全てが計画されていた
第四章 飢餓
朝が来た。
しかし、それは希望の朝ではなかった。
窓の外では相変わらず雨が降り続いている。台風は去ったが、天候は回復していない。むしろ、鉛色の雲が低く垂れ込め、空全体が暗く重苦しい。
神崎が目を覚ました。見張り役の三人は、一人が寝て二人が起きるというサイクルを交代で回していた。神崎が寝たのは最後であった。リビングのソファで眠っていた彼は、首と肩の激しい痛みに顔をしかめながら起き上がった。たった一時間半の仮眠では、疲労はほとんど回復しない。
黒木と氷室も、寝不足の様子だった。二人とも、目の下には濃いクマができている。顔色は悪く、唇は乾いている。
「異常なしです。顔を洗ってきます」氷室が言い、洗面所へ向かった。
神崎は無言で立ち上がり、体を伸ばす。関節が鳴る。
窓の外を見た。崖の向こうには、何もない。吊り橋は完全に消失していた。
「悪夢ではなかった、ということか……」神崎が呟く。
「はい」黒木が答える。「現実でした」その顔は少し呆然としている。
やがて、他の五人も二階から降りてきた。
森川、若月、白石、赤沢、桑原。
誰もが疲れた顔をしていた。
「おはようございます。見張りありがとうございました」森川が真っ先に小さく挨拶すると、すぐに朝食の準備に取り掛かった。
「皆、眠れたか?」神崎が聞く。
「いいえ」若月が首を振る。「怖くて……ほとんど眠れませんでした」
「俺もだ」桑原が腕を組む。「何度も目が覚めちまった」
白石も頷く。「私も……風の音が気になって」
赤沢だけが、比較的落ち着いているように見えた。しかし、その目に浮かぶ疲労の色までは隠せていない。
「リビングは……異常ありませんでしたか?」白石が尋ねる。
「ああ、何もなかった」神崎が答える。「三人で交代で見張った。外も、中も、静かだった」
「よかった……」若月が安堵の息を吐く。
午前六時半。ダイニングルームに全員が集まった。
テーブルには簡素な朝食が並ぶ。パン半分、卵一つ、コーヒー。
「これが……今日の朝食ですか?」若月が小さく呟く。
「食料を節約する必要があります」森川が説明する。「一日二食、最小限のカロリーで十日間持たせます。今朝はこれで我慢してください。なお、卵はこれで最後になります」
「十日間……足りるんでしょうか?」白石が尋ねる。
「分かりません」森川が答える。「ただ今はこれで進めるしかありません」
誰も文句を言わなかった。食事は静かに進んだ。誰も会話をしない。ただパンを噛み、コーヒーを飲むだけだった。
若月が小さくコーヒーを啜る。その手が震えているのが見えた。
桑原はパンを凝視している。まるで、それを記憶に刻み込もうとするかのように。
赤沢は淡々と食事を進めているが、何度も窓の外を見る。
黒木は疲労のあまり、食欲がないようだった。パンを少しかじっただけで、手を止めた。
氷室も同様だ。コーヒーを口に運ぶが、少しずつしか飲めていない。
白石は丁寧に食べ終えた後で、食事の内容をメモし始めた。
食後、神崎が立ち上がった。
「皆、聞いてくれ」
全員が神崎を見る。
「今日は、昨夜計画した通りに行動する。各チームに分かれて、現状を正確に把握し、生き延びるための方策を考える」
神崎の声には、強い決意が込められていた。
「食料管理チームは森川さんと若月さん。焼け残った食料を正確に記録し、ベストな配給計画を立ててください」
「はい」森川が頷く。
「敷地捜索チームは桑原さん、赤沢さん、黒木さん。森の中を徹底的に調べてください。外部犯の痕跡、隠れ場所、何でもいい。何か見つけてください」
「了解だ」桑原が力強く頷く。
