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閑話4 光るものすべて金ならず



――20XY年3月4日、テキサス/種子島/東京/連邦首都


水曜日の朝、人類の宇宙は少し狭くなっていた。


正確には、宇宙そのものが狭くなったわけではない。


星は昨日と同じ場所にあり、月は昨日と同じ重さで地球を引き、火星は相変わらず遠く、木星の衛星は沈黙し、地球低軌道の衛星は予測表どおりに何度も頭上を通過していた。


狭くなったのは、人間の想像の方だった。


昨日まで宇宙は、上へ行くものだった。


ロケットを立てる。


燃料を詰める。


窓を閉じる。


人を退避させる。


カウントを進める。


火をつける。


振動に耐える。


音を浴びる。


空へ押し上げる。


その苦しさを、宇宙と呼んできた。


けれど、白い翼の少女は、そういう手順の外から来た。


いや、来たのかどうかさえ分からない。


来た、という動詞は、距離と時間と移動の手続きがあって初めて落ち着く。出発点があり、経路があり、到着点がある。人間はそこへ切符や燃料や軌道計算や入国審査を重ねてきた。


彼女には、それが見えなかった。


見えないものは、ないのではない。


人間の側に、まだ見える目がない。


その事実が、宇宙産業の朝を静かに傷つけていた。



午前五時三十八分、テキサス南部。


発射場の風は、いつもより湿っていた。


海からの空気が鉄骨の間を抜け、整備塔の足元に置かれた工具箱の金属面を曇らせている。夜勤の照明はまだ消えていない。白い光を浴びたロケットの胴体は、夜の終わりと朝の始まりのどちらにも属していなかった。


オービタル・ランス社の大型試験機、OL-7。


高さだけなら高層ビルに近い。円筒。配管。バルブ。タンク。熱防護材。点検用の足場。地上支援装置。燃料系の赤い警告札。打上げ二日前の機体には、まだ飛ぶものというより、飛ばすために縛りつけられているものの気配があった。


管制棟の二階で、フライトディレクターのレオナ・ハーパーは窓越しにその機体を見ていた。


三十六時間後に、無人貨物ミッションを上げる予定だった。


だった、という過去形をまだ誰も口にしていない。



「FAAから、追加照会です」


管制席の若い担当者が言った。


「既存ライセンス条件の範囲内か、来訪事案に伴う公衆安全リスク評価に変更があるか。あと、打上げ当日の上空監視体制について」


「昨日の返答と同じでいい」


レオナは言った。


「同じでいいんですか」


「同じではない。でも、書けることは同じ」


担当者は少しだけ困った顔をした。


レオナは窓から目を離さなかった。


「我々は、飛行安全区域を設定する。海上と空域を閉じる。周辺住民への通知を出す。燃料積み込み前に最終判断をする。異常があれば止める。昨日も今日もそこは変わらない」


「変わったところは」


「宇宙の意味」


担当者は、入力する手を止めた。


「それ、FAAへの返答に書きますか」


「書かない」


レオナはようやく振り向いた。


「書いたら、向こうも困る」


部屋の何人かが小さく笑った。


笑いはすぐに消えた。


商業宇宙輸送という言葉には、いつも少しだけ夢と保険の匂いが混じる。


軌道投入。


再使用。


スターリンク。


衛星ブロードバンド。


月面輸送。


宇宙工場。


火星移住。


投資家向け資料では、どの言葉もまっすぐ未来へ伸びていた。右肩上がりの市場規模。打上げ単価の低下。年率成長。世界の接続。人類の多惑星化。


そこへ、少女の映像が割り込んだ。


中学生くらいの背丈。


白い衣。


銀色の髪。


白い翼。


地面からわずかに浮いた足。


彼女の姿は、ロケットのすべてを否定しているように見えた。


そう見えた。


見えてしまった。


管制棟の壁には、前回の試験飛行で焦げたノズルの写真が貼ってある。隣には、初号機が爆発した時の破片回収マップ。さらに隣には、社員の子どもが描いたらしい絵がマグネットで貼られていた。


