ある朝
「教えて欲しい。なぜ、こんなことができると確信して、実行できたのか?」
氷室は、黙る。
「氷室さん。あなたはファンドの出資者に誰も損をさせないよう差配した。それだけでなく、六千万円を山荘の管理団体に寄付した。──そんなあなたを、素晴らしいとも感じている」
「ああ、寄付のこと、私だと分かっているのね。匿名なのに。そうよ、ファンドからもらった給料の三年分。あんな穢れたお金は、全部寄付させていただいたわ」
そのとき、玄関のドアが開いた。
「あら、お客さんとは珍しいね」氷室の母親が声を掛けてきた。
「お邪魔しております。桑原健です」
「桑原さん、いらっしゃい。氷室がお世話になっております。こんな遠くまで、よく来てくれました。この子、友達がいるのか心配してたんです。ここに来る前もずっと仕事しかしてませんでしたし」
ごく普通の、娘を案じる母親の声だった。
健は一瞬、言葉に詰まった。──直感した。
この人は、知らない。自分の夫が何に巻き込まれて死んだのか。そして娘が、その復讐のために、何を、何年もかけて準備したのか。何一つ知らないまま、生きている。
「友達ではありませんが、氷室さんとお話ししたいことがあってお邪魔させていただきました」
「いえいえ、ごゆっくり。ああ、せっかくだから夕飯でも食べていってくださいな。玲奈、お肉がないわね。ちょっとスーパーに買い出しに行ってくるね」
「お母さん、今帰ってきたばかりでしょう。大丈夫よ」
「いいの、いいの。ちょっと行ってくるね」
そう言って、氷室の母親はまた出かけていった。
玄関のドアが閉まる。鍵の音がする。
その音が廊下に小さく反響して、消えた。
──氷室の頭の中で、ある朝の記憶が、ゆっくりと再生されていた。
父が亡くなった、翌朝。
氷室は一人、父の机を片付けていた。
家族の写真。古い手帳。読みかけの雑誌。
そして──一冊のクリアファイル。
「サンライズファンド」
中を開いた。
契約書。退職金と老後の貯金、一千万円。元本保証なし。
最後のページの署名欄──父の名前。
損失発生の通知。清算金の案内。諸経費控除後──二万円。
訴訟資料その一、その二、その三。敗訴の通知。
ファンド紹介資料。
中核メンバー、五人。
氷室はその五人の顔写真を、長い、長い時間、見つめていた。
涙は、流さなかった。
母にも、見せなかった。
ただ、その朝から彼女の人生は、一点に向かって動き出した。
そこから七年。
それが、彼女が計画と実行に費やした時間だった。
──そして今、復讐の計画は、完璧に果たされた。




