閑話5 身体髪膚の値段
――20XY年3月5日、グリーンバンク/バークレー/東京/ジュネーブ
待つ、という行為には、少しだけ品がある。
探すよりも、奪うよりも、攻めるよりも、待つ方が静かに見える。遠い星に耳を澄ませる。宇宙の雑音の中から、自然ではない細い線を探す。届くかどうかも分からない信号に、何十年も機械と人生を預ける。
それは、外から見るとロマンに近い。
けれど、待つ仕事をしている人間たちは、ロマンだけで待っていたわけではなかった。
彼らは疑っていた。
誰よりも疑っていた。
信号が来た、と言われれば、まず地球の人工衛星を疑う。航空機を疑う。軍事レーダーを疑う。電子レンジを疑う。研究所の古い装置を疑う。学生が差しっぱなしにしたケーブルを疑う。隣の建物の工事を疑う。太陽を疑う。地球の大気を疑う。自分の解析コードを疑う。
最後に、ようやく宇宙を疑う。
それが礼儀だった。
だから、彼らは人類の中でたぶん一番、地球外知性に会いたがっていた。
そして同時に、人類の中でたぶん一番、「会った」と簡単に言いたくない人々だった。
木曜日の朝、その順番が壊れた。
信号は、彼らのアンテナへ最初に来なかった。
査読も、再観測も、ブラインド解析も、確認観測も、発見者の第一報も、国際科学連合への通知も、記者会見の段取りも、全部すっ飛ばして、相手は世界中の画面に出た。
人類は、待っていた側だった。
だが、見つけた側ではなかった。
*
午前五時三十一分、ウェストバージニア州、グリーンバンク。
谷はまだ暗かった。
巨大な電波望遠鏡は、夜の中で動かない山のように見える。直径百メートルの皿。白い骨組み。冷えた金属。霧。周囲の森。外から見れば、静かな施設だった。
静かであることが、ここの仕事だった。
国立電波静穏区域の中では、電波の騒がしさが抑えられている。携帯電話は制限され、電子機器は気を使い、車も場所によっては古いものが好まれる。人類が宇宙のかすかな声を聞こうとするとき、最初にやることは自分たちの生活音を減らすことだった。
マーシャ・エリオットは、観測棟の廊下を歩きながら、壁に貼られた古いポスターを見た。
《Are we alone?》
何十年も見てきた問いだった。
あまりに見すぎて、もう文字として読まない。非常口の表示や、職員用掲示と同じだ。そこにあることだけ知っている。意味は、必要なときだけ戻ってくる。
今朝は、戻っていた。
しかも、少し変な形で。
私たちは孤独なのか。
問いがこちらを見ている。
マーシャは七十一歳だった。
長くSETIに関わってきた。大学院生のころには、まだ磁気テープと大型計算機の匂いが研究の匂いだった。中年のころには、パーソナルコンピュータとオンライン解析が未来に見えた。晩年に近づくころには、機械学習と民間資金と広帯域観測が研究の姿を変えた。
その間に何度も、候補信号は来た。
それらはたいてい、すぐ死んだ。
再観測できない。
地球由来だった。
装置の癖だった。
データ処理の穴だった。
誰かが少し期待し、誰かが慎重に否定し、最後に論文の脚注か、研究室の笑い話になる。
彼女は、その死に方を愛していた。
候補が死ぬたびに、方法だけは少し強くなる。
科学は、そういう墓地の上を歩く。
観測室に入ると、アレックス・趙がすでにいた。
二十九歳。
ポスドク。
髪は寝癖のまま、フリースの上から職員証を提げている。手元には、飲みかけの缶コーヒーと、開きっぱなしのノートPC。画面には、昨日からの観測ログが並んでいた。
「寝た?」
マーシャが聞く。
「四十分」
「よく寝たわね」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
アレックスは、笑うべきか迷った顔をした。
笑えない日には、若い研究者ほど笑いの作法が分からなくなる。
マーシャは隣の席に腰を下ろした。
「状況は」
「観測装置は正常。全世界通信の時刻前後で、局所的な同期異常はあります。ただし、天文信号として抽出できるものはありません。少なくとも、いまのパイプラインでは」
「“いまのパイプラインでは”」
マーシャは繰り返した。
「便利な逃げ道ね」
