轟音
* * *
午後三時。各自荷物を部屋に運び終え、一同はリビングに集まった。森川がコーヒーを淹れ、全員に配る。
「それでは、この山荘での過ごし方をご案内させていただきます」森川が続けて資料を配布する。
そのとき突然、窓の外で風が強くなった。
「来る前の天気予報では、台風が接近しているとのことでした」森川が説明する。「ただ、この施設は台風にも十分耐えられる設計でございますし、吊り橋も特別に補強していますから、どうぞご安心くださいませ」
桑原が窓の外を見つめる。空は既に灰色に染まり始めていた。「こいつは……本格的な台風になりそうだな」
「ええ」森川が頷く。「しばらく雨が続きそうです。ですが、それもまた自然の一部。三週間ありますので、晴れる日も来るでしょう。どちらにしても都会では決して経験できない、貴重なご体験になるはずです」
そして森川は山荘での過ごし方を説明した。
朝型の生活を取り入れ、朝食は朝六時半、昼食は正午、夕食は午後六時。夜は早めの就寝。デジタルデトックスにより、日が沈むと自然と眠くなるので、夜九時には寝る人が多い。睡眠時間も二時間程度、長くなる傾向にあるとのこと。
読書には十分すぎる量の本があり、今年のベストセラーの新書も多数置いてある。身体は動かした方がいいので、ストレッチや山の散策、三階のジムエリアを活用して欲しいとのこと。他にはボードゲームやトランプなど。また清掃員はいないので、自室や共有エリア含めてきちんと自分で清掃をするようにとのこと。
基本的に食事の時間以外は自由行動。ただし、夕食以降は外出禁止。外出したい場合は森川へ。パソコンや携帯も各自で保管はするものの、ゲームや動画視聴などのデジタル関連は一切慎むこと。日記やカメラ程度の利用に留める。一方で三週間の長丁場であり、心身に影響がある場合などにはすぐに森川に伝えるようにとのことであった。
それから各自、それぞれの時間を過ごす。
神崎は早速とばかりに、スポーツウェアに着替えて、三階に行きストレッチを始める。そして、慣れた様子でダンベルを持ち上げた。四十歳を過ぎてから七年間、週二回の筋トレを欠かしたことがない。気力と体力は同じ。気力をつけるにも体力が必要。それが彼の一つの信念であり、今も貫き続けている。
白石は自室の机に座り、手帳を開いていた。前夜祭で関係者たちと交わした会話の中で、神崎が語っていたキーフレーズを書き留めている。「持続可能性は数字ではなく信頼」「真の豊かさは時間の使い方にあるかもしれない」──彼女のペンが滑らかに動く。書き終えると、満足げに微笑んで、ページを撫でた。「素敵」と小さな声で呟いた。
桑原は二階の喫煙所に出ていた。煙草に火を付ける。山の冷たい空気の中で、煙草の先だけが暖かい。「医者には止められているけどな。こいつが吸えない生活なんてまっぴらさ」そう言って、笑う。一本目を吸い終わるとすぐさま二本目を取り出した。
赤沢は瞑想室にいた。畳の上に正座し、目を閉じている。思念が次々と頭をよぎる。契約書、訴訟、債権、配当。彼女は、それらを一つずつ、丁寧に思い返して記憶を新たにしていった。瞑想ではなく、頭の中の情報を整理する時間だった。ただ彼女にとっては、それが最も心が落ち着く時間だった。
黒木は三階の図書室にいた。小さな黒い手帳を開く。中には、丁寧な字で名前のリストが並んでいる。「鈴木○雄 二〇二✕年七月 退職金見合いの融資希望 却下」「田中○○子 二〇二✕年九月 住宅ローン延長申込 許可」「山田○郎 二〇二✕年十月 事業融資申請 検討中」。手帳を閉じ、本棚の哲学書のセクションを丁寧に眺めて一冊抜き出した。カントの古い『道徳形而上学原論』。それをアームチェアに持ち込んで、ページをめくり始めた。「定言命法」の章に何度も静かに頷いた。
