絶対に大丈夫だ。
第三章 疑心
神崎、森川、黒木、桑原は山荘の中を隅から隅まで捜索した。赤沢、氷室、白石、若月はリビングで肩を寄せ合って待った。やがて、誰も潜んでいないことを確認して、男性四人が戻ってきた。
戸締りも済み、山荘の中の安全はひとまず確保された。
「誰だ! 誰がこんな真似をした!」
黒木の怒鳴り声が、山荘に響く。
「落ち着いていただけますか」赤沢が冷静な声で割り込む。「パニックに陥るのは相手の思惑通り、ということになりますわ」
「相手? 相手って誰のことだ?」黒木が詰め寄る。「ここにいるのは我々八人だけではないか!?」
「そうとは限りません」氷室が穏やかに言う。「吊り橋が落ちる前に、誰かが潜んでいた可能性もあるのではないでしょうか──」
「いや」森川が首を振る。「ここのセキュリティは厳重です。誰かが事前に入ることなど……」
「じゃあ」若月の声が震える。「つまり、この中の誰かが……」
その言葉に、全員の視線が交錯した。
疑念と怒り、そして恐怖。
「犯人……この中にいるってこと……?」若月が震える。
八人の間に、目に見えない壁ができ始めた。
突然、全ての照明が消えた。
ひっ、と白石が声を上げる。
「停電?」氷室が驚く。
暗闇の中、暖炉の炎が唯一の光源となった。幸いにも皆の顔は見える。
「発電機のトラブルでございましょうか」森川がまた懐中電灯を取り出す。「確認してまいります」
「一人では危険だ」桑原が立ち上がる。「俺も行く」
「私も」神崎が続く。
三人がキッチン奥の発電機室へ向かう。残された五人は、暖炉の周りに固まった。
「やばい、怖い……」若月が呟く。
「大丈夫ですよ」氷室が優しく肩を抱く。「きっと、すぐに電気は戻るわ」しかし、その声は微かに震えている。
白石は、手帳に何かを書き込んでいた。
「何を書いていらっしゃるのですか?」赤沢が尋ねる。
「時系列の記録です」白石が答える。「後で警察が来たときのために、残しておきます」ただその手はずっと震えている。
十分後、照明が戻った。
森川、桑原、神崎が戻ってくる。
「発電機は正常でした」森川が報告する。「ブレーカーが落ちていただけです」
「誰かが意図的に……でしょうか?」氷室が尋ねる。
「……分かりかねます」森川が首を振る。
静寂が、重く八人にのしかかった。
暖炉の炎が揺らぐ。
時計の針が静かに時を刻む。
八人の呼吸音だけが、リビングに響いていた。誰もが隣にいる人間を信じられなくなっていた。
午後十時。
静寂のまま三十分以上が経過した。
外では台風が激しさを増し、窓を叩く雨音が絶え間なく響いている。風が建物全体を揺らし、まるで山荘そのものが悲鳴を上げているようだった。
「もう、無理……」若月が震える声で呟く。「私、もう無理よ……」
彼女の言葉が引き金になったかのように、場の空気がさらに重く沈んでいく。
白石が手帳を床に落とした。ページがめくれ、几帳面な文字が暖炉の光に照らされる。白石は呆然としたまま拾おうとしない。
黒木は立ち上がって壁に歩み寄り、拳で叩いた。さっきからの怒りが消えていない様子だ。
「くそっ! くそっ!」
彼の怒りと恐怖が混ざり合った声が、リビングに響く。
「このままでは全員死ぬぞ! 分かっているのか!? 食料も尽きて、外にも出られない! 誰かが、この中の誰かが──」
「やめろ!」神崎の強い声が、黒木の言葉を遮った。
全員の視線が神崎に集まる。
神崎は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして、一人ひとりの顔を順番に見つめる。
「このままでは、全員が狂ってしまう」
神崎の声は、嵐の音が響く山荘の中でも、不思議と通った。
「いいか、みんな。私たちは今、確かに最悪の状況にいる。吊り橋は落ち、食料は焼かれ、連絡手段も断たれた」
若月が小さく悲鳴を上げる。
「でも」神崎が続ける。「だからこそ、冷静にならなければならない。パニックになれば、私たちは判断を誤る。そして判断を誤れば……」彼は言葉を切った。しかし、その先は言わずとも全員が理解した。
