標高千五百メートル、唯一の連絡路
第二章 孤島
翌朝八時、ホテルのエントランスに八人が集まった。
「それでは、皆様をご案内させていただきます」
森川が声をかける。「所要時間は約四時間の予定でございます。お疲れの際は、いつでもお声がけくださいませ」
八人は一台の大型バスに乗り込んだ。車内は豪華な革張りのシートが並び、木目調の内装が施されていた。
都心の喧騒を離れるように高速道路へと向かう。窓の外の景色は徐々に緑色になっていく。
「いよいよ始まりますね。三週間のサミットが。この日を楽しみにしておりました」黒木が意気揚々と言う。
「ありがとうございます。必ずや皆様にとって有意義なご経験となりますよう、全力で努めさせていただきます」森川が力を込めて言う。その口調には、この仕事への誇りと責任感が宿っていた。
「神崎さーん、今回の企画を受けていただきありがとうございました」若月が神崎を見てお辞儀をする。
「いえいえ、ちょうどこうした機会が欲しかったのです。私の方こそ感謝しております」そう言って神崎は続ける。
「金融業を営む我々は、現代人の中でも特に情報過多です。世界中の最新情報を常に取り込み続けねばならない。そして市場価格や経済統計、プレスリリースを見ては一喜一憂する」
神崎は窓の外を見る。「ですが、こうして大自然、山の中に入ると、人間の本能が原始時代を思い出すのか──自然と心が落ち着く。三週間のデジタルデトックスは、きっと我々に新たな気づきをもたらしてくれるはずです」
白石が通路を挟んだ席から手帳のページをめくりながら同意する。「確かに、日々の業務に追われていると、目の前の仕事を回すことだけに囚われてしまい、投資の本質を見失いがちですね」タブレットではなく新品の手帳を持ってきたようだ。
「数字だけでなく、投資先企業の理念や社会的意義を改めて考える機会になりそうですよね」そう言って氷室が微笑む。「時間も沢山ありますので、じっくりと皆さんとそういった会話もさせていただければと思います」
「山籠もりっつっても、相当な高級リゾート施設だと聞いてるぜ」桑原が呟く。「オールインクルーシブで三週間滞在、ときた。正直なところ、どこまでが『山籠もり』でどこからが『バカンス』なのか、怪しいもんだぜ」
「桑原さんは、いつでも斜に構えていますね」氷室が苦笑いを浮かべる。「でも確かに、SNS映えする要素も、きちんと計算されているのでしょうね」
「法的には誇大広告にあたりませんわ。高級リゾート施設であろうと、山籠もりは山籠もりです。それに参加者の安全確保および適切な開示──両方ともしっかりと履行されておりますもの。コンプライアンスの鑑かと」赤沢が笑顔で言う。
若月が森川に話しかける。「森川さんは長年、山岳ガイドをされているんですよね」
「はい、もう二十年以上になります。山に育てていただいた身でございます」森川が実直に答える。「デジタルデトックスにアテンドし始めたのはここ二年でございます。これから向かう施設は、今年で三回目です。ただ、今回のような皆様が注目される大きな企業イベントとしては初めてでして、少し緊張しております」
「私も緊張しています」白石が会話に加わる。「一週間なら経験したことがありますが、三週間もデジタルを断つなんて、初めてです」
神崎が微笑む。「本当の豊かさとは何か。それを問い直すのに必要な時間と判断しています。かく言う私も、三週間は初めてですね」
その後、軽食休憩を取りにサービスエリアに寄った。
バスを降りたところで、子供が迷子になったらしく泣いていた。
神崎は素通りした。
赤沢も素通りした。
白石も、まるで子供なんかそこにいないかのように、すぐそばを横切った。
若月が駆け寄り、話しかける。
