北の端の森
三人はしばらく、外の景色を見つめていた。やがて、氷室が口を開いた。
「ねえ、森川さん、若月さん」
二人が氷室を見る。
「ここにこのままずっといるより、行動したほうがいいんじゃないかしら」
「行動って……外に出るということですか?」若月が、思いがけない提案にきょとんとする。
「ええ、そう。外で動くの」
「え、でも外は危険じゃないですか?」若月が怯えた声で言う。
「行動とは、具体的に何をなさるおつもりでしょうか。この隔絶された土地から脱出することは、不可能かと存じますが……」と森川。
氷室は静かに語り始める。「今日で九日目。救助が来るのは、おそらく二十一日目以降。それだと、あと十日以上、このままでいなければならない」
「十日以上……」若月が小さく呟く。
「だったら、私たちのほうから外にこの状況を知らせたほうがいい。具体的には──山火事よ」
「山火事?」二人の声が揃う。
「山火事なら、私たちの居場所を知らせられると思う」
「私たちを、見つけてもらえるんですか?」若月が身を乗り出す。
「日本の気象衛星は、山火事が起きていないか常に全国を監視している、と聞いたことがあるの。火が起これば、高性能の赤外線センサーですぐに察知するはず……」
「そうなんですか! それなら、すぐに気づいてもらえそうですね!」若月が声を弾ませる。
「もちろん、こんな山奥だから、上手く見つけてもらえるかは分からない。でも、何もせずここにいるよりはいいと思う」
「……おっしゃる通りですね」森川が、考えながらゆっくりと頷く。「山火事。確かに、観測衛星は二十四時間、常に熱の異常値を感知できるはずです。しかし、自ら山火事を起こすなど、自殺行為も同然。それに、道徳的にも抵抗がございます」
若月が不安げな顔をする。「確かに……山火事って、一度火がついたら、止まらないんですよね? 消す手段も、何もありませんし……」
「その通りよ」氷室が言う。「ただ幸い、この山荘の周りは絶壁。燃え広がっても、このエリアだけで済む可能性が高い」
「……さようでございますね。この地の特性上、大規模な山火事にはならないとは考えられます。ただ、我々の住み処であるこの山荘が焼け落ちるおそれはございます」森川が言う。
「ええ。最悪の場合、それは覚悟のうえかもしれません。このまま犯人と十日以上、消耗戦を続けても限界があると思います。安心して食事をとることもできませんし」
「……氷室さんの言う通り、この暮らしを十日以上は、私も無理かもしれません」若月が、手首のロープを見ながら言う。
森川が眉を寄せ、目を閉じる。「火をつけた結果、犯人が玉砕覚悟で襲ってくる可能性もございますね」
「ええ。でも、それはこの状況なら、遅かれ早かれかもしれない。それなら、まだ体力のある今がいい」氷室の言葉に迷いはない。そして続ける。
「それに、やるなら今。雲が晴れて、陽が差している今よ。また曇れば火事が起きても見つけてもらいにくいし、雨が降れば、そもそも火を起こせない」
三人の間に、しばらく沈黙が流れた。
森川が、ゆっくりと口を開く。
「承知いたしました。やりましょう。今すぐに」
「私も賛成です。山火事なんて、普段なら考えられませんけど……こんな状況なら、やるべきだと思います」若月も拳を握る。
「二人とも、ありがとう」氷室が続ける。「若月さん、その前に、この山荘の写真を沢山撮っておいてもらえる? 燃えてしまったときのために」
「はい、分かりました」若月が、任せてくださいとばかりに胸を叩く。
森川も、力のこもった声で言う。「着火剤を取りにまいりましょう。薪もでございます。それと、火をつける場所は北の端の森がよろしいかと。あそこなら開けておりますし、周囲の森とも離れております。延焼の範囲が小さくて済むかもしれません。対岸までも広く、向こう側へ燃え移る心配も少ないかと」