大きな白いロケット。


青い空。


笑っている人間。


絵の右上に、太陽。


子どもの宇宙は、たいていロケットと太陽でできている。


レオナはその絵を見た。


「投資家向けの電話は」


「七時です」


「CEOは」


「もう入っています」


「広報は何て言ってる」


「“当社の長期ビジョンは変わらない”で押すそうです」


「便利な文だな」


「はい」


「たぶん、誰も信じない」


若い担当者は返事に困った。


レオナは続けた。


「でも、言うしかない」



午前六時五分。


社員向け全体通話は、予定より十八分遅れて始まった。


遅れた理由は、通信障害ではない。


言葉が決まらなかったからだった。


画面には、CEOのネイサン・クロウが映っている。普段なら、黒いTシャツかフライトジャケットで出る男だった。今日は白いシャツにジャケットだった。誰かがそうさせたのだろう。似合っていなかった。


似合っていない真面目さほど、社員を不安にさせるものはない。


「みんな、昨日からほとんど眠れていないと思う」


クロウは言った。


「まず、安全確認から始める。施設、車両、機体、地上支援設備、社員、地域住民に、現時点で直接の被害は確認されていない」


直接の。


その副詞だけが、やけに響いた。


直接ではない被害は、すでに出ている。


株価。


採用候補者からの問い合わせ。


顧客からの保留依頼。


保険会社からの照会。


国防契約の再評価。


月面輸送計画の価値。


火星構想の見出し。


そして、社員の顔。


「次に、OL-7ミッションについて」


画面の中のクロウが少しだけ紙を見た。


「現時点で、我々は打上げ準備を継続する」


管制室の空気が、わずかに変わった。


続ける。


その単語は強い。


だが、続ける理由は弱くなっている。


「ただし、これは無理に飛ばすという意味ではない。規制当局、顧客、保険、気象、安全、すべての条件を確認する。いつも通り、止める理由があれば止める」


いつも通り。


昨日から、それほど疑わしい言葉はなかった。


それでも、社員の何人かは少しだけ安心した顔をした。


人は、嘘ではない「いつも通り」に弱い。


「昨日、世界中が同じ映像を見た。私も見た。あれが何なのか、我々はまだ知らない」


クロウはそこで、一度だけ言葉を探した。


この男が言葉を探すのを、レオナは初めて見た。


「我々の仕事は、宇宙へ行くことだ。では、すでに宇宙の向こうから誰かが来たなら、我々の仕事は無意味になるのか」


画面のこちら側で、誰も動かなかった。


「ならない」


クロウは言った。


「少なくとも、私はそう考えている」


少なくとも。


その弱さは、逆によかった。


「我々は、魔法を売っているわけではない。到達の手順を作っている。誰かが遠くから来たとしても、人類が自分の手で近くの軌道へ衛星を上げ、物資を運び、人を訓練し、失敗を記録し、次に直す仕事は消えない」


レオナは、窓の外のロケットを見た。


到達の手順。


悪くない。


「昨日まで、我々は宇宙を遠い場所だと思っていた。今日から、それは少し違うかもしれない。だが、遠いと思っていたものが近づいたからといって、梯子を捨てる理由にはならない」