「先生が教えました」
「私はもっと上品に教えた」
「同じです」
画面には、周波数と時刻の図が並んでいる。
普通なら、候補信号は細い線として現れる。自然の天体現象とは違う、不自然に狭く、不自然に安定した線。あるいは繰り返し。あるいは変調。人工物の匂い。
だが、昨日の出来事は、そういう線ではなかった。
電波望遠鏡のデータには、何も「発見」と呼べるものがない。
世界中の画面には、彼女がいた。
そのズレが、観測者たちを苦しめていた。
「記録は全部保存して」
マーシャが言った。
「しています。生データ、補助ログ、気象、装置状態、RFI監視、時刻同期、全部」
「バックアップは」
「三重」
「足りない」
「五重にします」
「紙にも」
アレックスが顔を上げた。
「紙?」
「重要時刻、装置状態、誰がいつ何を見たか。手書きでも残して」
「二十一世紀ですよ」
「だからよ」
マーシャは言った。
「二十一世紀の記録は、消えるとき一瞬で全部消える」
アレックスは反論しなかった。
彼は、白いボードへ向かった。
時刻を書く。
20XY-03-05 05:36 EST
その下に、観測機器の状態。
異常なし。
通信ログ。
一部遅延。
候補信号。
なし。
候補信号なし。
その一行が、部屋の中でやけに大きく見えた。
昨日、世界は地球外知性を見たかもしれない。
今日、SETIの観測室には候補信号がない。
まるで、誕生日パーティーに主役だけ呼ばれなかったようだった。
*
午前三時二分、バークレー。
時差のせいで、カリフォルニアの朝はまだ来ていなかった。
それでも研究室には明かりがついている。
ブレイクスルー・リスンのデータ室では、ダニエル・ウォンが端末の前で目をこすっていた。彼は徹夜が嫌いだった。徹夜を自慢する研究文化も嫌いだった。だが、嫌っているものほど、人生にはしばしば戻ってくる。
画面には、候補イベントの一覧。
ノイズ。
衛星。
地上干渉。
未分類。
未分類。
未分類。
いつもより未分類が多い。
それだけでSNSは騒げる。
だが、研究者は騒げない。
未分類は、未分類でしかない。
隣の席では、大学院生のミアが、昨日から広がっている投稿を開いていた。
《SETI failed》
《They were listening to radio while aliens used the internet》
《Why didn’t the alien hunters find her first?》
《NASA knew. SETI knew. Governments lied.》
ミアは、画面を乱暴に閉じた。
「見ない方がいい」
ダニエルが言った。
「見ちゃいます」
「分かる」
「腹立ちません?」
「立つ」
「じゃあ何でそんな落ち着いてるんですか」
「落ち着いてない。動きが遅いだけ」
ミアは少し笑った。
それで少しだけ、部屋が人間に戻った。
ダニエルは、古いファイルを開いた。
《Post-Detection Checklist》
何年も前に作られ、何度も更新され、訓練で使われ、冗談半分に「使う日は来るのか」と言われてきたファイル。
第一段階。
候補信号の保存。
第二段階。
地上由来の排除。
第三段階。
独立観測による確認。
第四段階。
関係研究者への限定通知。
第五段階。
国際的確認。
第六段階。
公表準備。
第七段階。
応答禁止。国際協議まで返信しない。
ダニエルは、リストを上から見た。
ほとんど使えない。
候補信号は、ない。
独立観測による確認は、画面を見た全人類が済ませているように見える。だが、それは科学的確認ではない。
限定通知は、手遅れ。
公表準備も、手遅れ。
応答禁止。
それだけが、妙に残っている。
しかし、誰に向けた応答なのか。
昨日の少女は、連邦首都の南芝生を指定した。つまり、通信チャンネルを自分で選んだ。SETI研究者が返事を送る前に、相手は大統領府の芝生へ予定を入れてしまった。
ミアが言った。
「先生」
「何」
「プロトコルって、相手が返信先を指定してきた場合、どうなってます?」
「書いてない」
「ですよね」
「だいたい、信号が来る前提だから」
