることを防ぐために集まる。


カミーユのフランス語が隣からかすかに聞こえる。


スペイン語。


アラビア語。


中国語。


ロシア語。


それぞれのブースが、一斉に橋を架ける。


事務総長は続ける。


「The visitor has stated that this is neither invasion, nor salvation, nor transaction. We must take those statements seriously without surrendering our judgment.」


来訪者は、これは侵略でも、救済でも、取引でもないと述べた。我々はその発言を真剣に受け止めなければならないが、判断を手放してはならない。


エリザベスは、手元にメモする。


stated.


述べた。


主張したでは強すぎる。


言ったでは軽すぎる。


affirmed?


declared?


いや、stated。


この一語が、今日は多いだろう。


来訪者が言ったことを、真実として扱いすぎてもいけない。


嘘として扱いすぎてもいけない。


発言として扱う。


それしかない。


続いて、合衆国代表。


英語。


「The United States is prepared to host the initial contact on the South Lawn, in coordination with the United Nations and allied governments.」


host.


主催する。


受け入れる。


場を提供する。


どれも政治的だ。


フランス語ブースのカミーユが少しだけ息を詰めたのが分かった。


合衆国は、初回接触を“host”する。


主導する、と聞こえる国がある。


勝手に人類の玄関になるな、と言いたい国もある。


エリザベスは、自分ならどう英語へ戻すかを想像した。


host は危ない。


しかし、発言者は意図して使った。


通訳者は、危ない言葉を安全な言葉へ変えてはいけない。


次は中国代表。


中国語。


林雪の声が、英語チャンネルへ入る。


エリザベスは、それを聞いて必要に応じて調整する立場ではないが、英語ブースにもバックアップとして意識が走る。


「No state may transform a contact with an external intelligence into an extension of its own strategic prestige.」


いかなる国家も、外部知性との接触を自国の戦略的威信の延長へ変えてはならない。


会議場の空気が少しだけ硬くなる。


主語は、いかなる国家も。


名指しではない。


だが、全員がどの国を意識しているかを知っている。


国連の会議では、名指ししない攻撃ほどよく切れる。


ロシア代表。


「If the so-called visitor has already demonstrated an ability to interfere with military and civilian communications, then the question is not only diplomacy but control. Who controls the channel? Who controls the record?」


いわゆる来訪者が、軍民の通信へ干渉する能力をすでに示したのであれば、問題は外交だけでなく統制である。誰がチャンネルを管理するのか。誰が記録を管理するのか。


so-called.


いわゆる。


これも残る。


エリザベスは、手元の紙に小さく書いた。


《so-called を消さない》


ロシア語から英語へ戻る時、あるいは英語から別言語へ行く時、こういう形容はよく落ちる。


落とした方が自然だから。


だが今日は、自然にするほど政治的意味が消える。


消してはいけない。


フランス代表。


「We must not confuse humility with submission.」


謙虚さと服従を混同してはならない。


短い。


うまい。


うますぎる。


通訳者は、うまい文を少し嫌う。


別言語でも同じようにうまくしなければならない気がするからだ。


スペイン語代表。


「Humanity does not have a single mouth. That is inconvenient, but it is also true.」


人類に一つの口はない。不便だが、それが真実である。


エリザベスは、思わずペンを止めた。


人類に一つの口はない。


今日は、それがすべてかもしれない。


通訳者は、その一つではない口たちの間にいる。



午前十時十二分。


最初の衝突は、“welcome”で起きた。


小国連合の代表が英語で発言した。


「We welcome the visitor’s decision to engage openly with humanity.」


我々は、来訪者が人類と開かれた形で関わる決定をしたことを歓迎する。


英語としては、よくある外交表現だった。


We welcome。


決議案にも、声明にも、毎日のように出てくる。


だが、今日は違った。


すぐに中東の代表が発言を求めた。


「We cannot endorse language that presumes welcome before consent.」


同意の前に歓迎を前提とする表現を支持できない。


同意。


歓迎。


接触。


来訪。


言葉が、法律と倫理と恐怖の間で揺れる。


エリザベスは、ヘッドセット越しに各ブースの緊張を感じた。


welcome を訳す時、歓迎と置くか、好意的に受け止めると置くか、前向きに評価すると置くかで、意味が変わる。


だが発言者は welcome と言った。


その危うさまで含めて運ぶ。


カミーユの声がフランス語チャンネルで硬くなる。


スペイン語ブースが一瞬だけ遅れる。


アラビア語ブースから、深い息の音がわずかに漏れた。


通訳者は、ただ言葉を置いているようで、実際には世界の地雷原を歩いている。


次に揉めたのは、“she”だった。


ある代表が言った。


「She has chosen the South Lawn.」


彼女は南芝生を選んだ。


エリザベスは、息を止めた。


She.