そこからの三人は、早かった。
ロープで繋がれたまま、写真を撮り終え、白石や赤沢が遺した手帳も回収し、水や食料も屋外の燃え移らない場所へ移した。そして薪と着火剤を手に、北のエリアへと向かい始める。
不思議と、ロープに繋がれていることは、もう苦ではなく、当たり前のことのように感じられていた。
北のエリアに到着した。
三人とも大きく息が上がっていた。削られた体に、薪の束が重い。
サッカー場の半分ほどの一帯に、木々が生い茂っている。森川の言う通り、周囲は開けていて、簡単には燃え広がらなそうだ。対岸も、十分に遠い。
「雨上がりで湿っているかと思いましたが……」森川が森へ足を踏み入れる。「中は、だいぶ乾いておりますね。もう秋ですし」
「良かった」氷室が安心した様子で言う。「犯人の姿もないですし、今のうちにやりましょう」
「これから、火を点けるんですね……なんだか、いけないことをしているみたいです」若月が言う。
「そうですね。ただ、今は大きく燃えて欲しい……」氷室が、森を静かに見つめる。
それから三人は、薪を森の奥へと運び入れた。
森川が手際よく組み上げていく。細い薪を内側に、太い薪を外側に。腰の高さまで積み、着火剤を仕込む。
準備は整った。
森川が、ライターを握ったまま、手を止めた。
「……お二人とも、少しだけ聞いてください」森川が、ぽつりと言った。
「十五年前のことでございます。私は、雪山登山のガイドをしておりました。そのときは、ご家族連れのお客様で。天候が急変するのは分かっていたのに、私の判断が、三十分、遅れたのです」
風が、その言葉を運んでいく。
「若い女性のお客様が、お一人。雪崩に巻き込まれて……お救いできませんでした」
若月が、息を止めた。
「ご家族の方に、何度も頭を下げました。それでも、あの方は、戻ってはまいりませんでした」
森川の声が、震えた。
「私は、山で、人を死なせてしまった。その償いのために、この十五年、山の仕事に身を捧げてまいりました」
「それなのに、今回──五人をお守りできなかった。神崎さん、黒木さん、白石さん、赤沢さん、桑原さん」
森川が、ライターを見つめる。
「だから、せめて、あなた方お二人だけは、必ずお助けしたい。そのためなら、山に火を点けます。山の神様にも、何度でも頭を下げます」
若月が、何も言わず、その肩にそっと手を置いた。氷室は、真剣な面持ちで見つめている。
森川は目を閉じ、深く息を吸った。
「山よ、どうかお二人をお救いください」親指がホイールを回す。火花が散った。
着火。
積み上げた薪が、燃え上がる。勢いが強い。またたく間に、二メートルほどの高さになる。
風が吹いた。薪から、木へと飛び火する。
「危のうございます。逃げましょう」
三人は森の縁へ走った。若月が転びかけるのを、森川の腕が引き寄せる。氷室も肩を貸す。身を寄せ合うようにして、三人は開けた場所へ飛び出した。
振り返る。火は、もう消し止められる大きさではなかった。
木から、木へ。炎は生き物のように広がっていく。橙色が、森の輪郭を塗り替えていく。
煙は太く、まっすぐ、秋の空へと立ちのぼっていった。
「燃えている」森川が、炎を見つめたまま、小さく呟いた。
「……燃えすぎですね」若月が静かに言う。「でも──これでいいんですよね」
氷室が、火を見つめたまま言った。「見える。遠くからでも、必ず見える」
三人は息を整えながら、立ち尽くした。
山の空気は冷たい。足元の草が、風に揺れている。
熱が頬に当たる。煙の匂いが、鼻の奥に届く。
山荘に来てから、九日間。その全てが、いま、この炎の中にあるような気がした。
「来ますよね?」若月が、ぽつりと言う。
「必ず来ます」森川が、即座に答えた。
「ええ、きっと」氷室も答える。
炎は、力強く燃えている。
白い煙が、青空に刻まれていった。




