八日目
第十章 拝金
山荘に来て、八日目。
三日目となった五人の共同生活は、いつの間にか、ひとつのリズムを持ち始めていた。
朝は森川が最初に起きて、キッチンで湯を沸かす。コーヒーの香りがリビングまで漂い始めると、一人ずつ毛布から抜け出してくる。
そして朝食の準備を皆でする。食事の量は少ない。それでも誰も文句を言わず、ただ、静かに食べた。
「カロリーメイトがまだございます」森川が手帳を開いて言った。「缶詰と乾麺、米、合わせると──十八日目まで持ちそうです」
「あと十日分か、予定通りだな」桑原が親指を立てる。
「山荘に来てから、もう八日ですわね」赤沢が言う。「救助が来るまでうまくいけばあと二週間。このままのペースで行けば大丈夫ですわ」
「そうですね、犯人も音沙汰無しですし」氷室が言った。
「もう疲れて倒れちゃってるのかもー」若月が言う。
「そうかもしれませんね。お天気もずっと悪うございますし。外で耐えるのも限界でしょう」森川が頷く。
外部犯の気配は、この二日間、まったくなかった。
最初の夜は、物音のたびに全員が身を固めた。廊下の軋みにも、風が窓を叩く音にも、反射的に立ち上がった。しかし何も起きなかった。
「もう来ないんじゃ──ワンチャン──」若月が言った。
「断言はできません」赤沢がそう言った後で続けた。「でも──そうかもしれませんわ」
油断はしてはいけない。それは分かっている。しかし何も起きない時間が続くほど、五人の体から少しずつ緊張が抜けていった。
気づけば、二、三分なら一人で動くことも増えていた。トイレへ。キッチンへ。以前なら必ず声をかけて誰かを連れて行った場所へ、今は「ちょっと行ってきます」の一言だけで動けるようになっていた。
「殺されてもいいから煙草を吸うぜぇ」桑原はそう言って外で吸うようになっていた。二階の喫煙所にはもう入れないので、玄関から外へ出るのだ。
「くれぐれも玄関付近でお願いいたします」森川はそう念押ししていた。
「私も付き合いますよ。昔は吸っていたので」そう言って氷室も時折、煙草に付き合った。
「お風呂、入りたいですね」若月がぽつりと言ったのは、午後のことだった。「何日入ってないんだろう」
全員がしばらく黙った。
「確かに」桑原が苦笑いした。「言われてみれば、皆少し匂うな」
「お風呂は二階にしかございませんが、一階でもお湯は出ます」森川が言った。「子供用のビニールプールがございますので、そこにお湯を溜めれば入れますね。場所は瞑想室がいいかと存じます」
「キッチンからホースで繋ぐのですね。私も入りたいかな」氷室も言う。
「じゃあ──入りましょう」赤沢が言った。「交代で。瞑想室はリビングからガラス張りで見えてしまいますので、女性が入るときは男性がダイニングへ。男性が入るときは女性がダイニングへいるようにしましょう」
順番を決めた。若月が最初に入り、次に氷室、赤沢、桑原、森川の順だ。リビングとダイニングで男性と女性が分かれているものの、何かあったら駆け付けられるようにドアは開けっ放しにしていた。
お風呂に入る音が、山荘に響いた。
日が高いうちに五人全員が風呂を終えていた。
さっぱりした顔でリビングに五人集まったときに、若月が「みんないい顔してる」と言った。
笑いが起きた。久しぶりの、力の抜けた笑い声だった。
窓の外では、雨が細く降り続けている。
それでも今日は──昨日より、少しだけ明るかった。
* * *
それからの時間も、ゆるやかに流れた。
桑原が本棚から文庫本を一冊抜き取り、ソファに腰を沈めた。「こんな時に読む気になるとは思わなかった」と呟いたが、数ページめくるうちに真剣な目となって黙り込んだ。
若月は窓際の椅子に座って、外の雨をぼんやり眺めていた。スマートフォンは使えない。SNSもない。ニュースも来ない。ただ、雨を見ていた。
「なんかー、こういうの久しぶりですね」若月が言った。「何もしない午後ってー」
「デジタルデトックスって、最初はこれが目的だったんですよね」氷室が苦笑いした。「こんな形で体験するとは思わなかったけど」
若月と氷室は顔を合わせて笑い合った。
桑原は本を胸に乗せたまま、いつの間にか目を閉じていた。
森川は暖炉の薪を整え、しばらく火を見つめていた。
赤沢は手帳に何かを書き込んだ後、そっと閉じて、外をぼんやりと見つめた。
夕食後、皆で片付けを終えて、リビングに戻ると、桑原は外に一服しにいった。森川は山荘内を点検しに回った。赤沢はストレッチをし始めた。氷室と若月は小声で何か話していた。
夜が更けて、やがて一人、また一人と、うとうとし始めた。
若月はクッションに頬をつけ、子供のように眠っていた。暖炉の火が、その顔をやわらかく照らしている。
氷室は姿勢正しく、アイマスクと耳栓をして寝ている。
森川も寝床に入り、間もなく寝息が聞こえた。
テレビの映像も、スマートフォンの通知も、明日の予定も、何もない夜。
ただ、雨の音、風の音、火の音、そして誰かの寝息だけがある。
山荘が、静かに夜へと沈んでいった。
今夜の見張りの赤沢と桑原は、じっと外を見つめていた。
* * *
静まり返ったリビングで、赤沢が桑原に小声で話しかける。
「今日も一日何もなくてよかったわね」
「ああ、そうだな。このままいけばいいが」
「ここから無事に出られたら、ファンドを解散して海外逃亡しましょう」
「ああ、そうだな。残念だ」
「百億円あるわ。私とあなたと氷室さんで分けて三十三億円。十分な金額よね」
「ああ、そうだな」
「お金を返さず、訴える人がいても、うやむやにできそうよ。契約上は、こんなに沢山の運営者が死亡するケースは想定してないけど、事実確認の期限延長と非常事態条項の援用をしていけば、乗り切れると思うわ」
「ああ、そうだな」
「桑原さん、さっきから上の空ね。何か考え事かしら?」
「ああ、すまねえ。さすがの俺も参っているようだ」
「分かりますわ。ただ、この山荘を抜ければ三十三億円。夢のような生活が待っていますわ」
「ああ、そうだな」
桑原はまたそう言って、ぼんやりと外を眺めている。
赤沢は、今はもうダメね、という表情を浮かべる。
「のどが渇いたから水を飲んでくるわ」
「ああ、俺は、外で葉巻でも吸ってくるぜ」
「あら、煙草ではなく、葉巻なのね。外、くれぐれも注意してくださいね」
桑原は返事もせずに先に立ち上がり、外へ出ていった。
赤沢はため息をつきながら、一人キッチンに向かった。