「あっららー、お嬢ちゃん、迷子になっちゃったのかな、大丈夫? 一緒にパパとママを探しに行こう!」
黒木も声をかける。「お嬢ちゃん、大丈夫だ。お父さんとお母さんを見つけるよ」
氷室は少し離れたところから、おやおや、というような表情を浮かべた。
森川は真っ先にサービスセンターへ向かい、事情を話す。
桑原はその様子を後ろでじっと見ていた。
やがて迷子は、森川の機転で両親のもとへ帰っていった。
神崎と桑原は煙草を三週間分仕入れる。赤沢は水を、黒木は焼肉弁当を、白石は予備のペンを、氷室はカロリーメイトを、若月はシュークリームを、森川はコーヒー豆を買い、バスに戻った。
バスはいよいよ山道へと入っていく。
車窓の景色が深い森へと変わっていった。紅葉が始まった木々が両側に立ち並び、バスの到着を歓迎しているかのよう。
「標高が上がってまいりましたね」森川が説明する。「目的地は標高千五百メートル。外は少し肌寒いですからお気をつけてください」
やがて、深い谷を渡る一本の吊り橋が見えてきた。
「あれが、唯一の連絡路でございます」森川が手を向ける。
車は慎重に橋を渡った。眼下には深さ百メートルを超える谷。橋は頑丈に見えたが、何人かが思わず息を呑んだ。
「大丈夫でございます」森川が笑顔で言う。「台風にも耐えられる設計でございますから」
「山荘は……周りは崖なんですか?」白石が不安そうに尋ねる。
「はい、そうですね」森川が頷く。「四方を断崖に囲まれた台地の上に建っております。この橋が唯一の出入り口でございます」
橋を渡り切ると緩やかな登り坂があり、そこを少し上がったところに山荘が姿を現した。
* * *
「これは……素晴らしい」
神崎はバスから降りた途端、思わず声を上げた。
山荘は想像を遥かに超える壮麗な建物だった。
三階建ての木造建築。しかしその「木造」という言葉が持つ素朴さとはかけ離れた、洗練された現代建築だった。黒く染められた杉材の外壁が、周囲の森と調和している。屋根は緩やかな傾斜を持ち、大きな煙突が秋空に向かって伸びていた。
建物の周囲は全面ガラス張りになっており、どの角度からも雄大な山々の景色を楽しめる設計だ。遥か彼方には雪を頂いた峰々が連なり、手前には紅葉が始まった広葉樹林が広がっている。
外はひんやりと肌寒かったが、その寒さも忘れるほどに、皆はしばらく偉容に言葉もなく見入った。
「では、中をご案内します」
森川が重厚な木製のドアを開けると、一同の口から感嘆の声が漏れた。
エントランスホールは吹き抜けになっており、天井高は優に十メートルを超えている。正面には二メートルはある巨大な熊の剥製。床は磨き上げられた樫の無垢材。足を踏み入れるだけで、木の香りが鼻腔をくすぐる。
「一階がパブリックスペースでございます」森川が説明を始める。
エントランスの左手にはダイニングルーム。長さ五メートルはあろうかという一枚板のテーブルが置かれ、十二脚の椅子が整然と並んでいる。
ダイニングの奥はキッチン。業務用の設備が完備。裏口の先には本館から少し離れたところにある食料庫が見えた。
「外の食料庫に三週間分の食材を取り揃えております」森川が誇らしげに説明する。「地元の新鮮な野菜、肉、魚──非常食も含めて、十分すぎるほどの量でございます。冷凍庫は大人が三人は入れるほどです」
エントランスの右手には広大なリビングルーム。L字型の革張りソファが暖炉を囲むように配置され、コーヒーテーブルの上には山岳関係の写真集や文学書が積まれている。
リビングの奥には、ガラス張りの瞑想室。床には畳が敷かれ、座禅用の座布団が整然と並んでおり、その向こうに森が見える。
「二階が個室エリアとなっています」
森川に導かれて階段を上がる。階段は杉材で作られており、足を置くたびに、心地よい軋み音がした。