「証拠収集チームは白石さんと氷室さん。犯行現場──吊り橋、食料庫、衛星電話──詳しく調べてください。犯人の手がかりが何かあるはずです」
「承知いたしました」白石が手帳を握りしめる。
「私は各チームをサポートします。午前中は敷地捜索チームと行動を共にします。正午にリビングで集合し、進捗を共有しましょう」
全員が頷いた。
「それと皆、一つ約束して欲しい」神崎はそう言って、あらためて皆を見渡す。
「私たちは仲間だ。たとえ内部に犯人がいると思っていても、今日は絶対に仲間を疑わないこと。それを約束して欲しい」
皆がお互いを見る。
桑原が拳を力強く握る。「おう、もちろんだ。疑い合いを始めたら、それこそ相手の狙い通りだからな」
白石が素直に同意する。「はい、当然です、神崎さん。私たちは仲間ですから」
森川が大きく頷く。「山での生活はチームワークが全てでございます。この八人で一致団結いたしましょう」
全員が顔を見合わせ、大きく頷く。
「では、行動開始です」神崎が一際大きな声で言う。
午前七時、各チームが動き出した。
* * *
【食料管理チーム】
森川と若月は、キッチンへ向かった。
廊下を歩きながら、若月が小さく言う。「森川さん……本当に十日間持つんでしょうか」
「持たせるしかありません」森川はそう答えると、真っすぐ前を向いて歩く。
キッチンに着く。
冷蔵庫の横の棚に、昨夜移動させた食料が整然と並んでいる。しかし、その量はあまりにも少ない。
「改めて正確な量を確認しましょう」森川が若月を見て言う。「記録を始めます」森川が手帳を開く。
二人は一つ一つ確認していく。
「米……五キロ」森川が手帳に記録する。
若月が米袋を持ち上げる。ずっしりと重い。しかし、八人で十日間。一日一人あたり約六十グラム。茶碗半杯にもならない。
「乾燥パスタ……五百グラム入り、十袋。合計五キロ」
若月が棚からパスタを取り出す。
「缶詰……」森川が数える。「四十個。サバ缶が八個、ツナ缶が七個、コーン缶が十二個、トマト缶が十三個」
若月が缶を一つずつ手に取り、確認していく。
「レトルト食品……三十二個。カレーが六個、シチューが十四個、スープが十二個」
「調味料は……」若月が別の棚を見る。「塩、胡椒、醤油、コンソメ……があります」
全てを集計し終えて、森川が深く息を吐く。
「これだけ……ですか?」若月の手が震えた。
「ええ」森川が静かに答える。「これで八人、十日間を乗り切らなければなりません。一人分は一日あたり、米とパスタで百二十五グラム、缶詰〇・五個、レトルト〇・四個程度です」
「それって、全然少ないですよね?」
「……例えば、おにぎり二、三個と缶詰一個食べたら、もうその日は何も食べられないですね」
「それを十日間も……そしてその後は水だけ? 二週間?」若月の目に涙が浮かぶ。今にも大声で泣き出しそうだ。ふるふると身体が震え始める。
森川が若月の肩を掴む。
「若月さん、諦めてはいけません。私たちは生き延びなければならない。そのために、今できることをやるんです」
若月が涙目で頷く。
そして二人は十日間、二十食分の厳密な配給計画を立て始める。
森川が真剣な目で、丁寧に手帳に書き込んでいく。若月はその様子を眺める。
「ある意味、強制的なダイエットですね」若月が自虐的に笑う。
「本当の山籠もりではよくあることです。これで絶対に皆を守ります」
若月が涙を拭いて小さく頷いた。
* * *
【敷地捜索チーム】
「まずは東側から調べよう」神崎が提案した。
神崎、桑原、赤沢、黒木の四人は、レインコートを着て、長靴を履き、森の中を進んでいた。