「神崎さんの言う通りです」
赤沢が立ち上がった。彼女の表情からは、動揺が消え始めており、冷静に状況を把握しようとする意志が見て取れた。
「私たちが今すべきことは、恐怖や不安、怒りといった感情に流されずに、冷静に事実を見つめることですわ。感情に支配されていては、何も見えなくなりますわ」
「でも……」白石が震える声で言う。「でも、どうやって冷静になれって言うんですか? この状況で?」
「深呼吸です」氷室が口を開いた。
「まず、深呼吸をして。ゆっくりと、息を吸って、吐いて。心拍数を落ち着かせるの」
氷室自身が、手本を見せるように深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「騙されたと思って、やってみて」
若月が、おずおずと氷室の真似をする。
息を吸い、吐く。もう一度、吸って、吐く。
白石も目を閉じて深呼吸を始めた。
やがて、桑原も、黒木も、森川も、それぞれが深呼吸を始める。
リビングに、静かな呼吸の音だけが満ちていく。
一分が過ぎ、二分が過ぎ、三分が過ぎた。
少しずつ、張り詰めたリビングの空気が落ち着いていく。
神崎がもう一度全員を見渡す。皆、さっきまでの恐怖や怒りに囚われていた顔に、少しずつ血の気が戻り始めていた。
「どうだ? 少しは、落ち着いたか?」神崎が穏やかに尋ねる。
若月は小さく頷いた。白石は手帳を拾った。黒木は拳を開き、深く息を吐いた。
「ありがとうございます、氷室さん」若月が小さな声で言う。
氷室が優しく微笑む。
「いいえ。私も怖いのは同じよ。でも、こういうときこそ、お互いに支え合わないと」
黒木が口を開く。「でも神崎さん、これからどうしましょうか。我々の状況は最悪です」
「そうだ、最悪だ。でも、こういうときほど団結しないといけない。まずは皆で現状を認識して、それからすべきことを整理したい」
「いつものようにホワイトボードに書き出しますか」氷室が言う。
「ああ、そうだな。いつも職場でやっているように、皆で話し合いながら決めていこう」
氷室がリビングの奥にあったホワイトボードとマーカーを取ってきた。
「氷室さん、ありがとう。では、一つ一つ整理しよう。いつものように」神崎は、いつものように、という言葉の語気を強める。皆を冷静にさせようという意志が感じられる。
「まず、現状を正確に把握する。そして、生き延びるための方策を考える。最後に……犯人を見つけ出す」
「犯人……」黒木が突然立ち上がった。「犯人は誰だ! 一体誰がこんなことを!」
黒木の声が、リビングに響く。せっかく落ち着いたのに犯人という言葉が彼の感情を刺激した。
「黒木さん、落ち着いて──」赤沢が言いかける。
「落ち着いていられるか!」黒木が叫ぶ。「誰かがこの中で我々を殺そうとしているのだ! 誰なんだ! お前か? お前か? それとも──」黒木は手当たり次第に詰め寄る。
「黒木」
神崎の低い声が、黒木の言葉を遮った。黒木の前に立ち、彼の肩に手を置く。
「気持ちは分かる。私も同じだ。ただ、今ここで犯人探しに躍起になっても、何も見えてこない」
「なんだと──」
「まず、順を追って現状を分析しよう」神崎が続ける。「そして、私たちがこれからやるべきことを整理する。そうすれば、おのずと犯人の姿も見えてくるはずだ」
黒木が神崎を睨む。神崎は強い眼差しで見つめ返す。
「証拠もなく誰かを疑えば、私たちはバラバラになる」神崎が静かに力強く言う。「それこそ、犯人の思うつぼだ」
黒木の目が泳ぎ、そして落ち着き始める。
「……すまない」黒木が深く息を吐き、腰を下ろした。
「いいえ、当然の反応ですわ」赤沢が言う。「でも、神崎さんの言う通り。まずは事実を整理することから始めましょう」
「そうですね」白石が頷いて手帳を開く。「一つ一つ、丁寧に整理していきましょう」
桑原も頷く。「それが、犯人を見つける一番の近道ってもんだ」
「私も賛成です」氷室が言う。若月が小さく頷き、森川も同意する。
八人の視線が、赤沢が立つホワイトボードに集まった。書記をするのはいつも通り赤沢だ。
「では、順番に整理していこう」神崎が始める。