「本人が来るとは、書いてない」
その一文で、部屋が少しだけ静かになった。
本人が来るとは、書いてない。
ダニエルは、その言葉をメモした。
後で、誰かが使うかもしれない。
いや、使わない方がいいかもしれない。
あまりに正確で、あまりに情けない。
*
午前七時四十五分、東京。
総理府中枢庁舎の地下会議室には、科学班の臨時資料が並んでいた。
鴨下真帆は、二日連続で同じシャツを着ていることに気づいていた。
気づいていたが、どうでもよかった。
どうでもよくなることが増えると、人は危ない。
彼女はそう思いながら、紙コップのコーヒーを飲んだ。
味はしない。
温度だけがある。
「SETI関連の照会が増えています」
科学技術政策担当の参事官が言った。
「国内大学、国立天文台、電波望遠鏡、海外の研究機関。要点は三つです。昨日以前に観測データ上の前兆があったか。昨日の通信と天文学的信号との関係。接触前に、地球側から何らかの電波応答を送るべきか」
城崎玲首相は、三つ目で目を上げた。
「送るべき?」
「一部の研究者、民間団体、個人が主張しています。歓迎メッセージ、数学的挨拶、全人類からの返答など」
木原官房長官が、短く言う。
「勝手に送る人間は?」
「出ます」
参事官は即答した。
「もう出ています。アマチュア無線、深宇宙通信を名乗る配信、レーザー照射を示唆する投稿、寺院や教会の祈りを電波化する企画、音楽家による“人類代表曲”配信」
「止められるんですか」
「全部は無理です。そもそも、どこまでが送信なのかも曖昧です。電波を出すだけなら地球は毎日出しています」
真帆は、手元にメモした。
《どこまでが応答か》
この数日で、そういう問いばかりになった。
どこまでが攻撃か。
どこまでが礼拝か。
どこまでが模倣か。
どこまでが記録か。
どこまでが代表か。
人間が境界だと思っていた線は、いざ外から触られると、だいたい鉛筆で描いたようにぼやける。
城崎が言った。
「政府としては、無許可の代表送信を認めない」
木原が頷く。
「表現は?」
「“歓迎の意思は外交経路を通じて整理する。個人・団体が人類または日本国を代表すると称して発信することは避けてほしい”」
「強制力は」
「電波法で扱えるものは扱う。扱えないものは呼びかけるしかない」
「弱いですね」
「弱いです」
城崎は、あっさり認めた。
「でも、弱いところを強く見せるために嘘をつくと、もっと弱くなる」
真帆は顔を上げた。
この数日、城崎は「弱い」と何度も言うようになった。
以前の彼女なら、もう少し言い換えたはずだ。
制約がある。
課題が残る。
慎重に対応する。
そういう政治の言葉で包んだはずだ。
だが、いまは時々、包む余裕がない。
あるいは、包まない方がいいと判断している。
「科学班としては」
参事官が続けた。
「SETI関連のポストディテクション原則を参照しつつ、少なくとも初回接触までは、日本政府および関連機関からの能動的応答送信は行わない方針を提案します」
木原が聞く。
「理由は」
「国際協議なしに応答すべきでない、という原則があります。そもそも今回は通常の信号検出ではありませんが、逆に言えば、勝手に返す理由もありません」
「相手はもう来ると言っている」
「はい」
「では返事をしなくても失礼ではない?」
参事官は困った顔をした。
科学者に礼儀を聞くと、だいたいこういう顔になる。
真帆は少しだけ助け舟を出した。
「招待状に返信しないのではなく、相手がすでに会場と日時を指定して、世界中に通知済み、という状態です。ここで個々人が“私が返事をします”と送る方が、むしろ礼儀として変です」
木原が真帆を見る。
「分かりやすい」
「たとえが俗すぎますが」
「今は俗な方がいい」
城崎はそう言って、資料に線を引いた。
「ただ、SETIの人たちを無視しないでください」
「もちろんです」
「彼らは待っていた人たちです」
その言い方で、部屋が少しだけ静かになった。
「最初に見つけたわけではない。けれど、ずっと待っていた。その人たちが、いま一番傷ついているかもしれない」
真帆は、城崎の横顔を見た。
政治家が研究者の傷に触れるのは珍しい。