雨が降り続き、足元はぬかるんでいる。木々の間を縫うように慎重に歩く。
「何か痕跡はねえか?」桑原が周囲を見回す。
足を踏み出すたびに、靴底が泥に吸い込まれる。枝を掻き分け、茂みを覗き込み、一つずつ確認しながら進む。
「足跡……」赤沢が地面にしゃがみ込む。「雨で流されて、何も残っておりませんね」
桑原が太い木の幹に手を当て、裏側を確認する。しかし、何もない。
「テントなど人工物の影も見えませんね」黒木が双眼鏡を覗く。「森だけです」
湿った落ち葉が足元で音を立てる。空気は冷たく、薄暗い。四人は息を切らしながら、さらに奥へと進んだ。
赤沢が立ち止まり、ある茂みを指差す。「あそこ、確認いたしましょう」
四人で茂みに近づき、枝を押し広げる。中は空洞になっているが、人が隠れた形跡はない。湿った枯れ葉が積もり、蜘蛛の巣が張っているだけだ。
「こっちもです」黒木が倒木を見つけ、その下を覗き込む。腐った木の匂いが鼻を突く。しかし、そこにも何もない。
一時間半後、赤沢が立ち止まる。額には汗が滲み、息が荒い。「ここまでは何もありませんわね」
「ああ、引き続き調べよう」神崎が言う。その声には疲労が滲んでいた。
さらに進む。斜面を登り、小さな沢を越え、倒木を乗り越える。レインコートは乱れ始め、服のところどころに泥がつく。長靴の中に水が入り、足が冷える。それでも怪しいところを見つけては確認する。
そうしてさらに三時間をかけて東側を捜索した。しかし、何もなかった。
人の痕跡も、隠れ場所も、不審な物も。
鬱蒼とした森が、ただただ広がっているだけだった。
「くそっ……」桑原が木を拳で叩く。その音が静かな森に響いた。
黒木が双眼鏡を下ろし、深く息を吐く。「東側は……もう全て見たと思います。何もありませんね」
赤沢が腕時計を確認する。「もう正午近くですわ」
神崎が言う。「時間だ。一旦戻ろう」
四人は山荘へと戻り始めた。
* * *
【証拠収集チーム】
白石と氷室は、吊り橋の崩落現場へ向かった。
崖の縁に立ち、谷底を覗き込む。
深い谷。底は霧がかかって見えない。
「ワイヤーが……」白石がスマートフォンのカメラで撮影する。「完全に切断されています」
氷室が切断面を観察する。しゃがみ込み、ルーペで詳しく見る。それから、ワイヤーを固定していた崖側のアンカーへと目を移した。
「綺麗な切り口ですね。刃物で断たれています」氷室がアンカーの根元を指差す。「そして、ここを見てください。留め具の残骸と、バッテリーの焦げ跡。大型のワイヤーカッターが、ワイヤーを咥えたまま固定されていたんだと思います」
「いつ切られたんでしょう。私たち、バスで渡りましたよね」白石が尋ねる。
「切れたのは昨夜の夕食中、あの大きな音がした時です」氷室が答える。「でも、取り付けたのはもっと前。こんな大掛かりな工具、私たちは誰も持ち込んでいません。到着する前に据え付けて、時刻が来たら刃が閉じるようにしてあった。──時限式です」
白石が手帳に記録する。
氷室が立ち上がる。「次は食料庫を見ましょう」
* * *
ぬかるんだ道を歩き、二人は食料庫に着いた。
焼け跡を詳しく調べる。
白石が写真を撮り、氷室が床や壁を観察する。
「着火装置の痕跡……」氷室が床の一角を指差す。「ここです」
白石が近づく。
床には、焼け焦げた金属片と溶けたプラスチックの残骸があった。
「タイマー式でしょうか?」白石が尋ねる。
「はい。これも同じ。私たちが夕食を食べている時間帯を狙ったものですね」
白石がメモを取る。
「計画的ですね……」白石が呟く。
「ええ。全てが計画されていた」氷室が頷く。




