三か月後
エピローグ
三か月後
それから──
若月千尋は、SNSのアカウントを削除した。
「削除する」を押す指が、少しだけ震えた。
それでも、押した。
百万人いたフォロワーへの最後の投稿は、ただ一行──
「ありがとうございました」
とだけ書かれていた。
誰かに殺されるかもしれない。
飢えて死ぬかもしれない。
九日間、その恐怖に支配され続けていた。
だから、助け出されたあの瞬間──心と身体が、芯から温まるのを感じた。
それまで、生きていることは当たり前で、何も感じてなどいなかった。
生き延びて、初めて知った。生きていることの、有難さを。大切さを。
その実感の後で、あれほど夢中だったSNSが、ひどく空虚で、薄っぺらいものに感じられ──冷めた。
百万人のフォロワー。たとえそれが二百万人になろうと、ただの数字でしかない。
あの数字は、ひとときの興奮を与えてくれただけで、私を一度も温めてはくれなかった。
それなのに、もっと、もっと、って。
より多くの、いいねを、フォロワーを、追い求めていたあの自分は、何だったのだろう。
刺激に夢中になり、画面越しに映る世界の見栄えだけを気にして、麻痺していた。
自分が立っているこちら側の世界で、何も感じることなく、生身の感覚を、すり減らしていた。
このまま、人生の半分以上を、画面を覗いて過ごすのは、もう嫌だ。
画面の中ではなく、現実にあるものを、落ち着いて見たい。
ゆっくりと移ろう景色を、早送りではなく、等倍の速さで。
撮らなくていい。
加工しなくていい。
投稿しなくていい。
誰かに見せるためではなく、ただ、自分が感じるだけ。
雨上がりの、濡れた土の匂い。
風が運んでくる、どこかで咲いている花の匂い。
湯気が消えるまで、ゆっくりと味わう、温かい飲み物。
心を空っぽにして浸る、流れゆく時間。
しばらくは──これまで見過ごしてきた穏やかな日々を、この身に、ゆっくりと染み込ませたい。
* * *
森川誠は、山岳ガイドの会社を辞めた。
贖罪だった。
十五年間、山に立ち続けてきたのは。
判断を誤り、一人の客を救えなかった。その償いのために。
だが、その果てに、もっと取り返しのつかないことが起きた。
なぜ自分用の衛星電話を、別に持っていなかったのか。
なぜ万一に備えて、対岸へロープを一本、渡しておかなかったのか。それさえあれば、橋が落ちても、自分なら渡れた。
なぜあの夜、自分の部屋で眠ってしまったのか。二階の廊下を見張ってさえいれば、防げたかもしれない。
なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。
贖罪に意味などなかった。
何の意味もなかった。
自分の十五年は、いったい何だったのか。
いや。本当は、最初から分かっていたのかもしれない。
死んだあの人は、自分の十五年など望んでいない。
自分が、ただ、許されたかっただけだ。
──そして自分は、山に火を放った。
もう、山にいる理由も、資格もない。
山ではないどこかで生きよう。
そう決めて、ガイド証を返した。
しかし、心は山から離れなかった。
道具を捨てようとした。ロープも、ピッケルも、履きつぶした登山靴も。だが、ゴミ袋に手を伸ばしたまま、指が動かなかった。
別の仕事に就こうと、面接の予約を入れた。なのに当日、玄関で足が止まった。どうしても、その一歩が、出なかった。
身体が拒んだ。息が苦しくなった。
なぜなのか。
五人の死の衝撃が、まだ続いているのか。
死なせた自分を、まだ許せていないのか。
それとも、さらなる贖罪を、山に。
あるいは──山と共に生きてきた半生を、今さら変えられないだけなのか。
分からない。
いくつ理由を並べても、どれも当たっているようで、どれも違う気もする。
いくら考えても、分からない。
ただ、これからも山で生きていく。
ガイドとしてでもなく、贖う者としてでもなく。
ただ、山にいる一人の男として。
玄関の隅の、登山靴。
こびりついた土を、静かに払った。
* * *
森川は、ある山の頂に小さなカフェを開いた。
標高はさほどでもなく、名の知れた山でもない。だが、かえってそのほうが心は落ち着いた。
カウンターの内側には、若月の姿もあった。
ある日、一人の登山客が言った。
「ここのカフェラテ、すごく綺麗。インスタに上げてもいいですか?」
「もちろんです」若月が答える。「私も昔やっていたので……この角度だと、陽の反射がいい感じに入りますよ」
「ほんとだ。でも、ご自分では宣伝しないんですか。絶対バズりますよ」
「私はもう、デジタルはいいかなって。今はしばらく、山で静かに──落ち着いた生活を送りたいんです」
たしかにこのカフェは質素で、テレビも、音楽もない。ただ、静かに時間が流れている。
「そうなんですね。ここ、本当に居心地がいいです。また来ますね」
その言葉に、若月も森川も微笑んだ。
客が下山し、店に二人だけが残った。
「森川さん」
若月が、カウンターを拭く手を、止めた。
「私、ずっと後悔しているんです。どうしてあの企画を、神崎さんに持ちかけてしまったんだろうって」
森川は、コーヒーを淹れる手を、止めなかった。
「私が、皆さんをあそこへ呼んでしまった」
若月は、それきり黙った。
「若月さん、私もです」
森川が、蒸らしたコーヒー粉にお湯を回し入れながら、静かに言った。
「私は、あの五人を守れませんでした。防げる方法は、いくつもありました」
そして、湯気の向こうで、微かに笑った。
「だからこそ──今できることを。精一杯に。ここへ来てくださった方にだけは、ちゃんと美味しいコーヒーをお出しする。それだけです」
「……ありがとうございます。そうですね」若月が、少しだけ笑って頷いた。
「それにしても犯人はどこにいったのでしょうね」若月がふと言う。「警察の捜索でも見つかっていませんし」
「私は崖から落ちたのだと思います」森川が答える。「いずれにしても私たち三人でないことは確かです」
壁には、氷室が訪れた日に、三人で撮った写真が飾られている。
窓の外を、雲が、ゆっくりと流れていった。