しかも、政策的にはほとんど役に立たない種類の傷だった。
だが、役に立たないからこそ、本当かもしれなかった。
「国内の電波天文学者、宇宙生物学者、科学哲学、国際法、宗教社会学も含めて、午後に非公開ヒアリングを」
城崎は言った。
「科学の話だけでは足りないでしょう」
参事官が頷く。
「議題は」
「こちらが聞きたいことではなく、まず彼らが何を失ったと思っているか」
木原が少しだけ顔を上げた。
「そこからですか」
「そこからです」
城崎は言った。
「人類が最初に聞く姿勢を見せる相手が、地球外の来訪者だけでは、少し恥ずかしいでしょう」
*
午前九時十六分、グリーンバンク。
観測室の電話が鳴った。
鳴った瞬間、全員が少しだけ嫌な顔をした。
電話は、たいてい研究を進めない。
マーシャが取った。
「エリオットです」
相手は、ワシントンの科学政策担当だった。
聞き慣れた名前。
聞き慣れない速さ。
「午後、国際科学助言会合に参加できますか」
「できます」
「SETIのポストディテクション手順について、簡単に説明を」
「簡単にはできません」
「十分で」
「無理です」
「では十五分で」
「あなた、交渉が雑になったわね」
電話の向こうで、相手が少しだけ笑った。
「世界が雑なんです」
「それは、そう」
マーシャは椅子に座り直した。
「何を聞きたいの」
「二つです。相手へ返信すべきか。昨日以前に検出できたはずだったのか」
マーシャは、目を閉じた。
二つ目が、痛い。
「返信については、国際協議なしに送るべきではない」
「通常の原則ですね」
「ええ。ただし今回は通常ではない。だからこそ、なおさら勝手な返答は避けるべき」
「理由は」
「誰も代表していないから」
彼女は言った。
「誰かが大きなアンテナを持っているからといって、人類の声帯を持っているわけではない」
電話の向こうが黙った。
「その表現、会議で使っても?」
「嫌だけど、どうぞ」
「二つ目は」
マーシャは、画面の候補信号なしの一行を見た。
「昨日以前に、検出できたはずだったのか」
「はい」
「分からない」
「公式には」
「公式にも分からない」
「世論は、なぜ見つけられなかったのかと」
「でしょうね」
マーシャは、少しだけ声を落とした。
「SETIは、宇宙のすべてを聞いていたわけではない。私たちは、限られた時間、限られた周波数、限られた方向、限られた仮説の中で探していた。海辺でコップ一杯の水を汲んで、そこに魚がいなかったと報告するようなものです」
「それも会議で」
「使っていい」
「助かります」
「ただし、これも付けて」
「はい」
「コップが小さいからといって、汲む意味がなかったわけではない」
電話の向こうで、しばらく音がなかった。
「分かりました」
「本当に?」
「分かる努力をします」
「それで十分」
マーシャは電話を切った。
アレックスが、少し離れた席から聞いていた。
「先生」
「何」
「悔しいですか」
マーシャはすぐには答えなかった。
窓の外には、巨大な望遠鏡がある。
彼女が人生の多くを捧げた、待つための機械。
「悔しい」
彼女は言った。
アレックスは、少し驚いた顔をした。
たぶん、もっと達観した答えを予想していたのだろう。
「すごく悔しい」
マーシャは続けた。
「最初に見つけたかった。変な信号を見て、眉をひそめて、君に“地上干渉を全部潰して”と言って、三日寝ないで、別の観測所に電話して、それでも残って、誰にも言わずに震えて、最後に間違いではないと分かりたかった」
アレックスは黙っていた。
「科学者だからではなく、人間だから」
マーシャは言った。
「待っていた人間は、最初にドアの音を聞きたいものよ」
観測室の中に、機械の音が小さく残る。
「でも、ドアは別の部屋で開いた」
アレックスが言った。
マーシャは頷いた。
「そう」
「じゃあ、私たちは何をするんですか」
「廊下の記録を取る」
アレックスは眉を寄せた。
「廊下?」
「ドアがどこで開いたか、誰が聞いたか、聞かなかった部屋で何が動いていたか。全部」
彼女は画面を指した。
「候補信号なしも、記録よ」
「何もなかったことを?」
「何もなかったことを」
マーシャは言った。