「まず第一に、現在の状況について……外との連絡手段は?」
「完全に断たれております」森川が答える。「吊り橋は崩落、携帯電話の電波は届かず、衛星電話も破壊されました」
赤沢がホワイトボードに大きく書き込む。
『外部連絡:不可能』
「食料は?」
「食料庫が焼かれました」森川が続ける。「残っているのは……おそらく一週間分もないでしょう」
『食料:一週間分以下』
「救助の見込みは?」
「三週間のプログラムでございますから」森川が答える。「最低でも三週間は、外部が異変に気づくことはないでしょう」
『救助:最短で三週間後』
ホワイトボードに書かれた三行の文字が、八人の置かれた状況を冷徹に物語っていた。
「つまり……」白石が呟く。「救助が来る前に、食料が尽きる……」
「そういうことになりますわ」赤沢が頷く。
再び重い沈黙がのしかかる。ただ今度は、さっきまでのパニックとは違っていた。恐怖は確かにある。しかし、それと同時に、冷静に状況を見つめようとする意志も、そこにはあった。
「幸いなことに水は十分ございます。水だけあれば二週間は生き延びられるというのは、山では常識でございます」
皆、置かれた状況の深刻さを理解している中、森川のその言葉を真剣に受け止めた。そして生き延びられるという言葉が、気持ちを少しだけ楽にした。
「第二に」赤沢がペンを持ち直す。「犯人について」
その一言が、八人の空気を張り詰めさせた。
「犯人は、外部にいる可能性は?」神崎が尋ねる。
森川が深く考え込む。「確かに……完全には否定できません」
「どういうことですか?」白石が身を乗り出す。
「この施設は広大でございます」森川が説明する。「敷地面積はおよそ東京ドーム一個分。ほとんどが森で覆われております」
「東京ドーム一個分……マジで」若月が驚く。
「本館──この山荘はセキュリティが厳重で、先ほど申し上げました通り、事前に侵入するのは不可能でございます」森川が続ける。「しかし、食料庫と管理棟は……今思えばセキュリティが緩い。事前に侵入して細工をすることは、不可能ではございません」
「つまり」赤沢が確認する。「誰かが事前にこの施設に潜入し、食料庫に放火装置を設置し、管理棟の衛星電話を破壊できた?」
「はい、理論上は可能でございます」森川が頷く。「そして、この広大な森の中に隠れていれば、私たちが探し出すのは困難でございます。……しかし、誰かが潜んでいるとしても、いったいなぜそんなことをするのかが分かりません」
場が少し静まる。
黒木が腕を組んで言う。「恨みか。金か。狂気か。理由は分からないが、誰かが我々を殺そうとしてやがる」
「つまり」赤沢が全員を見回す。「可能性は二つ。第一、犯人はこの八人の中にいる。第二、外部の誰かがこの森に潜んでいる」
「外部犯の可能性もあるなら、森の中を捜索する必要があるな」桑原が言う。
「でも」若月が震える声で言う。「なぜこんなことを……私たち、何もしていないのに……」
「何もしていない」黒木がその言葉を繰り返す。「本当にそう言い切れるか、自信がないな」
若月が言葉に詰まる。
氷室が話題を切り替えるように言う。「そういえば、食料庫にあったあの文字は、私たちを混乱させるための演出かもしれません」
「演出?」黒木が聞き返す。
「私たちの恐怖心を煽るのです」氷室が説明する。「あんな文字を見て、動揺しない人はいません。そうして私たちをパニックにさせて、冷静な行動をとれなくさせ、その隙に犯行に及ぶ」
「確かに……」白石が頷く。
氷室が続けた。「犯人は別にあの文字を書く必要はない。書かずに殺すという選択肢もあったはず。なのに、敢えて書いたのはそのためだと思います」
「その通りだ」神崎が言う。「パニックになれば、そこにつけ込まれる。これから生き残るためにも、落ち着いて一致団結しよう」そう言って皆を見渡す。
皆、まばらではあったものの、力強く、あるいは弱々しく、頷いた。
神崎は静かに頷き、小さく溜息をついた。そして、立ち上がり、窓の外を見た。接近する台風の雨が、激しく窓を叩いている。
