たばこの味の
最終列車がノーズの自宅の最寄り駅に着く頃には、すっかり夜も更けていた。
片道五時間以上の旅を終えて、ホームに降り立つ。同じ列車から降りてきた乗客達は足早に改札を出て、夜の闇へ姿を溶け込ませた。
ノーズもまた、改札に立つ駅員に切符を渡してホームを出たが、その後を追う気にはなれなかった。待合室から外を見やると、針のように細い雨が地面を湿らせている。初夏の生ぬるい空気が頬を撫でた。
駅から自宅には、徒歩で三十分以上かかる。列車の硬い座席で長時間揺られた挙げ句、雨に打たれることを思うと心底うんざりした。
こじんまりとした木造の駅舎は売店もなく、近隣の店はすでに明かりを落としている。
駅員の視線を背中に感じながら外に出たノーズは、軒下に設置されたベンチにどっかりと腰を下ろした。
手持ち無沙汰に懐をまさぐれば、煙草と燐寸が出てきた。数日前に行きつけの酒場に誰かが忘れていたのをくすねたものだ。
ノーズが手にした時点で、煙草の箱の中身は半分以上が減っていた。既に今日、何本か吸ってしまったせいで、残りは数本だけだった。
箱から取り出した煙草を指に挟んだ時、不意に駅舎の明かりが落とされた。
しばらくすると制服に身を包んだ駅員が出てきて、ちらりと迷惑そうな視線を向けてくる。ノーズが黙って見つめ返すと、駅員は降り注ぐ雨に視線を移し、黙って闇の中へ姿を紛れ込ませていった。
道沿いに点々と設置された街灯の明かりが雨に反射して、ノーズの手元を比較的明るく照らしている。
煙草を口に咥え、燐寸を擦ると、鮮やかな橙が灯った。
瞬間、闇夜を切り裂くまばゆい炎の光景が瞼の裏に蘇る。
窓際で風に揺れるカーテンが膨れあがるようにゆったりと、しかし広範囲に爆発的に広がる、ラーディスの兵器が生み出す炎だ。
記憶の奥底に封じ込めたはずの戦時の記憶が、こうして何気ない日常の光景や音に反応して出てくることがある。
それに意識を傾けているうちに、燐寸を一本無駄にした。
ごみとなったそれを地面に落とし、ノーズは靴の裏で執拗に踏み潰した。叩きつけるように二本目に火を灯し、口元へ運ぶ。
煙を吸い込んだ瞬間に盛大に咽せた。すぐに煙草を口から離したが、なかなか収まらない。そのかわりといってはなんだが、脳裏を占めていた忌まわしい光景があっというまに霧散した。
ノーズは幼少期の頃から、煙草のにおいが好きではなかった。
まったくと言っていいほど娯楽のない戦地にいてさえ、煙草を吸いたいという欲求は、微塵も湧かなかった。それをすれば、憂さ晴らしどころかかえって気分が悪くなるとはっきり自覚していた。
大人になってからは殊更にそうだった。このにおいを嗅ぐと、戦場よりも忌まわしい記憶が蘇る。
背を丸めて咽せ続けていると、肺を満たしていた不快な感覚が徐々に消え去っていく。
小さく喉の奥を鳴らして呼吸を整えていると、雨に混じって水たまりを踏む足音が耳に届いた。顔を上げ、正面を見据えたノーズは舌打ちをする。
傘をさした男が一人、こちらに向かってきていた。
背格好だけで、ノーズにはそれが誰かすぐにわかった。
「やあ」
仕事帰りなのだろう。糊のきいたシャツとズボン姿のディートハルトが、静かな動作で傘をたたんで軒下に入ってくる。ノーズの鋭い眼光は、紫の双眸にいともたやすく受け止められてしまった。
「ずいぶん遅い帰りだったね」
微笑みかけられると、下がり気味の目元も相まって、善人っぷりが増して見える。
エルヴァにいた頃、ディートハルトが下級士官に話しかける時の表情にそっくりだった。俺は今、あんたにそんな顔をさせるような状態に見えるのかと、苛立ちが募る。
許可を得てもいないくせに、隣に腰を下ろすと、ディートハルトはシャツの袖をまくり始めた。ベンチの端に立てかけられた傘からは水が滴り、小さな水たまりを作っている。
「誰に聞いた」
ノーズが低い声で問うと、ディートハルトは勤務先の木工所の社長の名前を口にした。
あのジジイ、と悪態をついたが、言っても詮無いことだ。
一応世話になっている相手だし、逆らって仕事をクビになりたくない。無一文で地べたを這いずり回るような生活はもう懲り懲りだ。
ディートハルトはノーズとの間に置かれた煙草を取って、口に咥えると火を灯した。
「あんた吸えるのかよ」
会話をするつもりはなかったのだが、煙草を口に運ぶまでの動作がやけに板についているので、思わずつっかかっていた。
問われた本人は、ノーズのきつい物言いに怯むでもなく「付き合い程度には」とさらりと答える。本人にそんなつもりはないのだろうが、自分にできないことを簡単にやってのけるディートハルトに無性に苛立った。