「人類は、何が起きたかだけでなく、どこで何も起きなかったかも残す必要がある」
*
午後一時、ジュネーブ。
臨時の国際科学助言会合は、正式な国連会議ではなかった。
だからこそ、早く開けた。
正式な会議にすると、議席、発言順、国旗、通訳、議事録、公開範囲、資格確認だけで半日が消える。今はその半日がない。
画面には、各国の科学顧問、宇宙機関、電波天文学者、国際法学者、宇宙生物学者、倫理学者、通信工学者が並んでいる。
国連の会議室を借りているのに、国旗は最小限だった。
それが、かえって政治的だった。
マーシャは、グリーンバンクから参加した。
アレックスは隣で記録係をしている。
会議の最初に、司会役のジュネーブ大学の科学政策学者が言った。
「この会合は、応答を決定する場ではありません。助言のための状況整理です」
最初に否定形を置く。
今週、人類はそればかりしている。
侵略ではない。
救済ではない。
取引ではない。
正式会議ではない。
決定ではない。
生命とはまだ言えない。
偽ではないとも言えない。
否定で足場を作り、その上に少しだけ肯定を置く。
マーシャの発言順は四番目だった。
彼女は、用意した資料を共有しなかった。
画面共有は、今朝からどうにも嫌だった。
人類は画面を信用しすぎている。
彼女は、声だけで話した。
「従来のポストディテクション原則は、主に信号の検出を想定しています。候補信号を保存し、独立確認し、地上起源を排除し、科学コミュニティへ公開し、国際協議なしに返信しない」
参加者たちは黙って聞いている。
「今回、その多くは順番が逆になりました。発見者は不明です。公表はすでに全世界で起きました。相手は自身の存在を主張し、接触日時と場所を指定しました。私たちは候補信号を持たず、代わりに全世界的な通信事案と社会的反応を持っています」
アレックスが隣でメモを取る。
「したがって、私たちができることは二つです」
彼女は一度だけ息を吸った。
「第一に、勝手に返事をしないこと。大きなアンテナやレーザーや放送設備を持つ組織が、善意であれ宣伝であれ、自分を人類の声と見なすべきではありません」
チャット欄が少し動いた。
「第二に、何も検出しなかった場所の記録も残すこと。昨日の時刻前後に、どの装置が、どの周波数で、どの方向を、どの感度で見ていたか。どこに候補信号がなく、どこに装置異常があり、どこに社会的通信だけがあったのか。それらは、後日の検証に必要です」
司会が言った。
「つまり、空白もデータだと」
「はい」
マーシャは頷いた。
「今回は、空白の方が多いでしょう」
国際法学者が質問した。
「個人・民間団体による返信をどう扱うべきですか」
「技術的には止めきれません」
マーシャは言った。
「法的にも国ごとに違うでしょう。だから、まず言葉を統一すべきです。“あなたは人類を代表していない”。これを、侮辱ではなく事実として伝える」
「強すぎませんか」
「弱く言えば、余計に広がります」
「科学者がそういう社会的メッセージを出すべきでしょうか」
マーシャは少しだけ笑った。
「本当は出したくありません」
それで、何人かがかすかに笑った。
「でも今は、科学の沈黙もメッセージになります。なら、下手でも言った方がいい」
別の参加者が聞いた。
「昨日以前に、SETIが相手を検出できなかったことは、失敗ですか」
会議が静かになった。
悪意のある質問ではなかった。
だから余計に痛い。
マーシャは、画面の向こうを見た。
「失敗ではありません、と言いたいところです」
彼女は言った。
「でも、それだけでは不誠実でしょう。私たちは、見つけられなかった。少なくとも、昨日の出来事に対応するような前兆を、発見として提示できていない。その意味では、期待された物語には失敗しました」
期待された物語。
最初に見つける科学者。
深夜の観測室。
細い信号。
確認。
涙。
世界への発表。
人類の沈黙。
その物語は、美しい。
美しかったからこそ、現実はそこを通らなかった。
「しかし」
マーシャは続けた。
「科学は、物語の期待に応えるためにあるのではありません。私たちの探索範囲は限られています。方法も仮説も限られています。見つけられなかったことを失敗として記録するのはよい。だが、それを無意味と呼ぶのは違う」