二階の廊下は真っすぐ奥まで通っている。両側に四部屋ずつ、計八部屋。各部屋のドアには、樹木の名前が彫り込まれた木製のプレートが掛かっている。
「楓」「欅」「栗」「樫」「檜」「杉」「松」「桜」
「お好きなお部屋をお選びくださいませ」森川が促す。
神崎が「桜」の部屋を開けると、一同がまた驚嘆の声を上げた。
部屋は三十畳ほどの広さ。天蓋付きのキングサイズベッド、書斎デスク、読書用のアームチェア、そして部屋専用の暖炉まで備わっている。バスルームも充実、アメニティも一流ホテルのそれと変わらない。一人で泊まるには贅沢なスペースだった。
「三階は図書室、ジムエリア、そして展望室になっています」
図書室はまるで小さな町の図書館。壁一面の本棚。中央には大きな読書テーブルと革張りの椅子がある。
「これだけ本があれば、三週間も困らなさそうですね」白石が呟く。
図書室の隣は本格的なジムエリア。ランニングマシンにウェイトトレーニング機器、ヨガマットもある。
展望室はガラス張りの空間で、空と周囲の山々を見渡せる。天窓からは柔らかな自然光が降り注いでいた。
「心身ともにリフレッシュできる環境ですね」黒木が感心したように言う。
「夜は満天の星空が見えます」森川が説明する。「街の明かりが一切ないので、天の川もはっきりと」
しかし、この豪華さの裏で、何か違和感を覚える者もいた。
赤沢はその観察眼で、山荘の構造を分析していた。一見開放的な外観をしているが、非常口は一階の裏口のみ。そこから出ても、周囲は断崖絶壁。吊り橋を渡らない限り、麓には降りられない。つまり、この山荘、そしてこの台地は美しい牢獄でもあった。
氷室もまた、冷静に周囲を観察していた。窓は全て内側からしか開かない設計。外部からの侵入はほぼ不可能。また遠くから人が来れば容易に気づけるほど、開放的なガラス張り。自分たち八人以外の人間はこの施設、この陸の孤島にはいないと感じられる。
「もうお気づきだとは思いますが、通信環境はございません」森川が改めて説明する。「携帯電話の電波も届きません。インターネットも使えません。緊急時のために、管理棟に衛星電話が一台だけございます」
「つまり、完全にオフラインってことですよねー」若月が少し不安そうに呟く。
「その通りです」神崎が満足げに頷く。「これこそが真のデジタルデトックス。現代人が失った『静寂』を取り戻す時間です」
※ここまでの登場人物です。
神崎 透 かんざき とおる・男性
グリーンライフファンド代表。端正な顔立ち。人を惹きつける雄弁さと、気品溢れる立ち振る舞いを兼ね備えている。
黒木 淳一 くろき じゅんいち・男性
大手銀行融資課長。丸縁メガネが印象的な誠実そうな顔立ち。高身長。ファンド運営において財務面を取り仕切る。
赤沢 麗 あかざわ れい・女性
弁護士。二十年のキャリア。鋭い眼光を持ち、弁舌滑らか。ファンドの法務全般、投資契約書を手掛ける。
白石 冴子 しらいし さえこ・女性
公認会計士。几帳面で誠実。小柄。タブレットを常に携帯。ファンドの監査全般を担当。
氷室 玲奈 ひむろ れな・女性
外資系戦略コンサルタント。モデル並みの容姿。冷静で分析力に優れ、ファンド戦略全般のアドバイザーを務める。
桑原 豪 くわばら ごう・男性
経済ジャーナリスト。大柄で豪快、笑い声の大きい男。自称イケオジ。ファンドの特集記事を数多く手掛ける。
若月 千尋 わかつき ちひろ・女性
フォロワー百万人超のインフルエンサー。明るく社交的で、若年層からの人気が高い。
森川 誠 もりかわ まこと・男性
山岳ガイド。二十年以上の経験を持つ実直なプロ。デジタルデトックスの世話役として山荘に同行。