梯子。


それは少し古い比喩だった。


ロケット会社のCEOが言うには、地味すぎる。


だが、地味だからこそ、今朝は効いた。


「ミッションは継続準備。安全を最優先。質問は各部門長へ。心理支援窓口も開ける」


最後の一文で、何人かが顔を上げた。


心理支援。


ロケット会社の全体通話で、その言葉が出る日は少ない。


クロウは少しだけ言いにくそうに続けた。


「昨日の映像を見て、不安になった人間は多い。私もその一人だ。自分の仕事が小さく見えた人間もいると思う。小さく見えていい。だが、小さくなったわけではない」


通話はそこで終わった。


画面が消える。


管制室に、機器の低い音だけが戻る。


誰かが、ぽつりと言った。


「珍しくまともだったな」


別の誰かが答える。


「株主向けより社員向けの方が向いてるんじゃないですか」


少しだけ笑いが起きた。


その笑いは、今朝初めて、ちゃんと笑いに聞こえた。



午前七時四十分、種子島。


宇宙センターの見学施設は、まだ開館前だった。


ガラス越しに見える海は、いつも通り明るい。南の島の朝は、国家的危機と相性が悪い。空があまりに青いと、人はかえって現実を疑う。


案内スタッフの磯谷麻衣は、展示室の照明を一つずつ点けていた。


大型スクリーン。


打上げ映像。


ロケットエンジンの模型。


衛星フェアリングの断面。


宇宙服の展示。


子ども向けの操作パネル。


記念撮影用の小さな模型ロケット。


昨日までなら、開館直後の最初の仕事は、床の汚れを見ることだった。小学生の団体が来る日は、入口のマットがすぐ砂を持ち込む。見学者は展示より先にトイレへ行きたがる。先生は集合時間を気にし、子どもは売店を気にし、保護者は写真を撮りたがる。


宇宙は、遠い。


だが見学施設の宇宙は、だいたい靴底の砂と一緒に入ってくる。


その距離感が、麻衣は好きだった。


今日は、予約キャンセルの電話が増えている。


学校団体は半分が延期。


個人見学は逆に増えそうだと、受付から連絡が来ていた。


人は怖いとき、閉じこもるだけではない。


現場へ行きたがる。


少なくとも、現場に近いと感じられる場所へ。


宇宙センターは、突然そういう場所になった。


「磯谷さん」


後ろから声がした。


教育担当の主任、杉浦だった。手には、昨日の夜に作ったらしい臨時説明資料がある。


「今日の小学生、来るそうです」


「来るんですか」


「校長判断で。保護者の同意は再確認済み。午前だけ、見学短縮。打上げ管制施設は外して、展示館と質疑だけ」


「質疑」


麻衣は、無意識に繰り返した。


昨日から一番怖い言葉だった。


子どもの質問は、時々、官僚の質問より厳しい。


「想定問答は」


「作りました」


杉浦は紙を渡した。


一、昨日の映像は本物ですか。


二、あの人は宇宙人ですか。


三、ロケットはいらなくなるんですか。


四、宇宙へ行くと会えますか。


五、地球は攻撃されますか。


六、あの翼はどうやって飛んでいますか。


七、なぜ大統領府へ行くのですか。


八、日本には来ないのですか。


九、宇宙飛行士は怖くないのですか。


十、僕たちは何をすればいいですか。


麻衣は、三番で手を止めた。


ロケットはいらなくなるんですか。


たぶん、今日の本題はそれだった。


「答え、何にしました?」


杉浦は紙の裏を見せる。


《いりません、とは言えません。必要です、とだけ言うのも不十分です。ロケットは、人間が自分たちの力で宇宙へ行くための道具です。誰かが遠くから来ても、自分たちで調べること、自分たちで行くことの意味はなくなりません。》