映像の来訪者は、少女のように見える。


白い衣。


翼。


淡い青の目。


小柄な身体。


だが、性別は分からない。


年齢も分からない。


生物かどうかも分からない。


それでも、多くの言語は代名詞を求める。


it と言えば物扱いに聞こえる。


she と言えば性別と年齢とイメージを固定する。


they と言えば英語では逃げられるが、全言語で同じ逃げ方はできない。


フランス語では。


スペイン語では。


ロシア語では。


アラビア語では。


中国語の音声では性差が出ないが、書記では別問題になる。


通訳者たちは、わずかな時間で判断しなければならない。


エリザベスは、メモを取る。


《Avoid pronoun when possible. The visitor.》


可能な限り代名詞を避ける。


来訪者。


長い。


不自然。


でも、今日はその不自然さが必要だった。


だが、発言者が明確に she と言った場合は?


消すのか。


残すのか。


残す。


主語を落とさない。


代名詞も、勝手には清めない。


エリザベスは、自分の中で決めた。


発言者が彼女と言ったなら、その発言者がそう見た事実を運ぶ。


ただし、国連の地の文では、来訪者。


それが精一杯だった。



午前十一時三十分。


ブースの中は暑くなっていた。


空調は効いている。


それでも、通訳者の身体は熱を持つ。


同時通訳は、頭だけの仕事ではない。


耳。


喉。


肺。


背中。


肩。


視線。


ペンを握る指。


水を飲むタイミング。


隣と交代する数秒。


発言者の癖を聞き分ける筋肉。


数字が出た時に一瞬だけ身構える反射。


固有名詞が出た時の胃の動き。


全部使う。


エリザベスは、交代でマイクを外し、水を飲んだ。


手が少し震えている。


隣の若い通訳者、アナが小声で言った。


「大丈夫ですか」


「あなたこそ」


「私はまだ」


「まだ、が一番危ない」


エリザベスは、口元だけで笑った。


アナは三十代前半。


優秀だった。


だが、今日の会議は経験年数でどうにかなる種類ではない。


誰も経験していない。


経験していないことを、経験があるように処理する。


それが国際機関だった。


会議場では、次の発言者が日本代表だった。


日本語で話す。


国連六公用語ではないため、代表団側が英語通訳原稿を提供している。だが、発言は日本語で行われ、英語チャンネルへまず入る。


英語リレーを聞きながら、他ブースが訳す。


リレーの重みが、急に増す。


日本代表は静かに話し始めた。


「私たちは、来訪者を歓迎する前に、まず、自分たちがまだ何を分かっていないのかを共有する必要があります」


英語へ入る。


Before welcoming the visitor, we must first share what we still do not understand.


悪くない。


「日本政府は、来訪者の発言を真剣に受け止めます。しかし、発言を真実として即座に承認することも、脅威として即座に固定することも、避けるべきだと考えます」


エリザベスは、英語リレーを聞きながら頷いた。


良い文だ。


通訳しやすい。


いや、通訳しやすいように書かれている。


おそらく、誰かが相当直した。


「また、いわゆる“アンドロ”という呼称が各国の市民の間で広がっていることは承知しています。しかし、本人が名乗っていない呼称を、国際社会の公式な言葉として固定することには慎重であるべきです」


アンドロ。


会議場で、その語が出た。


各ブースが一瞬だけ反応する。


言葉が、世界の裏口から正式な部屋へ入ってきた。


日本代表は続ける。


「名前は、対象を理解するための道具であると同時に、対象をこちら側の棚へ置く行為でもあります」


英語リレーが少し遅れた。


A name is a tool for understanding, but also an act of placing the named into our own shelves.


shelves.


棚。


そのまま来た。


エリザベスは、少しだけ感心した。


不自然だが、残したい比喩だった。


棚へ置く。


分類する。


収める。


所有する。


日本代表は最後に言った。


「私たちは、急いで名付けるのではなく、急いで聞く準備をするべきです」


We should not rush to name. We should rush to prepare to listen.