会議室の空気が少しだけ変わる。
「待つ学問は、相手が来た瞬間に終わるのではありません。むしろ、相手がどのように来なかったのかを調べる仕事が始まります」
アレックスのペンが止まった。
たぶん、その一文を拾った。
マーシャは、それで十分だと思った。
*
午後四時十八分、東京。
非公開ヒアリングの画面には、疲れた研究者たちが並んでいた。
国立天文台。
大学。
民間SETI団体。
宇宙生物学。
科学哲学。
国際法。
宗教社会学。
報道は入っていない。
入っていないからこそ、発言が少しだけ正直になる。
「いま一番困っているのは」
国内の電波天文学者が言った。
「“なぜ見つけられなかったのか”という問いです」
城崎玲は、画面の前で頷いた。
「答えは」
「探していた場所と方法が違ったから、というのが一番近いです。ただ、それは言い訳に聞こえます」
「言い訳でも、正しければ言うべきです」
「正しいのですが、世間が求めている答えとは違う」
「世間は何を求めていますか」
研究者は、少しだけ苦笑した。
「最初に気づいていた賢い人間か、隠していた悪い人間です」
真帆は、その言葉をメモした。
賢い人間か、悪い人間。
現代の物語は、だいたいその二択に寄りたがる。
偶然見落とした人間。
限られた予算で限られた空を見ていた人間。
仮説の外から来られてしまった人間。
そういう普通の敗北は、物語として売りにくい。
別の宇宙生物学者が言った。
「生命探査の説明も変えなければいけません。昨日まで、私たちは火星や海洋衛星や系外惑星を例に、条件と兆候の話をしていました。今日から子どもたちは、“でもアンドロは?”と聞くでしょう」
アンドロ。
会議室の中で、ついにその呼称が出た。
城崎は訂正しなかった。
真帆はそれを見ていた。
政府文書では使わない。
だが、発言をいちいち正すことはしない。
「どう答えますか」
城崎が聞いた。
宇宙生物学者は、少し考えた。
「まだ、生命かどうか分からない、と」
「子どもは納得しますか」
「しないでしょう」
「では、続けて」
研究者は、困った顔で笑った。
「分からないものが一つ増えたからといって、他の分からないものを調べる意味は消えない、と」
真帆は、昨日の種子島の資料を思い出した。
ロケットはまだいる。
火星探査はまだいる。
SETIも、まだいる。
人類はこの数日、自分たちの古い道具を一つずつ抱え直している。
まるで、急に大人が現れた子どもが、自分の鉛筆や定規やノートを確認するみたいだった。
安っぽい。
でも、切実だった。
科学哲学者が言った。
「今回の問題は、科学的発見の前に社会的事実が成立したことです」
「社会的事実」
木原が聞き返す。
「はい。科学的分類が未確定でも、社会はすでに“来た”ものとして動いている。市場も、宗教も、政治も、学校も、SNSも。科学は本来、確認してから語る。しかし社会は、語りながら確認を待つ」
「では、科学は遅い?」
「遅いです」
その場の何人かが顔を上げた。
哲学者は続けた。
「しかし、その遅さを失えば、科学ではなくなります」
城崎は、少しだけ頷いた。
「遅いものを、どう守るか」
「はい」
「それも、政府の仕事ですか」
哲学者は一瞬、返答に迷った。
「たぶん、そうです」
城崎は、手元にメモを書いた。
《遅いものを守る》
真帆は、その字を見た。
総理の字は、やはり少し汚かった。
*
午後六時五十分、バークレー。
ミアは、研究室の片隅で学生向け説明会の準備をしていた。
参加希望者が多すぎて、オンラインに切り替わった。
タイトルは三度変わった。
《SETIと昨日の出来事》
《地球外知性をどう確認するか》
《分からないまま考えるために》
最後のものが採用された。
ミアは、最初のスライドに、あえて何も画像を入れなかった。
白い翼の少女の画像は使わない。
バズる。
だが、使わない。
代わりに、黒い背景に白い文字だけ。
《最初に:私たちは昨日の存在を発見していません。》
指導教員のダニエルが、後ろから見ていた。
「強いね」