麻衣は読み終えて、少しだけ頷いた。


「長いですね」


「長いんです」


「小学生向けには」


「だから困っています」


二人は展示室の中央で、しばらく黙った。


目の前には、大きなロケットの模型がある。


白い胴体。


赤いライン。


固体ロケットブースター。


人間が作った、上へ行くための形。


それは昨日までより、少し不器用に見えた。


だが、不器用だからこそ、いとおしい気もした。



午前九時十二分。


小学生たちは、思ったより静かに入ってきた。


六年生、三十八人。


引率教師が四人。


いつもなら、入口の模型を見た瞬間に声が上がる。今日は、声が上がる前に子どもたちは互いの顔を見た。騒いでいいのかどうか、誰かが決めてくれるのを待っている。


麻衣は、いつもの声より少し低くした。


「おはようございます。今日は来てくれてありがとうございます」


ありがとうございます。


その一言に、少しだけ本音が混じった。


来た。


来てくれた。


昨日の映像を見た翌日に、子どもたちがロケットの展示を見に来た。


それだけで、宇宙センターの朝は少し救われた。


「今日は、予定を少し変えて見学します。最初に、この展示室でお話をします。そのあと、みなさんから質問を受けます。分からないことは、分からないと言います」


子どもたちの何人かが、そこで顔を上げた。


分からないと言っていい。


昨日から、大人たちはそれをようやく覚え始めていた。


麻衣は、ロケットの模型の前に立った。


「これは、人間が宇宙へ物を運ぶための乗り物です」


いつもなら、ここで推力や段数や人工衛星の話に入る。


今日は、違う。


「昨日、みなさんも不思議な映像を見たと思います。白い服を着て、翼のある、小さく見える人が、世界中の画面に出ました」


子どもたちは黙っている。


何人かは頷いた。


一人だけ、下を向いた。


「その人が何なのか、先生たちも、私たちも、まだ全部は分かっていません。分かっているふりはしません」


後ろで、引率教師が少しだけ息を吐いた。


「でも、今日ここで話せることがあります」


麻衣は、模型を見上げた。


「このロケットが、急に意味のないものになったわけではありません」


子どもたちの目が、模型へ向いた。


「誰かが遠くから来たとしても、私たちが自分たちで遠くへ行こうとすることは、なくなりません。むしろ、何が分からないのかが増えたぶん、自分たちで確かめることはもっと大事になります」


一人の男の子が手を上げた。


早い。


麻衣は少し緊張した。


「どうぞ」


「でも、あの人はロケット使ってないんですよね」


「たぶん、使っていないように見えます」


「じゃあ、ロケットって遅くないですか」


展示室が少しだけ固まった。


良い質問だった。


良い質問は、たいてい残酷だ。


麻衣は少し考えた。


「遅いと思います」


子どもたちがざわついた。


引率教師がこちらを見た。


麻衣は続けた。


「少なくとも、あの人たちのやり方と比べたら、たぶん、とても遅いです」


男の子は、少し勝ったような顔をした。


「でも、遅いことは、いらないこととは違います」


麻衣は言った。


「みなさんは、歩くより車の方が速いから、歩くことがいらないとは思わないでしょう。飛行機があるから、自転車がいらないとは思わない。計算機があるから、算数をしなくていいわけでもない」