エリザベスは、その文をメモした。


急いで聞く準備をする。


今日のブースに、貼っておきたいくらいだった。



午後零時四十五分。


休憩に入った。


会議場の外では、代表団が小声で話している。


記者は入れない区域だが、情報はすぐ漏れる。現代の外交は、扉を閉めても空気が漏れる。


通訳者たちは、別室でサンドイッチを食べた。


食べたというより、栄養を口に入れた。


カミーユが、紙皿の端でパンを切りながら言った。


「今日、何回“humanity”って訳した?」


「数えたくない」


エリザベスは答えた。


「人類、humanité、humanidad、 человечество」


カミーユは指を折る。


「どの言語でも大きすぎる」


アラビア語ブースのサミールが言った。


「大きすぎる単語ほど、政治家は好きだ」


「通訳者は嫌い」


「通訳者は、でも運ぶ」


サミールは肩をすくめた。


中国語ブースの林雪が、紙コップを置いた。


「“humanity”を“人类”と置くたびに、地球の他の生き物が消える気がする」


「それを言い始めると、もう会議ができない」


ロシア語担当が言った。


「だから言わない。でも、思う」


林雪は答えた。


思う。


言わない。


だが、言葉には出る。


通訳者の声には、本人の思想を入れてはいけない。


しかし、完全に空の声にもなれない。


声帯は自分のものだからだ。


エリザベスは、サンドイッチを半分残した。


喉が詰まる。


疲れている時、パンは重い。


アナが、小さなメモ帳を見ていた。


「何を書いてるの?」


エリザベスが聞く。


アナは少し迷ってから見せた。


《主語を落とさない》

《代名詞を勝手に直さない》

《でも公式地の文では来訪者》

《welcome注意》

《host注意》

《lowerを薄めない》

《humanityは重い》

《アンドロは本人名ではない》


エリザベスは頷いた。


「いい」


「最後にもう一つ書きました」


アナはページの下を見せた。


《自分が怖い時、声を速くしない》


エリザベスは、しばらくその文を見ていた。


通訳者の恐怖は、速度に出る。


速くなる。


硬くなる。


声が浅くなる。


意味を逃がさないようにするあまり、聞き手の呼吸を奪う。


「それも、いい」


彼女は言った。


「午後はそれを最初に見て」


アナは頷いた。



午後二時。


協議は再開した。


午後の議題は、来訪者との初回接触における「発話原則」だった。


つまり、誰が最初に何を言うか。


ばかばかしいほど小さい。


だが、世界がそこで止まっている。


最初の一文。


それが、映像として残る。


訳される。


引用される。


切り抜かれる。


教科書に入る。


陰謀論に使われる。


宗教的に解釈される。


子ども番組で柔らかくされる。


百科事典の導入部に戻る。


最初の一文は、もはや一文ではない。


各国案が出た。


「Welcome to Earth.」


歓迎が強すぎる。


「We acknowledge your arrival.」


到着を認めるという上から目線に聞こえる。


「We meet you in peace.」


古典的すぎる。しかも平和を言う国々の現実が重い。


「We are humanity.」


誰が言うのか。


「We represent the peoples of Earth.」


代表していない。


「We hear you.」


聞いた、は良い。だが返答として弱い。


「We are ready to speak.」


本当に準備できているのか。


「We are not united, but we are present.」


正直だが、初手で分裂を強調しすぎる。


会議は、細部で止まった。


通訳者たちは、それを六つの言語で追う。


英語で揉めた文は、フランス語で別の問題を生む。


スペイン語では美しくなりすぎる。


ロシア語では硬くなる。


アラビア語では宗教的響きが予期せず出る。


中国語では簡潔すぎて、ニュアンスが落ちる。


言語は、同じ意味の別の服ではない。


それぞれ違う骨格を持っている。


国連が六つの公用語を持つということは、同じ世界を六回組み立てるということだった。


エリザベスは、ヘッドセット越しにその音を聞いていた。


ふと、初日の来訪者の声を思い出す。


あの声は、聞く人間それぞれの言語に直接届いた。


それは、すごい。


だが、それは本当に通訳だったのか。


もしかすると、相手は翻訳していたのではない。


受け取る側の言語認識へ、意味を直接置いていたのかもしれない。


もしそうなら、そこには誤訳がない。


だが、誤訳がないことは、誠実さと同じではない。


人間は、互いに誤訳しながら相手を知る。


言い直す。


怒る。


訂正する。


確認する。


誤解したことを謝る。


通訳者は、その不完全さの中にいる。


エリザベスは、急に少しだけ落ち着いた。


完璧な意味伝達があるとしても、人間の会議にはまだ不完全な通訳が必要だ。


不完全だからこそ、誰が何を言ったのかが残る。


誰が言い換えたのか。


誰が薄めたのか。


誰が強めたのか。


誰が黙ったのか。


完璧な声は、それを残さない。



午後四時十二分。


最終的な暫定案は、あまり美しくなかった。


《We have heard your message. We meet you as representatives of many peoples, governments, and communities of Earth. We do not yet fully understand you, and we ask that our first exchange begin with that truth.》


あなたのメッセージを聞きました。私たちは、地球の多くの人民、政府、共同体の代表として、あなたと会います。私たちはまだあなたを完全には理解していません。私たちの最初の交流が、その事実から始まることを求めます。


