葉巻
第十一章 傍観
「ジャーナリストって、他人がやったことをただ伝えるだけだろ? それの何が楽しいんだ?」
社会人三年目のとき。大学の仲間との集まりで、友人の一人から桑原はそう聞かれた。
「おいおい、そりゃあんまりな言い草だろ。……まあ、大勢に事実をぶつけて、それで人を動かせる。案外、そこが楽しいのかもしれねえな」
「へー、人を動かすのが楽しいのか? でもその人を動かす事実は、自分で作った事実ではないよな?」
桑原は少し考えて答える。
「言われてみりゃ、確かにそうだな。こっちが事実をこしらえるわけにはいかねえしな。捏造だけは、絶対にやっちゃならねえ」
「それなら、やはり自分ではなく、誰かが作った事実で、人を動かしている。ただのメッセンジャー。それでも楽しいのか?」
しばらく沈黙。そして答える。
「ああ、楽しいさ。理由なんて俺にもよくわかんねえよ。わかんねえけど……不思議とな。誰もまだ知らねえ事実を、いちばん先に届けてやる。ひょっとしたら、その『届ける』ってこと自体が楽しいのかもしれねえな」
三十年前の何気ない会話。ただ、今も鮮明に覚えている。
そして、仮にあの日に戻れたら、自分はこう訂正するであろう。
「人を動かすのが楽しいのではない。人に届けるのが楽しいのでもない。ただ、人を見るのが楽しいんだ」と。
桑原は、白石のことが好きだった。
──叶わねえ恋だってことは、最初から分かってた。最初からな。
──白石は神崎のことが好きだ。俺なんざ眼中にねえ。もう嫌ってほど分かってる。
──俺自身、神崎のことは認めている。男の俺から見ても、あいつは魅力的でな。稼がせてももらった。あいつが白石の男になるなら、仕方ねえ。覚悟を決めていた、ってやつだ。
──二人が一緒になるなら、祝福するつもりだった。ただ神崎には端からその気はなかったようだがな。
──金は、一人で普通に生きていく分には、もう十分ある。金儲けなんて、どうでも良かったんだ。ただ、白石の近くにいて、白石を見ていたかった。だから、この仕事を続けてた。
──たとえ白石と夫婦になれなくても、この仕事をしてりゃ、白石に会える。会い続けられる。言葉も交わせる。月日が経って、お互い歳を取ったなと、笑い合える日もきっとくる。
──俺はそれ以上は求めねえ。ただ彼女の近くにいられりゃ、触れられなくたって構わねえ。
──俺は一生、傍観者でいい。そう決めたんだ。
──見てるだけで十分に幸せだった。今の、この微かな幸せが、消えなけりゃ、それで良かった。
桑原は葉巻の煙を大きく吐く。白い煙が彼を包み込みながら、深い霧に同化していく。
──ただ一つ、他に楽しみがあるとすりゃ、このファンドがこの先、成功するのか失敗するのか、それを見届けることだった。
──上手く行ってもいい、だめになってもいい。ただ、こいつがどこまで行くのか。それを見るのが楽しみだった。本当にな。
──だが、二つとも消えちまった。
──白石は殺された。もう二度と彼女を見ることはできねえ。タブレットに向かうときのあの真剣な顔も、投資家からお金が集まったときのあの満面の笑みも、もう見られねえ。
──ファンドももうダメだ。メンバーの大半が死んじまった。運営なんざ、もう不可能だ。三百億、四百億の大勝負、見届けたかった。それが、まさかこんな結末になるとはな。
──だからさ、引くんだ。自分で、幕を。
──綺麗に終わらせてやるさ。俺の、そしてこのファンドの物語をな。
──一口吸っただけで分かったさ。唇と舌の先が、じんとしびれてくる。やはりこの葉巻には毒が入っている。気を付けろとは言われてたが、今はもう、これがありがてぇ。
──そもそも、もう十分に生きたさ。医者に癌と言われたときも、半分は受け入れてた。
──それに今はもう、こんな世界にしがみつく理由もねえ。だから俺に、後悔はねえ。
──俺はこの山荘で終わる。結局、犯人は分からずじまいだが……みんな無事に出られるよう、あの世から祈っといてやるぜ。
──俺の記事を読んで、これなら投資家が沢山集まりますねって、嬉しそうに言った白石の笑顔、最高だったな。
──二号ファンドも、楽しみだったな。もし立ち上がってたら、どんな展開が待ってたんだろうな。
──さーて。人生、満更でもなかったな。
──最後はちょいと残念だったが……十分、いいもん見させてもらったぜ。
桑原が葉巻を吸い終える。指の力が、ゆっくりと抜けていく。
葉巻が、ことり、と灰皿の縁に落ちた。小さな音だった。
そして──体が、ゆっくりと倒れた。
桑原豪は──静かに、絶命した。