子どもたちは、黙って聞いている。


「ロケットは、人間が今持っている、宇宙へ行くための歩き方です」


言ってから、麻衣はその比喩が少し気に入った。


歩き方。


そうだ。


ロケットは、飛び方というより、人類の歩き方に近い。


よろけて、燃えて、失敗して、直して、また立てる。


「歩き方が遅くても、自分の足で歩いた場所は、自分で覚えられます」


男の子は、完全には納得していない顔をしていた。


それでいい、と麻衣は思った。


子どもが一度で納得する説明は、たいてい大人に都合がいい。


別の女の子が手を上げた。


「あの翼は、本当に飛ぶためですか」


麻衣は少し詰まった。


答えは知らない。


知らないが、昨日の映像を何度も見た。


翼は飾りには見えなかった。


身体から自然に生えていて、羽根の一枚ずつが空気ではない何かを撫でるように動いていた。


「分かりません」


麻衣は言った。


「私たちの知っている飛行機や鳥の翼とは違うかもしれません。地球の空気で飛ぶためのものではないかもしれません」


「じゃあ、なんで翼なんですか」


「それも、分かりません」


女の子は不満そうだった。


麻衣は、少しだけ言葉を足した。


「でも、分からないから、見たままをすぐ天使とか悪魔とか、飾りとか武器とか、決めつけない方がいいと思います」


その言い方は、少し難しかったかもしれない。


けれど、何人かの子どもは頷いた。


後ろの教師がメモを取っている。


麻衣は、急に自分がとんでもない授業をしている気がした。


ロケット展示館で、天使でも悪魔でもないと説明する。


昨日までの仕事にはなかった。



午前十時三十分、東京。


宇宙航空庁の記者会見室には、いつもより多い記者が入っていた。


普段なら宇宙担当の専門記者と科学部が中心だ。今日は、政治部、社会部、経済部、国際部、テレビのワイドショー、海外メディアまで混じっている。


宇宙機関の会見室は、急に世界の入口になっていた。


長官の秋庭理人は、机の前で資料を整えていた。


資料の一枚目には、今後の打上げ予定。


二枚目には、昨日以降の衛星運用状況。


三枚目には、海外宇宙機関との情報共有。


四枚目には、教育広報対応。


五枚目には、想定問答。


《Q:ロケット開発は無意味になったのではないか》


ずいぶん正直な質問だ、と秋庭は思った。


正直すぎる質問は、実際には誰かが必ず聞く。


だから想定問答に入る。


「長官、入ります」


広報官が言った。


秋庭は頷き、会見室へ入った。


カメラのランプが点く。


昨日から、カメラの赤い点が少し怖くなった。


画面は奪われるものだ、と人類は学んでしまったからだ。


「昨日以降、当庁が運用する衛星、地上局、追跡管制設備について、現在までに恒久的な損傷は確認されていません」


秋庭は読み始めた。


「一部データの欠落、同期異常、通信遅延がありましたが、現在、解析を進めています。関係機関と情報を共有し、必要な保全措置を取っています」


ここまでは事務的。


必要な硬さ。


問題はその後だった。


「また、今後予定されている打上げについては、現時点で一律に中止する判断はしていません。個別のミッションごとに、安全、気象、空域・海域調整、規制当局との確認、国際的な状況を踏まえて判断します」


質問の手が上がる。


一問目は、やはりそこだった。


「来訪者がロケットを使わずに地球へ到達可能であるなら、人類のロケット開発は時代遅れになったと言えるのではありませんか」


会見室の空気が少しだけ動く。


秋庭は、想定問答の紙を見なかった。


見たら負ける気がした。


「時代遅れ、という言葉は便利ですが、慎重に使うべきです」


彼は言った。


「たしかに、昨日示された技術的非対称性は極めて大きい。私たちが現在用いている推進、軌道投入、通信、管制の手法は、相手の能力と比べれば非常に限定的に見えるでしょう」


限定的。


敗北よりはましな言葉だった。


だが、逃げすぎてもいない。


「しかし、ロケットは単なる速度競争の道具ではありません。私たちが自分たちの手で観測し、通信し、測位し、気象を知り、災害を把握し、探査機を送り、人材を育て、失敗を記録し、次の設計へ反映するための基盤です」