長い。


ぎこちない。


美しくない。


だが、単純な「ようこそ」よりはましだった。


合衆国代表は少し不満そうだった。


いくつかの国は「representatives」にまだ不満がある。


一部の宗教者は「truth」の扱いを気にするだろう。


一部の科学者は「you」を早すぎると見るかもしれない。


一部の市民は、もっと感動的な一文を求めるだろう。


だが、国連の文としては、それで十分だった。


十分というより、これ以上を求めると壊れる。


エリザベスは、その文を六つの言語で確認する作業に入った。


英語。


フランス語。


スペイン語。


ロシア語。


アラビア語。


中国語。


それぞれの版が、少しずつ違う。


違ってはいけない。


だが、完全に同じにはならない。


この「ならない」を、どこまで許すか。


翻訳の仕事は、最後はそこに行き着く。


カミーユが言った。


「truth は vérité でいい?」


「事実の方が近い」


「fait?」


「でも、truth の重さが落ちる」


「落としたい国もあるでしょうね」


「落とさない」


エリザベスは言った。


「発言原則の文よ。重さは残す」


サミールがアラビア語版を読み上げる。


宗教的に聞こえすぎないか。


林雪が中国語版を直す。


簡潔になりすぎないか。


ロシア語担当が、representatives の訳語でため息をつく。


代表。


代理。


出席者。


どれも政治的。


結局、全員が少しずつ不満を残した。


翻訳の合意とは、全員が少しずつ不満であることかもしれない。



午後五時三十分。


会議が終わった。


終わったと言っても、正式には「休会」だった。


国連は、終わったと言わないことが多い。


終わっていないからだ。


エリザベスはブースを出た。


廊下の窓から、イーストリバーが見える。


川は、世界史に興味がないように流れている。


その無関心さに少し救われた。


カミーユが隣に来た。


「声、残ってる?」


「ぎりぎり」


「私は明日、出ない」


「うそ」


「本当。喉が死ぬ前に交代」


「賢い」


「あなたは?」


「出る」


「馬鹿ね」


「知ってる」


二人は少し笑った。


その後で、カミーユが言った。


「今日、来訪者本人が聞いていたらどう思うかしら」


エリザベスは川を見た。


「退屈するんじゃない?」


「でしょうね」


「でも、退屈してほしい」


カミーユが横を見る。


エリザベスは続けた。


「人類の会議は退屈だと知ってほしい。遅い。揉める。言葉で止まる。主語ひとつで二十分使う」


「それを低く見られるかもしれない」


「それでも」


エリザベスは言った。


「それが私たちだから」


川の向こうに、街の光が見え始めている。


日曜日の夕方。


人々は夕食を考え、子どもは宿題を忘れ、店は閉まり、配達員はまだ走り、ニュースはまた速報を流す。


その全部が、言葉の外にある。


通訳者は、言葉の中に戻る。



夜、東京。


鴨下真帆は、国連協議の暫定文を読んでいた。


英語版。


日本語仮訳。


外務省案。


官邸案。


報道向け要約。


全部、少しずつ違う。


《あなたのメッセージを聞きました》


《あなた方の発信を受け取りました》


《あなたの呼びかけを認識しました》


どれがよいか。


聞いた、は人間的。


受け取った、は事務的。


認識した、は冷たい。


呼びかけ、は柔らかい。


メッセージ、は英語のままでも通じるが、少し軽い。


真帆は、頭を抱えた。


翻訳は、外交の後始末ではない。


外交そのものだ。


城崎玲首相が、後ろから資料を覗き込んだ。


「まだですか」


「まだです」


「どこで止まっています?」


「聞いた、受け取った、認識した、です」


城崎は少しだけ笑った。


「世界がそこまで来たんですね」


「はい」


真帆は、紙を見た。