氷室はリビングのインテリアを興味深そうに見ていた。猟銃を手に取り、銃身が鉛で塞がれていて完全に使えないことを確認してから、構えてみる。ずっしりと重い。クマを仕留めるための、くくり罠の模型も手に取る。「昔の人はこの罠にかけるために、どうやってクマをおびき寄せたのかな」と呟いた。
若月は自室の窓辺にいた。いつも肌身離さないスマートフォンも、今は机の中にしまっている。「フォロワーさん達、今、若月さんは山荘に閉じ込められたぞ」そう言って一人、悦に入る。風に煽られ、紅葉が枝から離れて舞っている。「綺麗……」と呟いた。
森川一人だけが、慌ただしかった。ダイニングで食材を確認し、テーブルクロスを敷き、リビングの暖炉に薪を補充する。「全てはお客様のため」──それが、彼の信念だった。
──時間が、ゆっくりと流れていった。
* * *
午後六時。夕食の時間となった。
ダイニングルームの長テーブルに、豪華な料理が並ぶ。地元の食材を使った和洋折衷のコース料理。前菜からスープ、魚料理、肉料理、デザートまで。ワインも用意されていた。森川が手慣れた様子でサーブする。
「素晴らしい料理ですわ」赤沢が感嘆する。
「ありがとうございます。初日でございますので、メニューを多めにしております。皆様のお口に合えば何よりでございます」森川が畏まった笑顔で言う。
神崎がグラスを掲げて皆を見渡す。「それでは、これから三週間、この山荘の中で、お互いをより深く知り合い、素晴らしい時間を過ごしましょう。乾杯」
「乾杯」八人のグラスが触れ合う。
会話は弾んだ。神崎が投資哲学を語り、黒木が金融市場の機能を解説し、白石が会計の観点から企業価値を論じる。赤沢は法律の話を、桑原はジャーナリストとしての経験を、若月は若者世代の価値観を語った。氷室は時折鋭い質問を挟み、森川は山の話で場を和ませた。
携帯はオフ。テレビもない。
この八人を邪魔するものは何もない。その環境が不思議と場を盛り上げ、八人の距離が縮まった気がした。
このグリーンライフサミットは成功する、そういう予感を抱かせるものであった。
しかし、午後八時。デザートが運ばれてきた頃、それは起こった。
轟音──突然、腹の底を突き上げるような巨大な衝撃音が轟いた。
山荘全体が揺れる。テーブルの上で、誰かのワイングラスが倒れた。赤い液体が白いクロスに広がっていく。
「地震か?」神崎が立ち上がる。
さらなる衝撃音が、追い打ちをかけるように連続して響き渡った。
揺れは収まった。
地震ではなく、何か巨大な構造物が次々と谷底へ落ちていくような音だった。悪い予感が全員の脳裏をよぎる。
「この音は、まさか……外を確認します」森川が懐中電灯を手に玄関を出る。
全員がその後を追った。
外に出ると、風は既に嵐と呼べるほど強くなっていた。木々が激しく揺れている。
あたりは真っ暗で、懐中電灯だけが道を照らす。八人は身を寄せ合ってゆっくりと歩く。
森川が吊り橋のある方向に懐中電灯を向ける。そして──
「そんな……」
森川の声が震えた。全員が、その光の先を見つめた。
吊り橋がない。
「嘘だろ……」桑原が呟く。
森川が走り出す。崖の縁まで行き、下を覗き込む。
「落ちてる……」
吊り橋が完全に崩落していた。ワイヤーは切断され、足場が谷底に消えている。
「台風で……?」白石が震える声で尋ねる。
「いや」森川が首を振る。「おかしい。あの橋は台風程度では落ちない。定期点検も受けていたし、つい三日前に確認したばかりだ」
「えー、じゃあなんで」若月の顔が青ざめている。
そのとき、別の方向から、赤い光が見えた。
「あれは……!」
氷室が指差す先──山荘の裏手から炎が上がっていた。
「火事だ!」神崎が大声を出す。
全員で山荘の裏手に向かって全力で走る。
「食料庫が──!」森川が叫ぶ。
山荘から少し離れた食料庫が燃えている。
扉は開け放たれ、中の棚が炎に包まれている。
「早く消火しないと! 急げ!」黒木が叫ぶ。
森川が消火器を持ってきて、必死に炎を抑えていく。
他の者も近くにあったバケツで水を運び、協力して消火に当たった。