記者が打つ音が増える。


「誰かが、私たちよりはるかに進んだ方法で空を越えられるとしても、私たちが自分たちの方法で空へ手を伸ばす意味は失われません」


秋庭は少しだけ間を置いた。


「むしろ、失わせてはいけない」


その一文は、原稿になかった。


広報官が少しだけ顔を上げた。


だが、止めなかった。


次の質問。


「来訪者への接触において、宇宙航空庁はどのような役割を担いますか」


「現時点では、科学的助言、観測データの提供、通信・軌道・空域に関する技術的支援です」


「防衛面での役割は」


「当庁は防衛機関ではありません」


「ただ、衛星データは安全保障にも関係します」


「関係します。だからこそ、言える範囲と言えない範囲を分けます」


「国民に隠すということですか」


秋庭は、記者を見た。


「分からないことを隠すつもりはありません。ただし、分かっていないことを分かったように言うつもりもありません」


昨日から、多くの機関が同じ場所へたどり着いていた。


分からない。


その言葉は、弱さではなく、かろうじて残った誠実さになりつつあった。



正午、テキサス。


OL-7の発射場では、整備員たちが昼食をとっていた。


昼食といっても、弁当を広げるような余裕はない。保温容器の中の豆、冷めた肉、パン、エナジーバー、薄いコーヒー。発射場の食事は、だいたい機械の都合で決まる。


ルイス・マルティネスは、整備棟の外階段に座っていた。


若手の推進系エンジニア。


入社三年目。


初めてエンジン試験で主担当の端に名前が載ったのは、つい先月だった。


昨日まで、それが誇らしかった。


今朝は、少しだけ言いにくい。


スマートフォンには、母からのメッセージが来ている。


《仕事行ってるの?》

《あの子、本当に宇宙から来たの?》

《あなたの会社、大丈夫?》

《ロケットは危なくない?》


ルイスは返信を書きかけて、消した。


大丈夫。


危なくない。


まだ分からない。


どれも嘘になる。


彼は結局、こう打った。


《仕事中。いつもより確認が多い。俺は大丈夫》


送信。


すぐ既読。


返信は、少し遅れて来た。


《ロケットまだいるの?》


ルイスは、画面を見たまま固まった。


母は悪気なく聞いている。


むしろ、心配している。


だが、その一文は、朝から彼の胸の中にあったものと同じだった。


ロケットまだいるの?