「どうしますか」


城崎は椅子に座った。


しばらく考える。


「“聞きました”で」


「やわらかすぎませんか」


「かもしれません」


「外交文としては」


「弱いですね」


「では」


「でも、最初の返事としては、人間らしい」


真帆は、メモする。


聞きました。


「“理解しました”ではない」


城崎が言った。


「“受け入れました”でもない。“歓迎します”でもない。ただ、聞きました」


「はい」


「主語は?」


真帆は、顔を上げた。


城崎は少し疲れた顔で笑った。


「今日、国連の通訳者から回ってきた注意書きにありました。主語を落とすな、と」


真帆は、資料の端を見た。


たしかに、共有メモにあった。


《主語を落とさない》


「“私たちは聞きました”」


真帆は言った。


「“私たち”は誰ですか」


城崎が聞く。


真帆は答えに詰まった。


日本政府か。


日本国民か。


地球側か。


国連か。


人類か。


「ほら」


城崎は言った。


「主語は難しい」


真帆は、少しだけ笑った。


この数日で、笑い方が少し変わった。


大きく笑う余裕はない。


でも、笑わないと壊れる。


最終的に、日本語仮訳はこうなった。


《私たちは、あなたのメッセージを聞きました。》


ただし、脚注。


《「私たち」は、初回接触に臨む地球側出席者を指す暫定的表現であり、人類全体の意思を代表するものではない。》


長い。


注釈が長い。


だが、今週の人類には、注釈が必要だった。



深夜、ニューヨーク。


エリザベスは、帰宅前にブースへ戻った。


忘れ物をしたわけではない。


確認したかった。


ヘッドセットは机の上に置かれている。


メモ用紙。


水の空きボトル。


用語表。


赤ペン。


《Do not drop the subject.》


手書きの一文。


彼女は、その紙を少し見てから、捨てずにファイルへ挟んだ。


いつか、誰かが必要とするかもしれない。


あるいは、二度と見ないかもしれない。


それでも残す。


この一週間、人類は何度も同じことをしている。


NASAは古い文を消さずに注釈を足した。


プラットフォームは削除理由を残した。


百科事典は記事名を決めないまま議論を残した。


子ども番組は《わからない》のカードを捨てなかった。


通訳者は、主語を落とすなというメモを残す。


どれも小さい。


だが、小さいものほど、あとで人類の形を教えることがある。


エリザベスは、ブースの窓越しに空の会議場を見た。


誰もいない席。


国名表示板。


マイク。


イヤホン。


昨日まで何度も見た景色。


今日だけは、少し違って見える。


ここは、世界がうまく話し合う場所ではない。


世界がうまく話し合えないことを、何とか聞こえる形にする場所だ。


彼女はブースの照明を消した。


廊下に出る。


扉が閉まる。


その音は小さかった。


だが、エリザベスには、その小さな音が妙に大きく聞こえた。


人類はまだ、来訪者へ何を言うべきか分からない。


だが少なくとも、その日、六つのブースの中で一つの方針だけは決まった。


主語を落とさない。


誰が言ったのかを曖昧にしない。


誰の恐怖か。


誰の歓迎か。


誰の代表か。


誰の名前か。


誰の世界か。


そこを曖昧にした瞬間、人類は自分たちの混乱を、相手にも、自分たち自身にも、嘘として差し出してしまう。


だから、ゆっくりでもいい。


長くなってもいい。


美しくなくてもいい。


まず、主語を残す。


その夜、国連の最初の返答案は、まだぎこちなかった。


けれど、そのぎこちなさの中に、人類はようやく少しだけ自分たちの姿を残せた。


一つの口を持たない生き物として。


それでも、聞いた、と言おうとする生き物として。




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