三十三億円
* * *
金が全て。
それこそが、赤沢という人間の生き方の根本であり、かつ唯一の行動規範であった。
金儲けの話を聞くと、品がないという人がいる。マネーゲームとか、成金主義とか、お金が全てかのような主張を、下品だと蔑む向きもある。お金が欲しいだけでしょ。そういう捨て台詞は、相手を見下すような響きもある。守銭奴、金の亡者、ハゲタカ、ハイエナ……金儲けを揶揄する言葉は多くある。
神崎が赤沢に聞いたことがある。そういう言葉や台詞をどう思うかと。
赤沢はきっぱりと答えた。
「それら一切は、論理的整合性を欠いた、感傷的かつ幼稚な言説に過ぎず、社会構造を正しく理解しない者の戯言という評価に尽きます」
──この資本主義社会において、金が全て。世の中は金で回っている。マネーゲームも成金主義も、当たり前のことよ。「お金が欲しいだけでしょ」──そう言われれば、迷わず「ええ、その通り」と答えられるわ。
──そもそも人間社会は、無数の人々の協業によって成り立っている。食料を生産する人、住居を建てる人、衣服を仕立てる人、サービスを提供する人、エンターテインメントを作る人……。その一つ一つの営みを結びつけているのが、お金のやり取りなの。お金という媒介があってこそ、社会は動いている。そしてお金を稼ぐということは、それだけ多くの価値をこの社会に与えたという、何よりの証なのよ。
──より多くのものを、より美味しいものを、より高機能なものを、より優れたものを、より楽しいものを提供した人が、より多くの対価を受け取る。ごく当然の理屈でしょう。お金儲けを否定するということは、つまり、人間社会の仕組みと、そこへの価値提供そのものを否定しているということ。それを理解していない人が、あまりにも多すぎる。まったく、物事を俯瞰する目を持たない、近視眼的で愚かな人の、なんと多いことかしら。
──騙し取るのはダメ? そんなことはないわ。人間の歴史なんて、しょせん騙し合い。今だって何も変わらない。たとえば私たちは年金を払っているけれど、それがそっくりそのまま、私たちの世代に返ってくるとでも? どうして貧しい人まで、保険料や消費税を払うのが当たり前のように受け入れられているの? 私たちは、とっくに騙されているのよ。お金の足りない人から必要以上に奪い取り、有り余っている人へと流し込む──そんな仕組みが白昼堂々とまかり通り、あろうことか法律にまで刻まれている。それなのに、グリーンライフファンドは詐欺だと言うの? まったく、意味が分からないわ。
──私たちのファンドは、夢を見せているのよ。「こんなにも儲かるのか」という高揚感。高級クラブの会員にでもなったかのような、特別なプレミアム感。そういうものを与えているのよ。ただ吸い上げるだけの保険料や税金とは、わけが違う。このファンドの投資家たちが、地道にコツコツと働いたところで決して味わえないような興奮──それを、私たちは提供している。夢を与え、その対価をいただく。それの、どこがいけないのかしら。
幼い頃、赤沢の家に金はなかった。
冬になれば電気もガスも止まった。底冷えのする部屋で、母は督促状を前に泣いていた。家主が玄関で声を荒げても、母はただ頭を下げ続けた。その丸まった背中を、赤沢は廊下の陰から見ていた。
唯一の宝物は、縁日で掬った一匹の金魚だった。けれど暖房のない冬の朝、冷えきった水に腹を返して浮いていた。金がないとは、守りたいものさえ守れないということ。あの朝、赤沢は理解した。
今も、幼い頃のそのトラウマに、怯えている。それが赤沢の正体だった。
──さて、現実に目を向けましょうか。神崎が殺された今となっては、二号ファンドなんてもう無理な話。あの人がいなければ、ボロが出るに決まっているもの。そしてボロが出れば、二号ファンドどころか一号ファンドまで一緒に崩れて、後には何ひとつ残らない。
──それなのに、天国の神崎を喜ばせたいなどと言って、無理やり二号ファンドを立ち上げようとした白石──本当に救いようのない馬鹿。まさに愚の骨頂。生きている価値などないわ。もうファンドはお終い。お終いなの。引き際が肝心なのよ。残ったお金を持って、さっさと消えるべきなの。まあ、それでも六人が三人に減ったぶん、私の取り分も倍。それだけあれば、一生遊んで暮らせるわ。
──でも、まずはここを生きて出ないことにはね。……それにしても外部犯は、やけに大人しいわね。まあ、これだけ団結して籠城されたら、さすがに手も出しづらいのかしら。
窓の外は、深い霧に包まれていた。
山の輪郭も、木々の影も、全てが乳白色の中に溶け込み、世界の果てがそこで消えているようだった。
赤沢はキッチンに着くと、電気を点けて周囲を確認する。
外部から誰かが侵入した様子はない。
この山荘にいるのは間違いなく自分たち五人だけだ。
キッチン台に水の入った二リットルのペットボトルが置いてあった。
未開封。
ひねって蓋を開ける。
ピシッ、と音が鳴る。
洗い終えたコップが五つ干してある。
自分のコップを見つける。
水を注いで、一口飲む。
喉を冷たい感覚が通り抜ける。
──何かが違う。
水を含んだ舌が、かすかにしびれた気がした。
気のせいかもしれない。
二口目を飲もうとした瞬間、舌がしびれ、喉の奥が焼けるように熱くなった。
手で口を押さえる。
よだれが溢れ、込み上げたものを吐く。
二度、三度。
手足がしびれ、力が入らないまま、キッチンに倒れ込む。
床の硬さが、後頭部を通じて伝わる。
もだえる。何度も、何度も。
伸ばした指が、ふるえて、宙を掻く。
やがて、意識が、だんだんと、遠のく。
──あの三十三億も、遊んで暮らすこれからの生活も。その思いを最後に、赤沢麗の指から力が抜けた。