彼はスマートフォンを伏せた。


目の前には、発射台がある。


OL-7の白い胴体。


配管を固定する作業員。


遠くで回るクレーン。


海鳥。


湿った風。


この全部が、急に古いものに見える時がある。


人類が石器を磨いている横で、誰かが恒星間から手を振っているような感じ。


馬鹿らしい。


それでも、目の前のバルブは締めなければならない。


締めなければ、漏れる。


漏れれば、危ない。


危なければ、止める。


その順番は、昨日も今日も変わらない。


レオナが階段の下に立った。


「ここにいたか」


「すみません」


「謝ることじゃない」


彼女は、ルイスの隣に少し離れて座った。


フライトディレクターが外階段に座ると、少しだけ景色が変だった。


「母親?」


ルイスは少し驚いた。


「顔に出てた」


「はい」


「何て?」


ルイスは迷ったが、見せた。


《ロケットまだいるの?》


レオナはその画面を見て、少しだけ笑った。


笑ったが、馬鹿にしてはいなかった。


「良い質問だ」


「良すぎます」


「答えた?」


「まだ」


「答えるなら、短い方がいい」


「何て?」


レオナは、発射台を見た。


長く黙った。


その沈黙が、少しだけルイスを安心させた。


上司がすぐに格好いい答えを出さないと、部下は救われることがある。


「“まだいる”」


レオナは言った。


「それだけ?」


「うん」


「理由は」


「聞かれたら考えればいい」


ルイスは、少しだけ笑った。


それから、母へ返信した。


《まだいる》


送信。


今度はすぐに返信が来た。


《なら気をつけて》


ルイスは、スマートフォンをポケットに入れた。


少しだけ、仕事に戻れる気がした。



午後二時十六分、種子島。


見学の最後に、子どもたちは感想カードを書いた。


麻衣は、いつもこの時間が好きだった。


子どもの感想は、だいたい雑だ。


ロケットが大きかった。


音がすごそう。


売店に行きたい。


宇宙飛行士になりたい。


説明が長かった。


トイレがきれいだった。


どれも正しい。


今日のカードは、少し違っていた。


《あの人がいても、ロケットがあるのがすごいと思った》


《宇宙は近くなったのか遠くなったのかわからない》


《ロケットはおそいけど、がんばってる感じがした》


《大人もわからないと言っていいのがわかった》


《アンドロはロケットを見るのかな》


最後の一枚で、麻衣は手を止めた。


アンドロ。


もう子どもたちの中にも、その呼び名は入っている。


政府が使わなくても、報道が慎重でも、学校が資料で「来訪者」と書いても、子どもは短い方を選ぶ。


麻衣は、そのカードを別の束へ移そうとして、やめた。


検閲みたいだと思ったからだ。


感想は感想だ。


子どもがそう呼んだ。


その事実まで整え始めたら、展示館の仕事ではなくなる。


彼女はカードを束に戻した。


その時、男の子が一人、入口の近くで立ち止まっていた。


朝、「ロケットって遅くないですか」と聞いた子だった。


「どうしたの」


麻衣が声をかける。


男の子は、ロケット模型を見ていた。


「これ、本当に飛ぶんですよね」


「実物はね。これは模型だけど」


「本物は、すごい音がするんですよね」


「します」


「見たいです」


麻衣は、少しだけ驚いた。


「打上げを?」


男の子は頷いた。


「遅いけど、見たい」


その言い方が、妙に良かった。


遅いけど、見たい。


麻衣は笑った。


「見られるといいね」


「はい」


男の子は走らず、先生の方へ戻っていった。


開館前に心配していたより、子どもたちはずっと普通だった。


普通というのは、何も考えていないという意味ではない。


怖がり、比べ、疑い、飽き、納得せず、それでも見たいと言う。


それが普通だった。



午後四時、連邦首都。


ホワイトハウス西棟では、南芝生についての会議が続いていた。


NASA。


国防総省。


国務省。


FAA。


シークレットサービス。


公衆衛生。


大統領府広報。


宇宙企業の代表者は呼ばれていない。


だが、名前は何度も出た。


「民間打上げ予定は、一律停止すべきでは」


国防総省の出席者が言った。


「空域管理上の負荷が増えます」


FAA側の担当者が答える。


「個別判断です。既存のライセンスと安全評価の枠組みがあります。来訪事案を理由に全面停止する法的根拠は、現時点で弱い」


「安全保障上の要請なら」


「それを誰が、どの範囲で出すのか、明確化が必要です」


「南芝生に来る相手が空を越えると言っている」


「だからこそ、通常の打上げを全部止めても、相手への影響はほぼありません。止まるのは地球側の産業だけです」


部屋が少し静かになる。


大統領首席補佐官のイーサン・ラインが、資料に線を引いた。


「つまり、止めると見せたい相手には効かず、止めたくない相手だけが止まる」


「端的に言えば」


FAA担当者は言葉を選んだ。


「はい」


ラインは少しだけ笑った。


「端的すぎるが、助かる」


NASA長官のマリア・ハンソンが、静かに口を開いた。


「宇宙関係の通常運用を全部止めるのは、象徴としても悪いと思います」


「象徴?」


「昨日から、人類はすでに劣位を見せられています。そこで自分たちの宇宙活動を自分たちで止めれば、劣位を受け入れたように映る」


「では飛ばすべきだと?」


「安全なら」


マリアは言った。


「安全でないなら止める。それは昨日までと同じです」


昨日までと同じ。


その言葉は危うい。


だが、こういう時には必要でもある。


「ロケットは」


彼女は続けた。


「軍事的にも、商業的にも、科学的にも、教育的にも、いま人類が宇宙へ関わるための実際の手段です。相手が別の手段を持っているからといって、こちらの手段を自分から恥じる必要はありません」