「じゃあ、私たちはどうすればいいの?」若月が尋ねる。
神崎が振り返る。「それをこれから皆で話し合いたい。明日からの行動計画を立てるんだ」
「行動計画……」黒木が呟く。
「そうだ」神崎が頷く。「赤沢さん、リストアップしていきたいのだが書いてもらえるか?」
赤沢がホワイトボードの文字を一度消し、マーカーを手に取り、書き始める。
『明日の行動計画』
「第一に、食料の管理」神崎が言う。「森川さん、厳密な配給計画を立ててください」
「分かりました」森川が頷く。「一日二食、最小限のカロリーで十日は持たせます」
赤沢が書き込む。
『①食料管理:一日二食、十日間分の配給計画』
「第二に、敷地内の捜索」桑原が提案する。「外部犯の可能性がある以上、森の中を徹底的に調べる必要があるぜ」
「そうだな」神崎が同意する。「東京ドーム一個分といっても、組織的に捜索すれば一日、もしくは二日で回れるはずだ」
「チームを組みましょう」赤沢が言う。「二人もしくは三人一組で、常に共同で行動いたしましょう」
『②敷地捜索:チームで森を徹底調査』
「第三に、証拠の収集」白石が手帳を見ながら言う。「吊り橋の崩落現場、食料庫の放火跡、衛星電話の破壊状況。全てを記録しましょう」
「それは重要ですわね」赤沢が頷く。「犯人の手口が分かれば、何か見えてくるかもしれませんね。それに後で警察にお見せするときに重要な資料になりますわ」
『③証拠収集:犯行現場の詳細記録と分析』
「第四に、安全の確保」氷室が言う。「夜間は全員で個室に閉じこもるのではなく、見張りをつけましょう」
「そうだな」神崎が頷く。「外部犯は夜間に侵入してくる可能性が高い。交代で見張ろう」
『④安全確保:夜間は交代制の見張りをする』
神崎が続ける。「夜中に外部犯が侵入してくるとしたら一階以外ありえない。見晴らしもいいのでリビングにいれば見張りは十分だろう。ただ一人では危ないので、二人、いや安全をみて三人にしよう」森川も頷いて同意する。
赤沢がペンを置き、ホワイトボードを見つめる。
四つのタスクが、明確に列挙されていた。
「これが、私たちがやるべきことですわ」赤沢が全員を見回す。
神崎が、よし、と頷き、皆を見て言う。「分担を決めよう」
「食料管理は先ほどの通り、私が担当します」森川が言う。
「証拠収集は、私が担当します」白石が手帳を握りしめる。
「俺は敷地捜索だ」桑原が拳を握る。「森の中を隅々まで調べてやる」
「私も捜索に参加しますわ」赤沢が言う。
「私も捜索チームに加わります」黒木が手を挙げる。「絶対に犯人を見つけ出してやる」
「私は……」若月が小さく言う。「皆さんの手伝いを……」
「若月さんは森川さんと一緒に食料管理をお願いできますか」氷室が提案する。「私は白石さんと証拠収集をします」
「では、それでいこう。私は全体の統括をし、各チームの進捗を確認しながらサポートに回る」神崎がそう言い、全員が頷く。
「そして早速、今夜、リビングに残って見張りをする三人は、私と……今私のそばにいる二人、黒木さんと氷室さんにしよう。明日の三人はまた健康状態等も考慮して別途決める。異論はないか?」
誰も反対しなかった。ただ若月だけが、見張りという言葉に一瞬身を硬くして、それから小さく頷いた。
「それでは、明日の動きを確認いたしましょう」赤沢が整理する。
「午前六時半に朝食、午前七時から各チームが活動開始。正午に一度リビングに集合し、進捗を報告。午後も活動を続け、午後六時に終了。夕食後、全員でリビングに集まり、情報を共有し、また明日以降の計画を立てる」
「ありがとう、これで行動計画が固まったな」神崎がそう言って続ける。
「明日から、私たちは本気で戦う。犯人を見つけ出し、ここから生きて帰るために」
そして神崎は笑顔を見せて言う。
「みんな、安心してくれ。私がいる。絶対に大丈夫だ。全員で生きて帰るぞ」
神崎が力強く宣言した。
その自信溢れる言葉が場の緊張を少し和らげた。
暖炉の炎が、八人の顔を照らす。
恐怖は消えていない。疑念も、不安も、まだそこにある。
しかし、極度のパニックから、少しずつ理性が戻り始めていた。