──三十分後、鎮火した。
森川が食料の状態を確認していく。
「これはひどい……半分以上……燃えてしまった」森川が呆然と呟く。「残っているのは……おそらく多くても一週間分……」
食料庫にあるのは、焦げた米袋、炭化した缶詰、溶けて固まった保存食のパッケージ。棚には黒い灰だけが残っている。冷凍庫は半焼しており、中に食べられそうなものは何一つない。隅の方に保管してあった乾燥パスタやレトルト食品、米や缶詰などは無事であったが、それが全てだった。
「一週間?」白石の声が裏返る。「三週間分あったのではないんですか?」
「そうです」森川が頷く。「しかし……これでは……」
皆が焼けた食料を眺めたまま、言葉を失っていた。
そのとき──
「おいおい、なんだ……」桑原が驚きながら小さく声を上げた。
食料庫の奥の壁を指差している。
全員がそちらを見る。
煤けた壁に、赤いスプレーで大きく書かれた文字。ところどころ切れているがはっきりと読める。
『皆殺しにしてやる 一人ずつ 必ず』
八人の中で時が止まった。誰も声を発することができなかった。
ただ、不気味に壁に浮かぶ、その血のような赤い文字を、見つめた。
若月が後ずさり、壁に背をつけた。「嘘……嘘よ……」震える声が漏れる。
白石の顔がみるみる青ざめた。
黒木が拳を握りしめた。「いったい、誰がこんなことをしやがった……」驚きと怒りが入り混じった声を出した。
赤沢は一歩前に出て、壁を詳しく観察した。「スプレーの跡……最近書かれたものですわね。端がまだ乾ききっておりません」その声は微かに震えていた。
氷室は大きく目を見開き、唖然としている。
森川が額の汗を拭った。「こんなこと……私は知りません。本当に……」
神崎が怒りを滲ませる。「皆殺しにする……誰がこんなことを……」
ガサッ。
外で音がした。全員がびくついて後ろを振り返る。
懐中電灯を当てる。
風で飛ばされたバケツがある。バケツが草木に当たっただけの音だったようだ。
しかし、それで安心はできなかった。込み上げてくる恐怖心が、場を支配しようとしていた。
「早く救助を呼びましょうよ!」若月が震える声で言う。
一刻も早くここから抜け出さねば。誰もがその考えに頷いた。
「そうだ」神崎が言う。主催者としての責任感が彼を駆り立てているようだった。「森川さん、管理棟へ連れて行ってくれ。グリーンライフサミットは中止、今すぐ外に連絡して助けを呼ぼう」
「私も同行いたしますわ」赤沢も歩き出す。
森川と神崎、そして赤沢の三人が二十五メートルほど先の管理棟へ向かった。
いつのまにか雨が降り始めている。残りの五人は、食料庫の前で、小さな明かりの周りに集まって待つ。固唾を呑んで三人の背中を見つめる。若月が両手を前に組んでお祈りをする。
「なんてことだ……」森川が言う。
赤沢は衛星電話を見つめたまま、動かなくなった。
神崎は壁に手をつき、深く息を吐いた。「みんなこっちに来てくれ」と手を振り呼びかける。
残りの五人が管理棟へ駆けつける。
管理室の机の上に、衛星電話が置かれていた。
しかし──
「壊されている……」白石が呟く。
衛星電話のケースは割られ、内部の基板が破壊されている。修理不可能なほど、徹底的に。
「嘘……嘘よ……」若月の声が震える。「これじゃあ、誰も外と連絡が取れないってこと? この衛星電話しかないの?」
「はい。これ以外の通信手段はございません……」森川も半分茫然としている。
吊り橋が落ち、食料が燃やされ、衛星電話が破壊され、この陸の孤島に閉じ込められた。そして、殺意を持つ誰かがいる。
突然起こった状況の変化。自分たちの置かれた事態を理解しきれずに、しばらく皆は立ち尽くした。
雨に濡れて、白石がくしゃみをする。
「とにかく、山荘に戻ろう」神崎が言う。
赤沢が頷く。「そうですわね。このまま外にいても風邪を引いてしまいますわ」
そうして全員が、一旦山荘に戻った。