「お父様のことは残念だったね」
煙草の煙を吐き出すのと同じ調子で、ディートハルトはそう続けた。
どうせこれも社長から聞いたのだろう。
つい数ヶ月前、遠縁の親戚がノーズを訪ねてきた。開戦前から付き合いはほとんどなかったが、ノーズが復員したと知り、わざわざ父親が戦時中に死んだことを知らせにきたのだ。
実家は空襲で焼け、ノーズは兄弟がいなかったので、戦後の混乱で土地の所有権は有耶無耶になり、復興の過程の区画整理で道路になったそうだ。
「残念なもんか」
ノーズはわざと荒く息を吐いて、ディートハルトがそれ以上何か続けようとするのを遮った。
特に父親の死を悼む言葉は聞きたくなかった。
「空襲警報が出てるのに、家に煙草を取りに戻って死んだんだ。本望だろうよ」
一度は防空壕に行ったというのに、この有様だ。
あまりの呆気なさに、話を聞いた時は肩透かしをくらった気分だった。
あの家でラーディスよりも強い力を振るっていた男は、昔から片時も煙草を手放さなかった。不在の時でも、部屋中に染みついたあのにおいが、いつも敗北の味を思い出させた。
いつか自分の手で、と決めていた男は、煙草なんかに殺されていた。
ディートハルトは何も言わず、ただ雨音だけが静かに響いている。
ノーズは二人の間に置かれていた箱からまた新しい煙草を取り出し、口に咥えた。
燐寸を擦るが火がつかない。一本捨てて、もう一度試すがだめだった。
「来なさい」
見かねたディートハルトが静かに声をかけてくる。
強制力などない淡々とした物言いだったのに、有無を言わせぬ力強さがあった。命令をされたのだと認識した瞬間、うなじのあたりがぴりっとざわつく。
従うのは不服だった。だが逃げることは、それ以上に我慢がならない。
だから今日もわざわざ列車で五時間もかけて、奴の墓に行ったのだ。
母親の墓は街の教会にあったのだが、避難のために集まっていた住民のいる建物ごと、空襲で破壊されたらしかった。
父親の遺体はその他大勢と共に共同墓地に埋葬され、何十人もの中に埋もれるようにして石碑に名前が刻まれていた。
それを目にした時、床から浮いた白い両足が微かに左右に揺れ、天井の梁が軋んだ音をたてる光景を思い出した。
母はついに奴から逃げおおせた。墓の中までは追いかけられなかったのだと理解した時、自分はどうだったのか無性にわからなくなった。
戦前まで揺るぎない存在だった軍が、戦後にすべての力を失ってからは、逃げではなく自分の力で生きるために選んだ道だと思っていた信念さえ揺らいでいた。
馬鹿げた思いを振り切るため、ノーズは石碑の前で煙草に火をつけた。深く煙を吸い込むと、やはり盛大に噎せ返った。
そのまま煙草の先端を父親の名前が刻まれた石碑に押しつけたのは、いつかやり返すと決めていたことの一つだった。他の人間の名前さえ刻まれていなければ、こんなものでは足りなかっただろう。
ノーズは口に咥えた煙草を指で支え、ディートハルトの方へ顔を寄せた。
ディートハルトもまた同じように煙草を指で支えている。互いに一度も目は合わせず、けだるさを覚える生温い空気に包まれながら、煙草の先端を合わせた。
頃合いを見て顔を離す時も、互いを見なかった。ディートハルトは余計なことは言わず、ノーズが横目で窺うと、水たまりにできる雨粒の波紋を眺めているらしかった。
火はうまく移ったらしい。ノーズが息を吸い込んでも、さすがにもう咽せはしなかったが、くらっと目眩に似た感覚に襲われた。それは石碑に煙草を押しつけた時に得られる感覚に近いものがあった。
「こんなものは健康に悪い」
ぼんやりする思考に、ディートハルトの声が染み入るように届いた。
「吸わなくていいならそれに越したことはないさ」
ノーズは煙草の箱を拾い上げ、じっと見つめた。
父親が好んで吸っていた銘柄だ。ノーズは死者の魂など信じはしないが、無様に死んだ父親の墓の前でこれを吸ってやれば、さぞかし痛快だろうと予想していた。だが実際に得られたものは期待にはほど遠い。
ノーズは箱を叩きつけるように、ディートハルトの腿の上に投げつけた。
「全部吸っとけ」
「私はそこまで愛煙家じゃないよ」
突然のノーズの行動にも、ディートハルトは動じなかった。軽く笑い飛ばして、ポケットに煙草の箱を収めている。
不満も漏らさないこの男の傍にいると、生温い空気がさらに湿度を孕んだ気がして不快だった。
結局ノーズは煙草を指で挟んだまま、それ以上は吸わなかった。
ごみはディーがちゃんと拾って帰ります。