「弱くすると、コメント欄が荒れます」
「強くしても荒れる」
「知ってます」
「二枚目は」
ミアは次のスライドを出した。
《それでも、私たちの仕事は残っています。》
ダニエルは、少しだけ笑った。
「いい」
「ほんとですか」
「うん」
「怒られません?」
「怒られる」
「ですよね」
「でも、いい」
ミアは、画面を見た。
三枚目。
候補信号。
ノイズ。
地上干渉。
再観測。
独立確認。
国際協議。
応答しない。
言葉だけだと地味だ。
だが、今日必要なのは、たぶんその地味さだった。
宇宙人が画面に現れた翌日に、学生へ「まず地上干渉を疑います」と説明する。
ひどく地味で、ひどく大事。
「先生」
ミアは聞いた。
「私たち、負けたんですか」
ダニエルは、すぐには答えなかった。
「物語には負けた」
彼は言った。
「科学としては?」
「まだ試合が始まってない」
ミアは少し笑った。
「それ、使っていいですか」
「駄目。ダサい」
「使います」
「やめて」
二人は少しだけ笑った。
笑いながら、ミアはその文をメモに入れた。
使うかどうかは、あとで決める。
*
夜、グリーンバンク。
観測所は、また静かになっていた。
静かになったのではない。
最初から静かだった。
人間の方が、ようやくその静けさへ戻ってきた。
マーシャは、観測棟の外に出た。
巨大な皿が、星の方を向いている。
その姿は、祈りに似ていると言われることがある。
彼女は、その比喩があまり好きではなかった。
望遠鏡は祈らない。
測る。
受ける。
記録する。
壊れる。
直す。
また測る。
その無愛想さが好きだった。
アレックスが隣に来た。
「冷えますよ」
「年寄り扱い?」
「事実です」
「賢くなったわね」
アレックスは肩をすくめた。
しばらく、二人は望遠鏡を見ていた。
「先生」
「何」
「もし、明日になって、昨日の存在に対応する信号が過去データから見つかったら」
「嬉しい」
「悔しくないんですか」
「両方」
マーシャは言った。
「科学はだいたいそう。嬉しくて悔しい」
「見つからなかったら」
「それもデータ」
「便利ですね」
「便利じゃないと続かない」
アレックスは、空を見上げた。
「本人が来るとは、書いてない」
彼はまた言った。
マーシャは笑った。
「気に入ったの?」
「悔しいので」
「悔しさは、いい燃料よ」
「ロケットみたいですね」
「ロケットより長持ちする」
また少し笑った。
その後で、マーシャは静かに言った。
「私たちは、待つ学問だった」
アレックスは頷いた。
「でも、待つというのは、何もしないことじゃない。相手が来る前に、こちらの耳を整えること。来た後に、聞き間違いを減らすこと。来なかった場所を記録すること」
彼女は、巨大な皿を見上げる。
「だから、まだ終わってない」
「SETIはまだいる?」
アレックスが聞いた。
マーシャは少しだけ考えた。
昨日のロケット会社の誰かが言いそうな文だと思った。
人類は、似たような慰めをあちこちで必要としているらしい。
「まだいる」
彼女は言った。
「ただし、昨日までと同じ顔ではいられない」
観測棟の中で、誰かがキーボードを叩く音がした。
生データの保存。
時刻同期の確認。
空白の記録。
候補なしの記録。
世界のどこかでは、子どもが「アンドロ」と書いている。
どこかでは、宗教者が言葉を選んでいる。
どこかでは、政治家が返事を止めている。
どこかでは、白い翼の本人が地球の反応を見ているかもしれない。
そして、ここでは、巨大な皿がまだ空を向いている。
昨日までと同じように。
昨日までとは違う意味で。
マーシャは、観測棟へ戻る前に、ポスターの言葉を思い出した。
Are we alone?
もう、その問いは古くなった。
だが、捨てる必要はない。
問いは、答えが出た瞬間に死ぬわけではない。
形を変える。
私たちは、どう孤独ではないのか。
どのように聞き、どのように待ち、どのように返事をしないでいられるのか。
それを測るために、まだ夜は必要だった。
巨大な望遠鏡は、静かに空を向いていた。
人類は、最初に見つけられなかった。
それでも、耳も目も閉じる理由にはならなかった。