国務省の担当者が頷いた。


「むしろ、接触時に提示する人類の活動記録に、宇宙開発は入れるべきです」


「成果として?」


ラインが聞く。


「成果だけではなく、過程として」


「失敗も?」


「失敗も」


部屋の何人かが顔をしかめた。


失敗を見せる。


国家はそれが苦手だ。


だが、白い翼の来訪者に成功だけを見せることほど、滑稽なこともない。


「爆発映像を見せるのか」


国防側が言った。


「爆発そのものではなく」


マリアは少し考えた。


「失敗から改修までの記録です。事故調査。再設計。安全基準。打上げ延期。気象待ち。部品交換。人間が宇宙へ行くために、どれだけ失敗を制度へ変えてきたか」


ラインはメモを取った。


《宇宙開発:成果だけでなく失敗と改修》


彼はその横に、小さく書き足した。


《人類の歩き方》


誰の言葉でもない。


だが、なぜかしっくり来た。



夕方、テキサス。


OL-7の打上げは、二十四時間延期された。


理由は、来訪者ではない。


バルブだった。


二段目推進系の圧力保持試験で、許容値に微妙な揺れが出た。


昨日までなら、それだけで誰もが納得した。


今日は、いろいろな意味を背負いそうになった。


来訪事案の影響か。


安全上の政治判断か。


投資家対策か。


規制当局への配慮か。


世界の終わりの前にロケットを飛ばすのは不謹慎だという世論か。


全部、違う。


バルブだ。


ただの、しかし重要な、バルブだ。


レオナは、発表文の一文目を自分で直した。


《本延期は、二段目推進系の確認作業に伴うものであり、三月一日の全世界通信事案に起因するものではありません。》


長い。


だが必要だった。


広報が確認し、法務が頷き、規制担当がFAAへ連絡し、顧客がため息をつき、整備チームが工具を取りに戻った。


ルイスは、機体の足元で作業員リストに名前を入れた。


延期。


確認。


再試験。


よくあることだ。


よくあることが、今はありがたかった。


世界がどれだけ大きな問いを投げてきても、バルブの確認はバルブの確認として残る。


宇宙へ行く仕事は、そういう小さな正しさの積み重ねでできている。


彼は、夕焼けの中でロケットを見上げた。


白い胴体が、少し赤く染まっている。


昨日の少女の白い衣とは違う。


あちらは、絹に似て絹ではない、象牙と真珠のあいだのような白だった。


こちらは、塗装と断熱材と煤と傷の白だ。


人間の白。


汚れる前提の白。


ルイスは、なぜかそのことに救われた。



夜、種子島。


展示館の閉館後、麻衣は感想カードを箱に入れていた。


いつもなら、良いものを数枚選んで館内掲示に回す。


今日は全部をスキャンすることになった。


宇宙航空庁から指示が来ている。


《来訪事案後の教育現場反応として保存》


教育現場反応。


子どもの字まで、行政用語になる。


麻衣は少しだけ嫌な気持ちになった。


だが、捨てるよりはましだった。


一枚ずつスキャンする。


《ロケットはおそいけど、がんばってる感じがした》


機械が、子どもの字を読み取れず、何度もエラーを出した。


麻衣は手入力した。


ロケットは、おそいけど、がんばってる感じがした。


打ちながら、少し笑った。


それは、今日のどの大臣答弁より正確かもしれなかった。


最後の一枚。


《ロケットはまだいると思った》


麻衣は、そこで手を止めた。


短い。


子どもは時々、大人が長い会議で探している言葉を、雑に置いていく。


彼女はそのカードを、掲示用の束に入れた。


明日、館内の小さなボードに貼る。


たぶん、誰かが見る。


誰かが見て、少し笑う。


それでいい。


外では、海が暗くなっていた。


発射場は静かだった。


空には星が出ている。


そのどこかから、あるいは星の向こうから、白い翼の少女は来るのだろう。


ロケットより速く。


ロケットより静かに。


ロケットよりずっと、手続きの少ない方法で。


それでも、地上には発射台が残っている。


整備員がいる。


安全確認の紙がある。


延期の理由になったバルブがある。


小学生の感想カードがある。


人類は、まだ空へ行くために火を使う。


それは古い。


遅い。


危うい。


不器用だ。


けれど、その不器用さの中にしか残らないものがある。


麻衣は展示室の照明を一つずつ消した。


最後に、ロケット模型だけが非常灯の薄い光を受けて残った。


白い胴体。


赤いライン。


上へ向いた先端。


まだ飛んでいないものの形。


彼女は入口で振り返り、小さく言った。


「まだいるよ」


誰に向けた言葉でもなかった。


だが、その日、人類の宇宙開発が返せた答えとしては、たぶんそれで十分だった。




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